tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

KOTOWA 奈良公園 Premium View が、魚佐旅館跡地にオープン!

2015年07月15日 | 観光にまつわるエトセトラ
魚佐旅館跡地に建設が進められていた結婚式場「KOTOWA(コトワ)奈良公園 Premium View(プレミアムビュー)」が竣工し、昨日(7/14)、報道機関など向けに内覧会が開催された(ニュースリリースは、こちら)。縁あって私もお誘いいただき、参加した。早速、今朝(7/15)の奈良新聞に《五重塔借景に挙式 結婚式場「コトワ奈良公園」猿沢池南にオープン》の見出しで掲載されている。全文を抜粋すると、
※当記事の写真は、すべて7/14に撮影した




玄関扉は、とてつもなく大きい

奈良市今御門町に今月2日グランドオープンしたゲストハウス型結婚式場「コトワ奈良公園プレミアムビュー」(西田卓郎支配人)の内覧会が14日、同式場で行われた。猿沢池南側の魚佐旅館跡地に立地する式場で、窓からは興福寺の五重塔も望める好立地。報道関係者ら約40人が施設を見学した。


廊下には、こんな休憩スペースもある

全国で式場を展開しているディアーズ・ブレイン(東京都、小岸弘和社長)の20ヵ所目の施設。建物は挙式棟と管理棟の2つで、いずれも鉄骨造り2階建て。敷地面積約3060平方メートル、延べ床面積約3250平方メートル。挙式棟には最も高いところで13メートルあるチャペル、茶色と白色をそれぞれ基調にした2つのパーティールーム(最大各100人着席)、ラウンジ、新郎新婦控室などを備える。


乙女心をくすぐるチャペル。天井からの自然光がいい


向かいは猿沢池だ

年間約250組の挙式が目標で、既に100組以上の予約が入っているという。小岸社長は「一番苦心したのは五重塔をどう借景として生かすのかという点。県民の約75%が京都や大阪で結婚式を挙げているが、奈良のカップルにとって新たな旅立ちの舞台となり、県民に愛される施設にしていきたい」と抱負を述べた。




小岸社長(大和郡山市永慶寺町出身)の挨拶

シンプルな外観はいつも拝見しているが、中へ入るのは初めてだった。玄関には高い天井に大きな扉、まずはこの重厚さに圧倒される。室内証明には天井に埋め込んだダウンライトを多用し、落ち着いた雰囲気を醸し出している。まずは式場や披露宴会場を見学。そのあとは料理の試食が行われた。いただいたメニュー表を少しアレンジして紹介
すると、




オードブル : オマール海老のサラダ 奈良漬のラヴィゴット(冷製ソース) ブーケを飾って
ドゥーズィエム(二の膳) : 飛鳥鍋のフラン(茶碗蒸し)
メイン料理 : 大和和牛の網焼き 本わさびとゲランド(フランス西海岸)の塩を添えて
デザート : ピスタチオのジェラート(氷菓) 抹茶のアフォガード(飲料をかけた氷菓)



料理長の挨拶




茶碗蒸し(二の膳)。飛鳥鍋(牛乳鍋)の雰囲気は、あまりない

料理長は「五重塔が見えるロケーションで食べていただける、奈良らしいメニューを心がけた」とのこと。程よく「奈良テイスト」が出ていたし、味も、とても良かった。





この施設を運営する株式会社ディアーズ・ブレインは、ブライダル事業を全国で展開する株式会社千趣会のグループ会社。ディアーズ・ブレインの小岸弘和社長は、大和郡山市永慶寺町のご出身。生駒高校から立命館大学に進学した生粋の関西人である。


窓からは五重塔がこのアングルで眺められる

社長によると「奈良県民の75%が、他府県(主に大阪や京都)で結婚式を挙げている」とのことで、完全な「流出マーケット」だったのだ。すでに奈良県民を中心100組以上の予約が入っており、中には近隣府県民や遠隔地(奈良県出身者)からの予約もあるという。


FMハイホーのかんばやし久美子さん。社長、支配人と記念撮影

つい「観光」というと土産物屋や旅館・ホテルでの宿泊に目が行きがちだが、県内で披露宴を行ったり、県産品を引き出物に使っていただく(および一部は県内で宿泊される)ということは、観光と同様の経済効果(交流人口の増加)があるのだ。


この大きさ!人物と比較してほしい

それにしても金田充史さん(魚佐旅館専務で敷地の地権者)は、マンションを建てるという安易な方法を選ばす、よくこんな素晴らしい結婚式場を誘致するという選択をされたものだと、つくづく感心する。猿沢池畔にあり、興福寺五重塔や南円堂、ゆくゆくは中金堂も望めるという絶好の立地を生かした素晴らしい施設が誕生した。奈良への集客に、イメージ向上に、ひいては経済発展に寄与する素晴らしい施設である。

小岸社長、西田支配人、奈良に「KOTOWA 奈良公園 Premium View あり」を大いにアピールしてください!皆さん、ぜひこの素晴らしい施設をご利用ください!

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観光力創造塾(第4回)を盛大に開催!

2015年07月14日 | 観光にまつわるエトセトラ
昨日(7/13)、南都銀行主催の「第4回 観光力創造塾」、約120人のご参加を得て、盛大に開催いたしました。今朝の奈良新聞では「外国人目線で集客を 観光力創造塾 奈良で120人学ぶ」の見出しで大きく紹介されました。

国内外から宿泊客を県内に誘致することを目的とした、第4回観光力創造塾(南都銀行主催)が13日、奈良市登大路町の奈良商工会議所で開かれた。県内のホテルや旅館、レストラン、料理店などから約120人が参加。講演やトークセッションなどを通して、奈良の観光について見識を高めた。

やまとごころ(東京都)の村山慶輔代表が「外国人目線のインバウンド・マーケティング―集客のポイントを説き明かす」で講演。「中国や東南アジアなどから訪日観光客が大幅に増加している今が、観光ビジネスのチャンス。一歩でも前に踏み出してほしい」とアドバイス。その上で「顧客サービスで重視する点は日本と諸外国ではそれぞれ異なる」とし、「外国人の目線を理解することがインバウンドには不可欠。互いの違いを理解することが大切」と力説した。



また、インバウンドの現状や訪日外国人がもたらす経済効果を解説。「社寺や美容室、コンサート、エステなど、日々私たちが体験することも外国人観光客に提供できる。すべての産業にチャンスがある」と述べた。この後、宿泊客の8割が外国人という、旅館松前の女将(おかみ)の柳井尚美さんとのトークセッションが行われた。

第1部(講演)講師の村山慶輔氏は早速、株式会社やまとごころの昨日のメールマガジンに、このように紹介して下さいました。

やまとごころの村山@奈良です。昨日(7/12)から奈良。今日(7/13)は奈良の南都銀行主催のインバウンドセミナーで講演をさせて頂きました。参加者は120名強。多くの方がインバウンドに興味関心を持っており、熱気を感じながらの講演でした。奈良としては「移住」「インバウンド」をテーマとして進めていくとのこと。

昨日から奈良を回りましたが、外国人観光客が本当に多いです。奈良公園においては外国人の方が多かったですし、私の泊まった宿も外国人観光客が半分を超えていました。参加者の皆さんにも、最近のインバウンドの増加を実感しているか?と質問したところ、
すべての方が実感していました。



一方で、積極的にインバウンドの取り組みの打ち手をうっているか?との質問には 約2~3割の方がYES! まさにこれから取り組みを開始しようという方々が多かったようです。ちなみに最後にお伝えしたのは、「何もしないことがリスク」というメッセージ。

これ、本当に私自身も実感しています。インバウンドにおいて日々様々なプレイヤーが増え、取り組みが進んでいるので、何もしないことが相対的に送れていくことを意味します。先手先手を打って種をまくことが、近い将来の大きな果実に繋がると思いますので、是非一歩を踏み出していきましょう!


何事も引っ込み思案な奈良県民に対し、村山氏の「何もしないことがリスク」というメッセージは強烈でした。あと「よくある間違い」と、最後の「まとめ」に、2時間のご講演のキーポイントが凝縮されていました。

※よくある間違い
・戦略がない、戦術ばかり
・新規客ばかり追い続ける
・1(1つのもの)に依存する
・マーケティングを軽視する(現状を把握していない)

※まとめ
1.自社のインバウンド受け入れのスタンスを決める
2.自施設の魅力を「外国人目線」で見つける
3.自施設の強みを絞り込む
4.外国人を活用する
5.現地旅行会社の視点でセールスする(団体)
6.口コミ拡散を目指す(個人)
7.自分の施設だけでなく、周辺の情報も発信する


第2部(トークセッション)では、ならまちの旅館松前の女将・柳井尚美さんに私がインタビュー。同館は2013年に続き、2015年も、世界最大の旅行口コミサイト「tripadvisor」の「エクセレンス認証」を受けられました(6月に公表)。おめでとうございます!同館に寄せられた口コミは、例えばこんな感じです。



(拙訳)「大歓迎してくれる日本の場所」
女将は大歓迎してくれ、しかも英語が上手でチャーミングな日本のレディだ。とても親切で、奈良の最上の場所を 教えてくれるだろう。この旅館は便利な場所(多くの寺や公園に歩いて行ける距離)にあり、とても清潔で快適、しかも芸術的雰囲気(女将は書道家)のある宿だ。私たち2人は広い和室で素晴らしい朝食をいただいた。2日泊まっただけだが、奈良のすべてを十分楽しんだ。いつかまた奈良に来て、この旅館に泊まれればと期待している。



これはもう、ベタぼめです。昨夜(7/13)、女将さんから私のFacebookに、こんな素晴らしいコメントをいただきました。

本日はありがとうございました。 小泉さんが観光立国をうちたて、「観光産業」と、市場の動きが盛んになる中 3.11の震災にともない、東電さんとの訴訟に申告できる数だけでも1500人以上のキャンセルなどをへて、現在は穏やかに帰って来ていただき3000人以上の海外の方をお迎えしています。日本の伝統や文化に少しでも触れたいと思われる方たちとの出会いに歓びを見つけています。



日本の観光資源は「人」であるとJNTO(日本政府観光局)の理事長がおいでになるごとにおっしゃっていましたが、幾たびもの来日に魅力を、興味を持っていただくのは地域の力であり「人」の魅力やと思っています。細やかにご近所の方とつながり、また広い視野で県全体、さらには国全体の流れの情報をいただきつつ、流されずに我が道を行きたいものです。

まるで鏡です、思う気持ちがそのままに相手に通じてしまいます。おおらかに安心していただくことが宿の基本やないかとおもい、無理をせず、ともに楽しませていただこうと思っています。


なるほど。「まるで鏡です、思う気持ちがそのままに相手に通じてしまいます」は至言です。そのような日常の中でご自身を磨かれ、高めて来られ、それが高い評価につながったのでしょう。

村山さん、柳井さん、素晴らしいお話を有難うございました。南都銀行スタッフの皆さん、運営にご協力、どうも有難う。そして熱心に聞いていただいたご参加者の皆さん、どうぞ次回もお楽しみに!
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ひむろしらゆき祭り(第2回)は、7月18日(土)~19日(日)開催!(2015Topic)

2015年07月13日 | お知らせ
昨年(2014年)に始まった「ひむろしらゆき祭り」、今年は7月18日(土)~19日(日)、奈良国立博物館前の氷室神社(奈良市春日野町)で開催される。トップ写真は今年のポスターだ。題字は旅館松前の女将・柳井尚美さんの作品である。お祭りのHPによると、

昨年8月、奈良市春日野町の氷室神社様で、かき氷のお祭り「ひむろしらゆき祭」を初開催しました。東京、名古屋、神戸の名店に加え奈良からも計6店舗が参加し、台風が接近する大雨の中、2日間で3000人以上のお客様にご来場頂きました。

日本書紀の時代より氷を愛でる神様をお祀りする、氷室神社が鎮座する奈良。私たちは「奈良を氷のまちとして発信したい」との願いを二回 ひむろしらゆき祭」を開催します。かき氷ファンのみならず、奈良の食文化観光の新たな目玉として 地域も巻き込んで盛り上げていきたいと思います。


昨年の様子は、鹿鳴人のつぶやきに出ている。台風の影響で大雨が降る中、たくさんの方が足を運ばれた。今年の参加店舗は17店舗(7/13現在)と、ますます充実している。では氷室神社とは、どんな神社か。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社刊)によると、

氷室神社(奈良市春日野町) 
社伝によると、平城遷都に際して氷室や氷池を春日野の吉城川上流に作り、和銅三年(七一〇)七月二十二日に氷室明神を御蓋山麓の下津岩根宮に祀ったのが創祀とされる。正倉院宝物の『東大寺山堺四至図』には、吉城川上流に「氷池」が記され、菩提川には「氷室谷」という地名も見える。

御蓋山の西麓では氷室の祭祀が行われ、毎年四月一日より九月三十日まで平城宮に氷を献上した。近年、冷凍氷業界によって五月一日に献氷祭が行われている。当日は神前に花氷やコイの結氷、氷柱などが供えられ、舞殿で舞楽も奉納される。


5月1日の「献氷祭」がよく知られているが、ここに夏の「ひむろしらゆき祭り」が加わったのだ。皆さん、今度の土日は、ぜひ氷室神社に足をお運びください!

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能楽「合同ゆかた会」 7月25日(土) 能楽ホール(旧奈良県新公会堂)で開催!

2015年07月12日 | お知らせ
能楽師(森田流笛方)の寺井宏明さんから、能楽の「合同ゆかた会」(発表会)のご案内をいただいた。場所は奈良県新公会堂(最近「奈良春日野国際フォーラム甍」という覚えにくい名前になった)能楽ホールである。寺井さんとは以前、旅館松前でお会いしたことがある。

前略 日頃はお世話になりまして有難うございます。
このたび、7月25日(土)に奈良春日野国際フォーラム甍(旧 奈良県新公会堂)能楽ホールにて「合同ゆかた会」を開催させて頂くことになりました。チラシと番組が出来ましたので、お送りいたします。
当日は、お誘い合わせの上、ご来場賜りたくお願い申し上げます。


時間帯は、午前10時~午後4時半(途中入退席可)で、入場無料なのだ! 昨日(7/11)は当ブログで「能楽のルーツは奈良にあり!」という記事を書き、能楽に興味が沸いてきたので、これはタイムリーなイベントである。奈良春日野国際フォーラム甍のホームページには、

【主 催】
矢車会 観世元伯(太鼓 観世流)/龍風会 寺井宏明(笛 森田流)/玉扇慶祥会 中森貫太(シテ 観世流)/松月会 久田舜一(小鼓 大倉流)/穿石会 安福光雄(大鼓 高安流)
【賛 助】
華友会 奥川恒治/龍雲会 駒瀬直也/季風会 白坂信行/寺澤好聲会 寺澤幸祐/太鼓観世流 林雄一郎(五十音順)


ざっと数えると演し物は約30本。「吉野天人」「葛城(かづらき)」「龍田」「春日龍神」など、奈良県に関係ありそうな演目もある。皆さん、7/25(土)は、ぜひ能楽ホールに足をお運びください!
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能のルーツは奈良にあり! by 帝塚山大学文学部講師 惠阪悟 氏

2015年07月11日 | 奈良にこだわる
興味深い話をお聞きした。6/28(日)、奈良市中部公民館の「奈良学セミナー」で、帝塚山大学文学部文化創造学科講師の惠阪悟(えさか・さとる)氏による「能楽と奈良」という話を聞いたのだ。
※トップ写真は、大淀町のHPから拝借

当ブログでは、若干の情報を加え「能の歴史」と奈良の深い関わりについて詳述する(「能楽」とは、能に狂言を加えた総称だそうだ。ここでは「能」のみの話を書く)。今回も長い記事になるが、ぜひ、最後までお付き合いいただきたい。まずは公益社団法人能楽協会のHPから。

■「散楽(さんがく)」の伝来と教習の地
能の源流をたどると、遠く奈良時代までさかのぼります。当時大陸から渡ってきた芸能のひとつに、[散楽]という民間芸能がありました。器楽・歌謡・舞踊・物真似・曲芸・奇術など バラエティーに富んだその芸は、[散楽戸]として官制上の保護を受けて演じられていましたが、平安時代になってこれが廃されると、その役者たちは各地に分散して集団を作り、多くは大きな寺社の保護を受けて祭礼などで芸を演じたり、あるいは各地を巡演するなどしてその芸を続けました。

この頃、[散楽]は日本風に[猿楽/申楽 (さるがく・さるごう)]と呼ばれるようになり、時代とともに単なる物真似から様々な世相をとらえて風刺する笑いの台詞劇として発達、のちの[狂言]へと発展していきます。一方、農村の民俗から発展した[田楽]、大寺の密教的行法から生まれた[呪師芸]などの芸もさかんに行われるようになり、互いに交流・影響しあっていました。


惠阪氏によると、散楽(さんがく)・伎楽(ぎがく)は「雑楽」、雅楽は「正楽」とされ、この「雑楽」が「猿楽」に展開し、のちの「能」に発展する。なお散楽芸人養成所である「楽戸」(がっこ=散楽戸)は、大和の桜井に設けられたそうだ。

天平勝宝4(752)年4月の東大寺大仏開眼供養では、伎楽・舞楽などとともに「唐散楽」が演じられた。『東大寺要録』によると、法会では、まずは皇族・諸氏が入場して開眼供養が行われると、その後、歌舞となり、五節、久米舞、踏歌が演奏されたあと、唐古楽一舞、唐散楽一舞、林邑楽三舞、高麗楽一舞、唐中楽一舞、唐女舞一舞、施袴二十人高麗楽三舞、高麗女楽が演奏されたと記されている。

 能楽入門〈1〉初めての能・狂言 (Shotor Library)
 三浦裕子
 小学館

■「猿楽」発展の基盤
呪師(しゅし・じゅし)という役目を果たすお坊さんがいたそうだ。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』の「呪師」によると、

平安時代から鎌倉時代にかけて行われた芸能およびその演者。「しゅし」「すし」「ずし」ともいう。大寺院の修正会 (しゅじょうえ) ,修二会 (しゅにえ) などの仏教行事の行法を司る役僧の呪師が,その行法をわかりやすくするために演技化し,これに寺院に隷属していた猿楽法師が加わり,次第に鑑賞的芸能となり,やがて呪師猿楽となった。

さらに『世界大百科事典』の「呪師」には

法会の場への魔障の侵入を防ぎ,護法善神を勧請(かんじよう)して,法会の円満成就のための修法を行う。たとえば,悔過会の代表例にあたる東大寺修二会(しゅにえ)(通称,御水取)では,4種の重要な役割が設けられており,通常,上席から和上(わじよう),大導師(だいどうし),呪師,堂司(どうつかさ)と称する。

東大寺修二会の「呪師」は、密教的修法を行う。司馬遼太郎の『空海の風景』には、空海が東大寺の別当だったこともあり、今も修二会には真言密教の影響が垣間見られると書かれており、修二会の「呪師作法」も空海が持ち込んだものかも知れない。Wikipedia「修二会」の「咒師(呪師)作法」によると、

咒師作法(しゅしさほう)は咒師が須弥壇の周りを回りながら、清めの水(洒水)を撒き、印を結んで呪文を唱えるなど、密教的な儀式である。鈴を鳴らして四方に向かって四天王を勧請するのもその一環である。3月12日以降の3日間は、後夜の咒師作法の間に達陀の行法が行われる。

東大寺二月堂修二会の「達陀の行法」では、鬼が登場する。これは「追儺会(ついなえ)」(節分の鬼追い式)との習合ではないか、と惠阪氏は言う。さて次に登場するのが興福寺の「薪猿楽」である。興福寺のHPの「薪御能と塔影能」によると、

大寺の伝統的法要は、個人だけの除災招福を願うことはなく、草木国土一切の為の善願成就を祈ります。したがって、その法要の成功がまず大事なことなので、障り害なく無事の完遂を期して結界を匝らせます。そして、様々な祈願を種々の神秘的祈祷所作のうち、特に人々の目に映り耳に入る所作を外相といいます。当然、その役目は僧侶で、彼らは法呪師と呼ばれました。やがてその役目が猿楽(散楽)呪師に委ねられます。

散楽は大唐は中国の芸事で、賑やかな音楽を伴奏に、奇術をしたり呪師や儒者・遊女や占師の物真似を滑稽に演じた民間芸能でした。散楽は日本にも伝わり、それに猿楽(申楽)の字を宛たといわれています。散楽は平安時代頃に大寺に所属するようになりました。そして、寺々の大法要に際しては、寺院は所属する彼ら猿楽を専らにする者達に、外相の所作を任せる風になります。彼らは猿楽法師・猿楽呪師と呼ばれ、その所作は<呪師走り>と称されました。

西金堂修二会においては、み仏にささげる神聖な薪を春日の花山から運びました。それを迎える儀式を猿楽に真似させて神事芸能としたのです。修二会では毎夜神々に供え物をして法要の無事を願う神供の式がありました。献ぜられた薪は、式の行なわれる手水屋において炬かれ、その明々と燃え盛る火のもとで猿楽が演じられ、そこから薪猿楽と称されるようになったと云われます。散楽を源流とする物真似を主体とした芸才が役立ったというわけです。

しかも、絶大な勢力を聖俗両界に及ぼした興福寺と強く結ばれたことは、猿楽が著しく発展する要素となりました。恐らくその演じたものは、密教の所作や、今日の能の『翁』に伝わり残る呪術的部分であって、劇的要素はなかったと思われます。しかし南北朝時代に至れば、金春の禅竹や観世の観阿弥・世阿弥父子らによって猿楽は芸術の域に高められ、能として大成されたのです。


■「翁」(式三番)の生成
上記興福寺のHPに「演じたものは、密教の所作や、今日の能の『翁』に伝わり残る呪術的部分」とあるが、では能の「翁(おきな)」とは何か。Wikipedia「翁(能)」によると、

能楽の演目のひとつ。別格に扱われる祝言曲である。最初に翁を演じる正式な番組立てを翁付といい、正月初会や祝賀能などに演じられる。翁・千歳・三番叟の3人の歌舞からなり、翁役は白色尉、三番叟役は黒色尉という面をつける。原則として、翁に続いて同じシテ・地謡・囃子方で脇能を演じる。

翁は、例式の 3番の演目、つまり「父尉」「翁」「三番猿楽」(三番叟)の 3演目から成るのが本来であり式三番とも呼ばれる。実際には室町時代初期には「父尉」を省くのが常態となっていたが、式二番とは呼ばれず、そのまま式三番と称されている。

翁(式三番)は、鎌倉時代に成立した翁猿楽の系譜を引くものであり、古くは聖職者である呪師が演じていたものを呪師に代って猿楽師が演じるようになったものとされている。

寺社の法会や祭礼での正式な演目をその根源とし、今日の能はこれに続いて演じられた余興芸とも言える猿楽の能が人気を得て発展したものである。そのため、能楽師や狂言師によって演じられるものの、能や狂言とは見なされない格式の高い演目である。


 能楽入門〈2〉能の匠たち―その技と名品 (Shotor Library)
 明石和美
 小学館

■「能」の記念碑的記録
貞和5年(1349年)2月に行われた春日若宮臨時祭に関し、『貞和五年春日若宮臨時祭記』という記録が残り、ここに「能」と呼び得る芸能の初の記録が載っている。文化デジタルライブラリーのHPによると、

南北朝期の能の内容がうかがえる数少ない資料の一つに、『貞和五年春日若宮臨時祭記』があります。1349年[貞和5年]2月に行われた春日若宮臨時祭では、猿楽や田楽の指導を受け、春日神社の巫女(みこ)と禰宜(ねぎ)[神官]が若宮拝殿で能を演じました。

資料によれば、この時、猿楽の指導を受けた巫女は、翁猿楽のほか、憲清(のりきよ[西行の俗名])が鳥羽殿で十首の歌を詠む能と、和泉式部の病気を紫式部が見舞うという能を演じました。一方、田楽の指導を受けた禰宜は、村上天皇の臣下・藤原貞敏が琵琶の三曲を唐から日本に伝えようとした時に龍神の妨害にあう能や、インドの伝説的な王、斑足太子(はんぞくたいし)が普明王を捕えるという能などを演じたようです。

ごく簡略な演目とその配役しか記されていないため、さらに具体的な内容や構成については諸説ありますが、これらの内容には対応する説話が存在しており、日本や中国の古典故事を素材とした劇であることがわかります。このような物語性を持った能が、当時、専門の芸能者の指導を受けた素人によって演じられることもあったのです。また、猿楽と田楽の双方がこうした能を演じ、競い合っていた状況もうかがえます。


能楽入門〈3〉梅若六郎 能の新世紀―古典~新作まで (ショトルライブラリー)
氷川まりこ
小学館

■能発展の立役者の故地
能を完成した観阿弥・世阿弥の父子は、奈良県出身といわれる。『申楽談儀(さるがくだんぎ)』は、室町時代に成立した世阿弥の芸談を筆録した能楽の伝書・芸道論である(筆者は世阿弥の次男・元能)。Wikipedia「世子六十以後申楽談儀(申楽談儀)」によると、

父・観阿弥から観世座を受け継いだ世阿弥は、ライバルであった田楽、近江猿楽などの芸を取り入れながら、和歌や古典を通じて得た貴族的教養を生かし「猿楽」を芸能・理論の両面から大成させることに心血を注いだ。その結晶として、応永6年(1399年)には足利義満の後援で三日間の勧進猿楽を演じ、名実ともに芸能界の頂点に立つとともに、その翌年には史上最初の能楽論書である『風姿花伝』を執筆したのである。

世阿弥は応永29年(1422年)頃、60歳前後で出家する。以後も猿楽界の第一人者として重きをなす一方、後継者の元雅、甥の元重(音阿弥)、女婿の金春禅竹、そして『談儀』の著者である元能など次世代の能楽師たちの指導に励んだ。そのために『花鏡』、『至花道』、『三道』などの伝書を執筆し、自己の能楽理論の継承と座の繁栄を磐石たらしめんとした。前述の通り、『談儀』が扱うのはこの時期、即ち60歳から68歳頃までの世阿弥の芸談である。

優れた後継者も得て観世座は安泰かに見えたが、応永35年(1428年)、足利義持が死に、弟・義教が将軍に就くと、義教の寵愛は音阿弥に注がれ、本家である世阿弥・元雅父子は強い圧迫を受けることとなった。本著が成立する前年の永享元年(1429年)には世阿弥父子は仙洞御所での演能を強引に中止させられ、また翌2年には醍醐寺清滝宮の楽頭職を奪われた。

世阿弥の次男である元能は、こうした情況に絶望し、ついに芸の道を断念し、出家遁世を決意した。そしてその惜別の辞となったのが、本書『申楽談儀』である。元能はこれまで父の教えを疎かにしなかった証し立てとして、その聞き書きを本の形にして贈り、父と芸の道への永遠の別れを告げたのである。

なお続く永享4年(1432年)には大夫の元雅が伊勢で客死、5年にはついに観世大夫の地位を音阿弥に奪われるとともに、世阿弥は佐渡に流罪となり、その後表舞台に戻ることなく死去した。なお後に元能は元雅の遺児・十郎大夫を助けて越智観世に参加し、芸界に復帰したらしい。

冒頭でまず語られるのは、猿楽とは「申楽」であり、即ち神楽であるという主張である。従って猿楽が中心とすべくは(物真似芸などではなく)、舞と歌であるとする。


この写真は、藤村清彦さんが撮影された「ちびっ子桧垣本座発表会」の様子

■南都両神事の復興
『多聞院日記』天正13年(1585年)2月6日のくだりには、薪能について「近年ハ田舎ノ秋祭風情也」とあり、春日若宮祭礼も興福寺の薪猿楽も衰微していたことが見て取れる。しかし、のち豊臣秀吉や徳川幕府によって庇護を受けた。Wikipedia「猿楽」によると、

戦国時代には、猿楽の芸の内容に大きな発展はなかったと考えられている。また通説では、猿楽は織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に引き続き愛好されていた。『宇野主水日記』によると、信長は天正10年(1582年)に安土(現在の近江八幡市安土町)の総見寺で徳川家康とともに梅若家の猿楽を鑑賞しており、自身も小鼓をたしなんだと言われ、長男の信忠は自ら猿楽を演じた、などともされている。

なお、この次に興味深い事実が書かれている。私もこないだ能楽を嗜むNさんから教えていただいて、びっくり仰天した。

信長が愛好したとして有名な「敦盛」は幸若舞であり能ではないにもかかわらず、映画やテレビで演じられる桶狭間の戦いの前の信長の舞は能の舞と謡いで行われ、そして司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく 四十三 濃尾参州記』のように「まず陣貝を吹かせ、甲冑をつけ、立ったまま湯漬けを喫し、謡曲「敦盛」の一節をかつ謡いかつ舞ったのは、有名である」などという誤りが広められてしまっていることには注意すべきである。

さて、Wikipedaからの引用を続ける。

江戸時代には、徳川家康や秀忠、家光など歴代の将軍が猿楽を好んだため、猿楽は武家社会の文化資本として大きな意味合いを持つようになった。また猿楽は武家社会における典礼用の正式な音楽(式楽)も担当することとなり、各藩がお抱えの猿楽師を雇うようになった。間部詮房は猿楽師出身でありながら大名にまで出世した人物として知られている。

なお、家康も秀吉と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた猿楽師であった喜多七太夫長能に保護を与え、元和年間(1615年から1624年)に喜多流の創設を認めている。家康は観世座を好み、秀忠や家光は喜多流を好んだとされるが、綱吉は宝生流を好んだため、綱吉の治世に加賀藩や尾張藩がお抱え猿楽師を金春流から宝生流に入れ替えたと言われている。その結果、現在でも石川県や名古屋市は宝生流が盛んな地域である。

その一方、猿楽が武家社会の式楽となった結果、庶民が猿楽を見物する機会は徐々に少なくなっていった。しかし、謡は町人の習い事として流行し、多くの謡本が出版された(寺子屋の教科書に使われた例もある)。実際に観る機会は少ないながらも、庶民の関心は強く、寺社への寄進を集める目的の勧進能が催されると多くの観客を集めたという。

以上、講話「能楽と奈良」に従いながら、ざっと能の歴史を振り返った。「能のルーツは奈良にあり」ということは、ほとんど知られていない(私も知らなかった)。奈良春日野国際フォーラム甍(旧名:奈良県新公会堂)には立派な能舞台があるが、肝心の能楽はあまり演じられていない。欧米やオセアニアからの観光客は、日本の伝統文化に関心が高い。発祥地である奈良から、もっと能楽をアピールしなければ…。

惠阪先生、興味深いお話を有難うございました!
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