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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

万博も開幕し、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

奈良まほろばソムリエの会/2016年度総会、講演会、5周年祝賀会を盛大に開催!

2016年06月20日 | 奈良にこだわる
昨日(6/19)、NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の通常総会、記紀万葉講演会(講師:奈文研の馬場基氏)、5周年祝賀会が盛大に開催された。祝賀会の様子は同日夜の奈良テレビニュースで報道されたほか、今朝(6/20)の奈良新聞に掲載された。全文を紹介すると、
※トップ写真は、新入会員および今年の「奈良まほろばソムリエ」合格者

奈良まほろばソムリエの会 
5周年で祝賀会 一丸で奈良伝える

NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」(小北博孝理事長、約310人)の発足5周年祝賀会が19日、奈良市法華寺町の奈良ロイヤルホテルで開かれた。会員ら約90人が出席した。


小北理事長は、理事長退任を表明された(第1部の通常総会)

同会は奈良商工会議所が主催する奈良まほろばソムリエ検定の最上級資格「奈良まほろばソムリエ」の合格者の交流の場として平成23年に発足。25年にはNPO法人となり、入会資格を合格者以外にも広げた。観光ボランティアガイド事業などを通じて奈良の文化・観光振興に努めている。

祝賀会で小北理事長は「奈良の歴史・文化を伝える活動に、会員一丸となって取り組んでいく」と決意を述べた。来賓として出席した奈良新聞社の甘利治夫代表取締役は「奈良への熱い思いを持つ皆さんの力で奈良の正しい歴史を検証し、伝えていってほしい」と期待を寄せた。

第3部の祝賀会で祝辞を述べる甘利治夫氏(奈良新聞社代表取締役)

この日の通常総会(第1部)で小北理事長は退任された(新理事長は、このあと互選により選出される)。「奈良まほろばソムリエ友の会」の会長から数えて5年間、当会を引っ張っていただいた。ほかに5名の理事が退任、代わりに新たに6名の理事が加わった。第2部では、奈良文化財研究所都城発掘調査部の主任研究員・馬場基(はじめ)氏が「万葉集から古代都城の変遷を探る」と題し、ご講演。第3部の祝賀会では、奈良女子大学の「JzazzyClub」によるジャズ演奏が披露された。

奈良まほろばソムリエの会も5周年を迎え、ますます忙しくなってきた。ガイド活動や講演活動に加え、最近では文化財の調査などでも成果を上げている。モットーは「インプットよりアウトプット」。持てる知識・経験をフルに活かし、奈良の文化・観光振興に邁進してまいりたい。会員の皆さん、これからも頑張ってまいりましょう! ブログ読者の皆さん、何かご希望がございましたら、
info@stomo.jp
に、ご用命ください!


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真田丸(23)攻略

2016年06月19日 | 日々是雑感
先週(6/12)のNHK大河ドラマ「真田丸」は「第23回 攻略」だった。これはもちろん、「北条氏政」(高嶋政伸)攻略である。NHKのHPからあらすじを拾うと、

秀吉は20万を超える兵を集め小田原を包囲するが、関東の覇者のプライドに縛られた北条氏政は絶望的な状況にも降伏を拒否する。昌幸と信幸は北条方の拠点、忍城を攻めあぐねる。秀吉から武功を上げるよう命じられた石田三成が本陣から乗り込んでくるが、昌幸らと対立する。一方、信繁は徳川家康と大谷吉継に呼び出される―。

最近、高嶋政伸(北条氏政)は「怪優」とか「怪演」といわれている。世に怪優といわれる役者は多い。最近では『半沢直樹』で大和田常務を演じた香川照之が挙げられるが、「真田丸」での高嶋政伸は、まさに怪優の怪演だ。オリコンのHPに、こんな話が出ている。タイトルは《【真田丸】北条家滅亡 高嶋政伸の“怪演”を支えた「基礎」練習》。


NHK大河ドラマ『真田丸』第24回「滅亡」でいよいよ追いつめられる北条家。真田家との領地争いが引き金となり、豊臣秀吉(小日向文世)は20万を超える兵を集め、小田原を包囲。関東の覇者のプライドに縛られた北条氏政(高嶋政伸)は絶望的な状況にも降伏を断固拒否した。そして、どんどん白く厚化粧になっていく氏政の顔。それはそれは不気味であり、化粧を施す姿からは氏政の動揺の大きさが痛いほど伝わってくる。役者としての高嶋政伸の真骨頂ここにあり。

「僕の芝居を観て『怪演』とか、僕のことを『怪優』とおっしゃっていただけるのはとてもうれしい」と高嶋。「本当に人間と向き合って演じていかなければいけないシーンは、神経質に、几帳面に、丁寧に演じる。それがあっての変化球になるのかな」と怪演の秘けつに言及した。

『真田丸』の撮影に参加している間も「別の戯曲や台本を毎日読んで」いたという。「基本的に本番だけやっていると、演技のクォリティーが下がる気がするんです。古典的なもの、太宰治の短編『トカトントン』などを声に出して読むとか、若い役者さんに付き合ってもらって2人芝居の戯曲を読むとかしてキープする。きちんとした基礎がないと、変化球も中途半端になっちゃうので、そうはなりたくないんです」。“怪演”で人の心をつかむのも豊富な経験や演技力の下地があってこそだ。

思い返せば、第1回の終盤、これからドラマに絡んでくる人物の1人として、飯に少しずつ汁をかけながら食べている氏政の姿が映し出された。氏政の父である北条氏康が「息子・氏政のご飯を食べている様子を見て嘆いた」という逸話に由来するシーン。「最初に汁かけ飯というのは大きかったですよね。あそこでキャラクターの方向性がはっきり見えました」(高嶋)と同時に、視聴者にも強烈なインパクトを残した。この汁かけ飯のシーンは、放送されるたびにネット上で大反響を巻き起こした。

秀吉が小田原城に大軍を差し向けてからの氏政はさらに狂気の度合いが増し、高嶋の演技もギアチェンジ。北条家の滅亡に向かってアクセル全開となった。「動乱の世を100年以上生き抜いてきた北条家の4代目として、氏政にはほかの武士たちにはない独特の余裕がありました。それが、秀吉に攻め込まれ、追い詰められ、余裕がなくなってきた時にこそ、本当の氏政の人間性が現れてくる。それをどういうふうに演じきることができるのか。いままで演じてきた役、いろんな経験を総動員して演じました」と高嶋。

「顔におしろいを塗っていくんですけど、厚くなるほどヒビは入るし、崩れていきますよね。心の中が崩れていくのと同じように。壊れたピエロみたいに滑稽(こっけい)にも見えます。だけど本当はこの人は怪物なんかではなく、典型的な武将だったと思う。優秀な武将だったけど、時代を読む力がほんの1ミリだけ足りなかったのかな。その1ミリが、ものすごい差だった。時代のほうが1ミリだけ早かった」と戦国の世に散った氏政に思いを寄せていた。



《『真田丸』の撮影に参加している間も「別の戯曲や台本を毎日読んで」いた》とは、すごい。単なる2世タレントではなかったのだ。今夜(6/19)の「第24回 滅亡」ではどんな演技を見せてくれるのか、楽しみである。

高嶋は、北条氏政を評して《時代を読む力がほんの1ミリだけ足りなかった》と語っているが、藤丸タダアキさんは、「秀吉は長期戦を考えていた」しかし「北条はそこまで考えてなかった」、それが1ミリの差だと考える。北条軍は「兵農分離の進んでいない軍隊」、豊臣軍は「戦争専属の軍隊であり、365日戦争ができます」「秀吉はおそらく2~3年分の食糧は持ってきていたのではないでしょうか」。

私はよく「大坂冬の陣・夏の陣はありましたが、春の陣・秋の陣は、なぜなかったのでしょう?」。答えは、春と秋は農繁期なので兵隊が集まらなかったから。兵農分離の進んでいない時代には、農民がいなければ戦ができないのだ。だから北条がいくら籠城戦が得意でも、その期間はたかが知れている。そんな小田原城を2年でも3年でも攻めることのできる豊臣の「戦争専属の軍隊」が取り囲めば、どうなるか。それが「1ミリの差」だったのだろう。

今日は前置きが長くなった。お待ちかね、藤丸タダアキさんの解説を以下に紹介しておく。氏政がどんな最期をとげるか、今夜の放送をお楽しみに!


大河ドラマは、真田丸は23話まで進み、1つの見どころを迎えています。主人公の真田信繁の主な戦歴は4つあると思います。第一次上田合戦・小田原征伐・第二次上田合戦、大坂の陣。23話攻略では、その一つ、小田原征伐に差し掛かります。今日は出張先です。まとめる自信がないのですが、真田丸23話攻略の感想を書きます。

豊臣秀吉による度重なる譲歩を引きだした北条氏政。それにも関わらず、氏政は再度の上洛の要請を断りました。そのあげく、氏政の家臣は豊臣傘下となった真田の土地を横領します。秀吉軍は21万人の軍勢を率いて小田原に向います。秀吉は当初から持久戦を考えていたのでしょう。そこで石田三成に食糧等兵站の準備を命じます。三成を始め豊臣家の官僚は、素早く間違いない能力を持っています。

一方の北条氏政。実は初戦は駿河にも攻め込んでいました。しかし秀吉の本軍が来ると、さっさと小田原城に引き上げます。この小田原籠城は実は北条家のお家芸(いえげい)なんです。このお家芸で、10万人にも膨れ上がった上杉謙信の大軍もやり過ごしました。謙信は1か月しかお城を囲んで攻めることができませんでした。

武田信玄の総勢3万名あまりの軍にも小田原籠城でやり過ごしました。信玄は4日しか包囲をせず、撤退します。それにはこれまでにも書いてきましたが、理由があります。小田原城は長大な城壁をもつ難攻不落の城でした。しかし、それは兵農分離の進んでいない軍隊による戦いでした。兵農分離が進んでいない軍隊は農繁期には戦争はできません。つまり、最長でも半年も戦争ができないんですね。なので、籠城していれば、これまではなんとかなりました。

しかし、秀吉の軍はいわば全員、戦争専属の軍隊であり、365日戦争ができます。北条家はそこまで近代化が進んだ豊臣家について認識不足だったのでしょうか。板部岡紅雪斎は豊臣家を大坂まで行って見てしまいます。合理的な集権体制を見て勝てないと思ったのでしょう。秀吉はおそらく2~3年分の食糧は持ってきていたのではないでしょうか。北条家はこの後、内部分裂なども起こして終焉が迫っています。それをふまえて、真田丸23話攻略の感想はざっと以下の通りです。

1.秀吉は長期戦を考えていた。
2.北条はそこまで考えてなかったのかな。
3.秀吉の読みが勝った。

という感じです。

石田三成は忍城攻めを任されます。これは秀吉による三成への思いやりかなぁと思います。しかし、三成は忍城攻略に失敗します。三成の戦争下手という評判はここで決定的についてしまいます。秀吉の高松城攻めの水攻めを参考に忍城を攻めます。しかし、堤の設計の計算ミスだったみたいですね。真田丸23話攻略の感想を書きました。
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クラブツーリズム奈良/ヤマトロジー講座「南朝・後南朝」 6月25日(土)開催!(2016 Topic)

2016年06月18日 | 奈良にこだわる
毎月第4土曜日(13:00~14:30)に開催している「まほろばソムリエのヤマトロジー講座」、6月は「入門!南朝・後南朝とその史跡」、講師はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の前川光正さんである。
※トップ写真は前川講師。クラブツーリズム奈良旅行センターで撮影(2015.9.6)

開催場所は、近鉄奈良駅ビル5階の「クラブツーリズム奈良旅行センター」、参加費は1,200円である。肩のこらない歴史の話だ。まだ残席があるので、ぜひお申し込みいただきたい(お申し込みは、こちら)。同センターのHPによると、

■6月 「入門!南朝・後南朝とその史跡」
「歌書よりも軍書に悲し吉野山」(各務支考)。 吉野に本拠が置かれ、『太平記』にも登場する南朝、その後、南朝再興を図ろうとした後南朝。秘められた哀史とその史跡をやさしく紹介いたします。


『太平記』とは《南北朝の動乱を描く軍記物語。40巻。小島法師〔?-1374〕が作者の一人。南北朝時代から数回にわたって書きつがれ,1370年代に現在の形になったと考えられる。北条高時の失政,後醍醐天皇の北条氏討伐計画に始まり,建武新政の完成と崩壊,足利尊氏の謀叛(むほん)を経て南北両朝の対立に至る50数年間の動乱を描く》(百科事典マイペディア)。

『太平記』は1991年(平成3年)、NHKの大河ドラマになった。吉川英治の『私本太平記』が原作で主人公が足利尊氏(真田広之)だったので尊氏を中心とした描き方になっていて、後醍醐天皇(片岡孝夫)があまり登場しなくて残念だった。楠木正成も武田鉄矢で、これはちょっと軽すぎた。北条高時のバカ殿さまぶりは、片岡鶴太郎が好演していた。今の『真田丸』とは違って堅苦しいドラマだったが、平均視聴率は26.0%、最高視聴率は34.6%(関東地区)と、今では考えられない数字だった。

後南朝の話はあまり知られていない。谷崎潤一郎の『吉野葛』や白洲正子の『かくれ里』に登場する程度だが、ここにも悲しい歴史がある。これらを講師の前川ソムリエがどのように料理するか、これは見ものである。おそらくお得意のダジャレも連発されることだろう。

この写真は奈良文化女子短期大学で6/11に撮影

なお、7月以降の予定は以下の通りである(お申し込みは、こちら)。私も10月に『真田丸』をやる。「まほろばソムリエのヤマトロジー講座」を、ぜひよろしく!

■7月 「棚田嘉十郎と平城宮跡保存運動」講師 池川愼一
平城宮跡保存の功績者とされる棚田嘉十郎(たなだ・かじゅうろう)。彼が宮跡保存運動に関わった動機は何か?なぜ彼の行動が保存につながったのか? そして悲劇的な自刃の真相は?当時の資料を読み解きながら、これらを探ります。

■8月 「長谷寺と初瀬郷を訪ねる」講師 雑賀耕三郎
「長谷寺式」といわれる十一面観音の魅力を考えます。そして、たび重なる焼失にも関わらず、不屈に再建を重ねた長谷寺の歴史を語ります。初瀬郷の祭りや風習を解説しながら、長谷寺と初瀬郷との温かい「ふれあい」を紹介いたします。

■9月 「解明!称徳天皇と百万塔陀羅尼(だらに)の謎」講師 徳南毅一
奈良時代に2度、皇位についた女帝の波瀾万丈の生涯とその功績を紹介します。称徳天皇は聖武天皇の娘として奈良に仏教王土を築き、素晴らしい文化遺産を残しました。現存する世界最古の印刷物「百万塔陀羅尼」の謎を解明します。

■10月 「風雲! 真田丸」講師 鉄田憲男
「真田丸」は、NHK大河ドラマで人気沸騰中です。信州から関ヶ原、そして紀州・九度山(くどやま)へ。信繁(幸村)は、ここから大坂の陣に出陣します。真田三代の活躍、奈良とのゆかり、そしてドラマの行方について、九度山町出身の講師が存分に語ります!
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げすとはうす はる・きたまち/楽天トラベルに掲載!

2016年06月17日 | 奈良にこだわる
魚佐旅館を経営されていた金(かね)やんこと金田充史さんが、いよいよ新プロジェクトをスタートされる、おめでとうございます!「げすとはうす はる・きたまち」(奈良市雑司町1-2)をオープンされるのである(ご自宅兼ゲストハウス)。
※写真は、楽天トラベルと金田さんのFacebookから拝借した

場所は、東大寺転害門の北西方向だ。国道369号(京街道)の「転害門前」バス停の次(北)の「今在家」バス停のある交差点を東に入り、次の角を南に入ったところ(今在家バス停から徒歩2分)。


揮毫されたのは薬師寺の大谷徹奘(てつじょう)さん。HPは、こちら

ゲストハウスの名前は、奈良きたまちの一角なので「春、来た町」と洒落ているのだろう。昨日(6/16)の18時、楽天トラベルのサイトに掲載された。プランや詳細情報が出ていないので「仮掲載」のような格好だが、大筋はつかめる。同サイトによると、


この両側が箱型寝台になっている

住所〒630-8211奈良県奈良市雑司町1-2 TEL0742-20-0081 FAX0742-20-0082
交通アクセス 近鉄奈良駅より徒歩にて約15分。奈良交通バス「今在家」バス停下車、徒歩2
駐車場無し
チェックイン16:00 (最終チェックイン:22:00) チェックアウト09:00
総部屋数3室



こんな客室もある

館内設備
コインランドリー(有料)
当宿は、ゲストハウススタイルの宿泊施設です。共用のトイレが3箇所と、シャワールームが3箇所あります。
部屋着やアメニティなど、ご自分で必要とご判断された物は、ご持参下さい。有料貸出のバスタオルは、準備しております。
部屋設備・備品 スリッパ




奈良では珍しい「箱型寝台」を主体とした宿泊施設である。「澤の屋旅館」のような談話室もあるので、宿泊客同士の情報交換もできる。近くには「小さなホテル奈良倶楽部」(奈良市北御門町2)があるので、満室の場合など、そちらに回ってもらうこともできそうだ。



金田さんは魚佐旅館の跡地を「KOTOWA 奈良公園 Premium View」に提供(定借)され、新たに転害門に近いこの場所に念願のゲストハウスをオープンされるのである。まさに「第2創業」である。金田さんは53歳のお誕生日(5/25)の翌日、ご自身のFacebookに、こう書かれていた。


談話室には、こんな本棚も

誕生日のお祝いメッセージ、ありがとうございました。本来なら、頂いた皆様、お一人お一人に、キチンと返礼をしないといけないし、また、昨年までは、それをするだけの時間が取れたのですが、今年は、ちょうど、新規事業のゲストハウスのオープン準備と、また、同時に、金田家の引越しと云う、トンでもない状況に陥り、未だ、ダンボールの山と格闘しております。

この間まで、住んでいた家が、畳数合計40畳で、それに、別に、物入れスペースが、合計6畳ほど有ると云う、でかい家だったのですが、これが曲者で、居住空間は、でかかろうが、小さかろうが、ほとんど変わらない訳です。しかし、空いた所は、全て、物置と化し、それ故に、衣装ケースと靴箱が、無制限に積み上がり、今、それが、今度の家に積み上がり、それを整理しております。


棟梁は、8畳の屋根裏収納と、3畳の物置をこしらえてくれたのですが、それとは別に、3畳の物置を2台、新調して、それで、いい加減入るか入らないかの、瀬戸際になっております。ホントだったら、とっくに開業して、プレオープンで見て頂く筈だったのが、これで延びてしまいました。整理が付き次第、内覧して頂きますので、今、しばらく、お待ち頂けますよう、よろしくお願い致します。


奈良にも外国人観光客がたくさん来られ、宿泊施設の不足が懸念される状況となっている。東大寺の近くにこのようなゲストハウスがオープンされることは、奈良の観光にとっては大歓迎である。金田さん、魚佐旅館で長年培ってこられたノウハウを駆使して、お客さまに支持される施設にしてください。また見学に行かせていただきます!
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真田丸(22)裁定

2016年06月16日 | 日々是雑感
うかうかしているうちに、周回遅れの紹介になってしまった。NHK大河ドラマ「真田丸」、6月5日(日)放送の「第22回 裁定」を紹介する。歴史に残る「沼田裁定」の話だ。NHKのHP「あらすじ」によると、

北条氏の沼田城明け渡しを断固拒否する真田。北条を上洛させたい秀吉を判事役に、原告・北条、被告・真田の戦国裁判劇の幕が上がる。信繁は真田の代表として弁舌と胆力の限り北条に勝負を挑む。徳川方の証人・本多正信も加わり、一瞬の隙も許されない大論戦が展開。秀吉がいよいよ裁定を下す。武勇によって事を決する時代の終わりに昌幸の胸に去来するものは…。


結論を先に書く。沼田は北条が2/3、残り1/3(名胡桃城を含む要衝)が真田とされた。ただし真田には2/3と同等の土地が秀吉から与えられる。それが裁定の結果である。当然、北条は不満である。その後、北条の家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を攻め、勝手に残りの領土も占領する。これで秀吉は、北条を攻める口実ができたのである。北条、危うし!

簡単に言うとそんな展開だったが、この沼田裁定のシーンがとても面白かった。室内のしつらえは、秀吉好みの悪趣味なゴテゴテ。そこに片桐且元がパワーポイント画面のような絵図を出し(トップ写真)、指し棒を使ってさっそうと解説しだした(秀吉に「長い」といってさえぎられたが)。北条方に堂々と反論する信繁は、あの半沢直樹を思わせる堺雅人の名演技。これは迫力があった。まぁ、本当にこんな会談の場が設けられたのかは怪しいのであるが…。

「沼田って、本当はどうだっの?」といぶかる向きもあるだろうが、それは藤丸タダアキさんの感想に詳しいので、以下に貼っておく。よくお読みいただきたい。


北条と真田が領有権を主張する沼田領(3万石)の裁定です。沼田は新潟(北陸)と群馬(関東)を結ぶ要所で関東制覇を目指す北条にとっては大事な場所です。元々、沼田は戦国期を通じて上杉家が長い期間領有していました。特に上杉謙信の活躍した時代、沼田は上杉家の関東攻略の拠点でした。

上杉謙信は当時、関東管領という官位を室町幕府から与えられていました。その謙信はたびたび、新潟から関東に攻め込みました。そして、謙信死後、上杉家の存続を巡り、武田と北条が対立します。沼田城は北条家が一旦は占領しました。しかしその後、武田勝頼の意を受けた真田昌幸が沼田を攻略します。その間、東日本でも動きがあります。

1582年3月に織田家は武田を滅ぼしています。その結果、織田家は山梨・長野・群馬を手に入れました。沼田領も織田家が押えました。しかし、1582年6月2日、本能寺の変が起こります。たった3か月しか支配できなかった織田家はその領地をほぼ放棄します。真田昌幸はこの際に、沼田領を占領しました。

そして、山梨・信濃は徳川が占拠します。群馬は北条が占拠しました。そして徳川・北条は領有権を認め合う和睦をします。その条件は徳川は甲信・北条は関東という線引きでした。そしてこの時、真田は徳川の傘下でした。北条は徳川に沼田を明け渡すように言います。

それに対して徳川は真田に通告します。しかし、真田は自分で手に入れた土地で、徳川からもらった土地ではないんですね。通告を断ります。その結果上田合戦が起き、真田が圧勝します。そして、その後、徳川も真田も豊臣家に従属します。

豊臣秀吉という人はなるべく人を殺さない人として評価されていた人物です。毛利・上杉などを外交で従属させることに成功しました。家康はすぐには無理でしたがやがて従属させました。当初、北条も説き伏せようとします。しかし、北条は来ません。秀吉の外交に失敗事例。

地域ブロックを制圧した大名は傘下にはなりません。九州の島津家もそうです。秀吉の九州征伐があと1年遅れれば、九州全幾は島津家が領有していたでしょう。北条もそうですね。関東のほとんど3分の2を抑えてしまっていました。その対抗勢力は茨城の佐竹・千葉の里見でしたが、敵ではありませんでした。


そして、この沼田裁定が出てきます。真田丸22話裁定はこの沼田の領土問題の裁定の話です。真田丸では、実際に板部岡紅雪斎・本多正信・真田信繁による主張がありました。しかし、実際はそんな席はなかったでしょう。

秀吉は外交に関しては自分の目分量に絶対の自信を持っていました。秀吉の最も得意とすることは外交でしょう。若い時は敵を裏切らせる調略が得意でした。しかし、天下統一に向かって秀吉が行った最大の偉業は外交による勝利でしょう。

秀吉は自ら沼田裁定を行いました。真田家が所有している沼田領のうち3分の2を北条に引き渡す。しかし、3分の1は真田家の所領とする。ここで私は少し思うことがありました。秀吉が信長の後継者であれば、他の意見があったのではないかと思います。例えば、織田家から簒奪した土地は認めないなど。全くなさそうでしたね。秀吉は明確に信長亡き後の織田家を乗っ取ったのでしょう。

さて、裁定に北条家は不満だったでしょう。しかし、自力で制圧できなかったんですね。秀吉の裁定を得て、沼田城を手に入れます。しかし、ここで北条家は家来の猪俣邦憲が勝手に残りの領土も占領します。ここで、勝負ありです。

結局、北条は秀吉が掲げた天下統一事業が理解できなかったのでしょう。秀吉が発した惣無事令はすべての戦争の停止を命じていました。北条はそれに明確に違反したんですね。

北条氏政はその父、氏康以外には仕えたことがないんですね。それまで上司がいなかった人に上司ができるというのは難しいですね。北条氏政は晩年に秀吉の統一事業とぶつかったことが不幸でした。

氏政は秀吉が理解できなかったという点が勝負の分かれ道だった。そして、ここから小田原平定が始まります。ちなみに小田原平定とは北条征伐のことを言います。三谷幸喜は1度目の裁定と北条征伐を決めた秀吉の裁定をかぶせたのでしょうか。

石田三成は戦争はしたくなかったでしょう。彼は内政を進め、日本の近代化を劇的に進めようとしていました。それは各大名が領内のみで行っていた経済活動を全国規模にすることです。商業の統一が豊臣政権の大きな狙いでした。

戦争は内政を滞らせます。そして、三成は戦争が得意ではなかったと思います。三成は小田原平定では大きなミスを起こしました。それはまた次回ですね。真田丸22話裁定の感想を書きました。
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