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能のルーツは奈良にあり! by 帝塚山大学文学部講師 惠阪悟 氏

2015年07月11日 | 奈良にこだわる
興味深い話をお聞きした。6/28(日)、奈良市中部公民館の「奈良学セミナー」で、帝塚山大学文学部文化創造学科講師の惠阪悟(えさか・さとる)氏による「能楽と奈良」という話を聞いたのだ。
※トップ写真は、大淀町のHPから拝借

当ブログでは、若干の情報を加え「能の歴史」と奈良の深い関わりについて詳述する(「能楽」とは、能に狂言を加えた総称だそうだ。ここでは「能」のみの話を書く)。今回も長い記事になるが、ぜひ、最後までお付き合いいただきたい。まずは公益社団法人能楽協会のHPから。

■「散楽(さんがく)」の伝来と教習の地
能の源流をたどると、遠く奈良時代までさかのぼります。当時大陸から渡ってきた芸能のひとつに、[散楽]という民間芸能がありました。器楽・歌謡・舞踊・物真似・曲芸・奇術など バラエティーに富んだその芸は、[散楽戸]として官制上の保護を受けて演じられていましたが、平安時代になってこれが廃されると、その役者たちは各地に分散して集団を作り、多くは大きな寺社の保護を受けて祭礼などで芸を演じたり、あるいは各地を巡演するなどしてその芸を続けました。

この頃、[散楽]は日本風に[猿楽/申楽 (さるがく・さるごう)]と呼ばれるようになり、時代とともに単なる物真似から様々な世相をとらえて風刺する笑いの台詞劇として発達、のちの[狂言]へと発展していきます。一方、農村の民俗から発展した[田楽]、大寺の密教的行法から生まれた[呪師芸]などの芸もさかんに行われるようになり、互いに交流・影響しあっていました。


惠阪氏によると、散楽(さんがく)・伎楽(ぎがく)は「雑楽」、雅楽は「正楽」とされ、この「雑楽」が「猿楽」に展開し、のちの「能」に発展する。なお散楽芸人養成所である「楽戸」(がっこ=散楽戸)は、大和の桜井に設けられたそうだ。

天平勝宝4(752)年4月の東大寺大仏開眼供養では、伎楽・舞楽などとともに「唐散楽」が演じられた。『東大寺要録』によると、法会では、まずは皇族・諸氏が入場して開眼供養が行われると、その後、歌舞となり、五節、久米舞、踏歌が演奏されたあと、唐古楽一舞、唐散楽一舞、林邑楽三舞、高麗楽一舞、唐中楽一舞、唐女舞一舞、施袴二十人高麗楽三舞、高麗女楽が演奏されたと記されている。

 能楽入門〈1〉初めての能・狂言 (Shotor Library)
 三浦裕子
 小学館

■「猿楽」発展の基盤
呪師(しゅし・じゅし)という役目を果たすお坊さんがいたそうだ。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』の「呪師」によると、

平安時代から鎌倉時代にかけて行われた芸能およびその演者。「しゅし」「すし」「ずし」ともいう。大寺院の修正会 (しゅじょうえ) ,修二会 (しゅにえ) などの仏教行事の行法を司る役僧の呪師が,その行法をわかりやすくするために演技化し,これに寺院に隷属していた猿楽法師が加わり,次第に鑑賞的芸能となり,やがて呪師猿楽となった。

さらに『世界大百科事典』の「呪師」には

法会の場への魔障の侵入を防ぎ,護法善神を勧請(かんじよう)して,法会の円満成就のための修法を行う。たとえば,悔過会の代表例にあたる東大寺修二会(しゅにえ)(通称,御水取)では,4種の重要な役割が設けられており,通常,上席から和上(わじよう),大導師(だいどうし),呪師,堂司(どうつかさ)と称する。

東大寺修二会の「呪師」は、密教的修法を行う。司馬遼太郎の『空海の風景』には、空海が東大寺の別当だったこともあり、今も修二会には真言密教の影響が垣間見られると書かれており、修二会の「呪師作法」も空海が持ち込んだものかも知れない。Wikipedia「修二会」の「咒師(呪師)作法」によると、

咒師作法(しゅしさほう)は咒師が須弥壇の周りを回りながら、清めの水(洒水)を撒き、印を結んで呪文を唱えるなど、密教的な儀式である。鈴を鳴らして四方に向かって四天王を勧請するのもその一環である。3月12日以降の3日間は、後夜の咒師作法の間に達陀の行法が行われる。

東大寺二月堂修二会の「達陀の行法」では、鬼が登場する。これは「追儺会(ついなえ)」(節分の鬼追い式)との習合ではないか、と惠阪氏は言う。さて次に登場するのが興福寺の「薪猿楽」である。興福寺のHPの「薪御能と塔影能」によると、

大寺の伝統的法要は、個人だけの除災招福を願うことはなく、草木国土一切の為の善願成就を祈ります。したがって、その法要の成功がまず大事なことなので、障り害なく無事の完遂を期して結界を匝らせます。そして、様々な祈願を種々の神秘的祈祷所作のうち、特に人々の目に映り耳に入る所作を外相といいます。当然、その役目は僧侶で、彼らは法呪師と呼ばれました。やがてその役目が猿楽(散楽)呪師に委ねられます。

散楽は大唐は中国の芸事で、賑やかな音楽を伴奏に、奇術をしたり呪師や儒者・遊女や占師の物真似を滑稽に演じた民間芸能でした。散楽は日本にも伝わり、それに猿楽(申楽)の字を宛たといわれています。散楽は平安時代頃に大寺に所属するようになりました。そして、寺々の大法要に際しては、寺院は所属する彼ら猿楽を専らにする者達に、外相の所作を任せる風になります。彼らは猿楽法師・猿楽呪師と呼ばれ、その所作は<呪師走り>と称されました。

西金堂修二会においては、み仏にささげる神聖な薪を春日の花山から運びました。それを迎える儀式を猿楽に真似させて神事芸能としたのです。修二会では毎夜神々に供え物をして法要の無事を願う神供の式がありました。献ぜられた薪は、式の行なわれる手水屋において炬かれ、その明々と燃え盛る火のもとで猿楽が演じられ、そこから薪猿楽と称されるようになったと云われます。散楽を源流とする物真似を主体とした芸才が役立ったというわけです。

しかも、絶大な勢力を聖俗両界に及ぼした興福寺と強く結ばれたことは、猿楽が著しく発展する要素となりました。恐らくその演じたものは、密教の所作や、今日の能の『翁』に伝わり残る呪術的部分であって、劇的要素はなかったと思われます。しかし南北朝時代に至れば、金春の禅竹や観世の観阿弥・世阿弥父子らによって猿楽は芸術の域に高められ、能として大成されたのです。


■「翁」(式三番)の生成
上記興福寺のHPに「演じたものは、密教の所作や、今日の能の『翁』に伝わり残る呪術的部分」とあるが、では能の「翁(おきな)」とは何か。Wikipedia「翁(能)」によると、

能楽の演目のひとつ。別格に扱われる祝言曲である。最初に翁を演じる正式な番組立てを翁付といい、正月初会や祝賀能などに演じられる。翁・千歳・三番叟の3人の歌舞からなり、翁役は白色尉、三番叟役は黒色尉という面をつける。原則として、翁に続いて同じシテ・地謡・囃子方で脇能を演じる。

翁は、例式の 3番の演目、つまり「父尉」「翁」「三番猿楽」(三番叟)の 3演目から成るのが本来であり式三番とも呼ばれる。実際には室町時代初期には「父尉」を省くのが常態となっていたが、式二番とは呼ばれず、そのまま式三番と称されている。

翁(式三番)は、鎌倉時代に成立した翁猿楽の系譜を引くものであり、古くは聖職者である呪師が演じていたものを呪師に代って猿楽師が演じるようになったものとされている。

寺社の法会や祭礼での正式な演目をその根源とし、今日の能はこれに続いて演じられた余興芸とも言える猿楽の能が人気を得て発展したものである。そのため、能楽師や狂言師によって演じられるものの、能や狂言とは見なされない格式の高い演目である。


 能楽入門〈2〉能の匠たち―その技と名品 (Shotor Library)
 明石和美
 小学館

■「能」の記念碑的記録
貞和5年(1349年)2月に行われた春日若宮臨時祭に関し、『貞和五年春日若宮臨時祭記』という記録が残り、ここに「能」と呼び得る芸能の初の記録が載っている。文化デジタルライブラリーのHPによると、

南北朝期の能の内容がうかがえる数少ない資料の一つに、『貞和五年春日若宮臨時祭記』があります。1349年[貞和5年]2月に行われた春日若宮臨時祭では、猿楽や田楽の指導を受け、春日神社の巫女(みこ)と禰宜(ねぎ)[神官]が若宮拝殿で能を演じました。

資料によれば、この時、猿楽の指導を受けた巫女は、翁猿楽のほか、憲清(のりきよ[西行の俗名])が鳥羽殿で十首の歌を詠む能と、和泉式部の病気を紫式部が見舞うという能を演じました。一方、田楽の指導を受けた禰宜は、村上天皇の臣下・藤原貞敏が琵琶の三曲を唐から日本に伝えようとした時に龍神の妨害にあう能や、インドの伝説的な王、斑足太子(はんぞくたいし)が普明王を捕えるという能などを演じたようです。

ごく簡略な演目とその配役しか記されていないため、さらに具体的な内容や構成については諸説ありますが、これらの内容には対応する説話が存在しており、日本や中国の古典故事を素材とした劇であることがわかります。このような物語性を持った能が、当時、専門の芸能者の指導を受けた素人によって演じられることもあったのです。また、猿楽と田楽の双方がこうした能を演じ、競い合っていた状況もうかがえます。


能楽入門〈3〉梅若六郎 能の新世紀―古典~新作まで (ショトルライブラリー)
氷川まりこ
小学館

■能発展の立役者の故地
能を完成した観阿弥・世阿弥の父子は、奈良県出身といわれる。『申楽談儀(さるがくだんぎ)』は、室町時代に成立した世阿弥の芸談を筆録した能楽の伝書・芸道論である(筆者は世阿弥の次男・元能)。Wikipedia「世子六十以後申楽談儀(申楽談儀)」によると、

父・観阿弥から観世座を受け継いだ世阿弥は、ライバルであった田楽、近江猿楽などの芸を取り入れながら、和歌や古典を通じて得た貴族的教養を生かし「猿楽」を芸能・理論の両面から大成させることに心血を注いだ。その結晶として、応永6年(1399年)には足利義満の後援で三日間の勧進猿楽を演じ、名実ともに芸能界の頂点に立つとともに、その翌年には史上最初の能楽論書である『風姿花伝』を執筆したのである。

世阿弥は応永29年(1422年)頃、60歳前後で出家する。以後も猿楽界の第一人者として重きをなす一方、後継者の元雅、甥の元重(音阿弥)、女婿の金春禅竹、そして『談儀』の著者である元能など次世代の能楽師たちの指導に励んだ。そのために『花鏡』、『至花道』、『三道』などの伝書を執筆し、自己の能楽理論の継承と座の繁栄を磐石たらしめんとした。前述の通り、『談儀』が扱うのはこの時期、即ち60歳から68歳頃までの世阿弥の芸談である。

優れた後継者も得て観世座は安泰かに見えたが、応永35年(1428年)、足利義持が死に、弟・義教が将軍に就くと、義教の寵愛は音阿弥に注がれ、本家である世阿弥・元雅父子は強い圧迫を受けることとなった。本著が成立する前年の永享元年(1429年)には世阿弥父子は仙洞御所での演能を強引に中止させられ、また翌2年には醍醐寺清滝宮の楽頭職を奪われた。

世阿弥の次男である元能は、こうした情況に絶望し、ついに芸の道を断念し、出家遁世を決意した。そしてその惜別の辞となったのが、本書『申楽談儀』である。元能はこれまで父の教えを疎かにしなかった証し立てとして、その聞き書きを本の形にして贈り、父と芸の道への永遠の別れを告げたのである。

なお続く永享4年(1432年)には大夫の元雅が伊勢で客死、5年にはついに観世大夫の地位を音阿弥に奪われるとともに、世阿弥は佐渡に流罪となり、その後表舞台に戻ることなく死去した。なお後に元能は元雅の遺児・十郎大夫を助けて越智観世に参加し、芸界に復帰したらしい。

冒頭でまず語られるのは、猿楽とは「申楽」であり、即ち神楽であるという主張である。従って猿楽が中心とすべくは(物真似芸などではなく)、舞と歌であるとする。


この写真は、藤村清彦さんが撮影された「ちびっ子桧垣本座発表会」の様子

■南都両神事の復興
『多聞院日記』天正13年(1585年)2月6日のくだりには、薪能について「近年ハ田舎ノ秋祭風情也」とあり、春日若宮祭礼も興福寺の薪猿楽も衰微していたことが見て取れる。しかし、のち豊臣秀吉や徳川幕府によって庇護を受けた。Wikipedia「猿楽」によると、

戦国時代には、猿楽の芸の内容に大きな発展はなかったと考えられている。また通説では、猿楽は織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に引き続き愛好されていた。『宇野主水日記』によると、信長は天正10年(1582年)に安土(現在の近江八幡市安土町)の総見寺で徳川家康とともに梅若家の猿楽を鑑賞しており、自身も小鼓をたしなんだと言われ、長男の信忠は自ら猿楽を演じた、などともされている。

なお、この次に興味深い事実が書かれている。私もこないだ能楽を嗜むNさんから教えていただいて、びっくり仰天した。

信長が愛好したとして有名な「敦盛」は幸若舞であり能ではないにもかかわらず、映画やテレビで演じられる桶狭間の戦いの前の信長の舞は能の舞と謡いで行われ、そして司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく 四十三 濃尾参州記』のように「まず陣貝を吹かせ、甲冑をつけ、立ったまま湯漬けを喫し、謡曲「敦盛」の一節をかつ謡いかつ舞ったのは、有名である」などという誤りが広められてしまっていることには注意すべきである。

さて、Wikipedaからの引用を続ける。

江戸時代には、徳川家康や秀忠、家光など歴代の将軍が猿楽を好んだため、猿楽は武家社会の文化資本として大きな意味合いを持つようになった。また猿楽は武家社会における典礼用の正式な音楽(式楽)も担当することとなり、各藩がお抱えの猿楽師を雇うようになった。間部詮房は猿楽師出身でありながら大名にまで出世した人物として知られている。

なお、家康も秀吉と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた猿楽師であった喜多七太夫長能に保護を与え、元和年間(1615年から1624年)に喜多流の創設を認めている。家康は観世座を好み、秀忠や家光は喜多流を好んだとされるが、綱吉は宝生流を好んだため、綱吉の治世に加賀藩や尾張藩がお抱え猿楽師を金春流から宝生流に入れ替えたと言われている。その結果、現在でも石川県や名古屋市は宝生流が盛んな地域である。

その一方、猿楽が武家社会の式楽となった結果、庶民が猿楽を見物する機会は徐々に少なくなっていった。しかし、謡は町人の習い事として流行し、多くの謡本が出版された(寺子屋の教科書に使われた例もある)。実際に観る機会は少ないながらも、庶民の関心は強く、寺社への寄進を集める目的の勧進能が催されると多くの観客を集めたという。

以上、講話「能楽と奈良」に従いながら、ざっと能の歴史を振り返った。「能のルーツは奈良にあり」ということは、ほとんど知られていない(私も知らなかった)。奈良春日野国際フォーラム甍(旧名:奈良県新公会堂)には立派な能舞台があるが、肝心の能楽はあまり演じられていない。欧米やオセアニアからの観光客は、日本の伝統文化に関心が高い。発祥地である奈良から、もっと能楽をアピールしなければ…。

惠阪先生、興味深いお話を有難うございました!

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