地図で読む『古事記』『日本書紀』 (PHP文庫) | |
武光 誠 | |
PHP研究所 |
太安萬侶は『古事記』の編纂者として知られる。『古事記』の序文は、次のような格調高い文章で始まる。齋藤孝著『声を出して読みたい日本語』にも収録されているほどの名文である。岩波文庫から引用する。
《臣安萬侶言(しんやすまろまを)す。それ、混元既に凝(こ)りて、気象未(いまだ) 效(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰れかその形を知らむ。然れども、乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化の首(はじめ)となり、陰陽ここに開けて、二霊群品の祖(おや)となりき。所以(このゆえに)、幽顕に出入りして、日月目を洗ふに彰(あらは)れ、海水に浮沈して、神祇見を滌(すす)ぐに呈(あらは)れき。故(かれ)、太素(たいそ)は杳冥(えうめい)なれども、本教によりて土(くに)を孕(はら)み島を産みし時を識(し)り、元始は綿邈(めんばく)なれども、先聖によりて神を生み人を立てし世を察(し)りぬ (後略)》。
意味は難しくてよく分からないが、風格のある立派な文章である。やや気負いすぎ(ええかっこしぃ)のきらいはあるが…。
声に出して読みたい日本語 | |
齋藤 孝 | |
草思社 |
では、太安萬侶とはどんな人物だったのだろうか。Wikipedia「太安万侶」によると《太安万侶(おおのやすまろ、生年不詳 - 養老7年7月6日(723年8月15日)は、奈良時代の文官。名は安萬侶、安麻呂とも記される。姓は朝臣。多品治の子とする後世の系図がある。官位は従四位下・民部卿)》《元明天皇に稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられ、翌和銅5年(712年)正月、天皇に『古事記』として献上する》。なお多品治(おほのほむぢ)は、壬申の乱で大海人皇子方について活躍した功臣である。
《1979年(昭和54年)1月23日、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から太安万侶の墓が発見された。火葬された骨や真珠が納められた木櫃と共に墓誌が出土したことが奈良県立橿原考古学研究所より発表された》。この火葬墓が発見されるまで、安萬侶は実在すら疑われていたし、磯城郡田原本町の小杜(こもり)神社(多神社の摂社・祭神は太安萬侶)東方の小さな円墳が「太安万侶墓」だともいわれていた。住所や位階・勲等、没年が分かったのも、火葬墓の墓誌による。
しかし墓誌のほかにはほとんど史料がなく、どんな人物だったのか判然としない。わずか4か月で『古事記』を編纂したことや、格調高い序文から「漢文の天才」とか「超エリート官僚」などというイメージがつきまとうが、果たしてそうなのか。
天上の虹(20) (講談社コミックスKiss) | |
里中満智子 | |
講談社 |
大胆な仮説を打ち出したのが、里中満智子である。持統天皇の生涯を描いたマンガ『天上の虹』(講談社コミックKiss)第20巻で「太安萬侶は、悲劇の皇子・大津皇子の子である」とした(すると太安萬侶は、天武天皇の孫ということになる)。これは大胆な推理である。20巻の「あとがきにかえて」には《さて今回―「多安麻呂(太安万侶)は大津の子供」というのは あくまでもわたしの推理です 安麻呂の父は多品治という説がある……多品治は壬申の乱の功績者 ― 諸国を調べる仕事もしている ― 接点があってもおかしくない! よし! OK!》とある。
マンガによれば、大津皇子が、伊勢で斎王を務めている姉の大伯皇女を訪ねた帰り、山の民の娘(アマメ)と会い、2人は一夜をともにする。大津が自害に追い込まれ、飛鳥に戻った大伯は生きる気力をなくしていたが、そこに山の民の娘が大津の子(カムイ)を身ごもったことを知らせに来る。それを聞いた大伯は、いつか弟の子に会えるのなら生きよう、と決意する。
大伯と安萬呂(カムイ)の対面は、彼が12歳の年に実現する。歴史書編纂事業で苦慮している忍壁(おさかべの)皇子のところに多品治(安萬呂の育ての親)がやってきて、《親が言うのもなんですが、とても勉強熱心で 古くからの伝承にも興味をもっていますし なにかのお手伝いができるのでは……と》と、安萬呂を実子として紹介する。忍壁はその立ち居振る舞いから、安萬呂を大津の子と直感し、安萬呂と大伯を引き合わせる。2人だけになったとき、安萬呂は大伯に、自分がカムイ(大津の子)であることを告白する…。
まぁこれは韓流ドラマばりの因縁話であるが、とてもリアルに描かれているので、納得してしまう。悲劇の皇子の息子が、祖父(天武天皇)の悲願を完成させるのである。里中マンガでは、安萬呂は(大津の子らしく)聡明な男子として描かれている。大津は文武両道で勇敢な皇子だったから、その子も理想的な人物になるわけだ。大胆なご意見、ありがとうございました!
さて、負けずに私も推理してみよう。太安萬侶は、多氏の一族である。『奈良まほろばソムリエ検定公式テキストブック』の「多(おお)神社」によると《多神社(磯城郡田原本町多)正式名は多坐弥志理都比古(おおにますみしりつひこ)神社。祭神の神八井耳命(かむやいみみのみこと)は神武天皇の第二皇子で、この地を本拠地とした古代豪族の多氏の祖神である。『延喜式神名帳』では式内大社として登載され、四時祭の項の相甞神七十一座の中に「多社二座」とあり、臨時祭では二座とも祈雨神祭・名神祭に預かっていた。久安五年(一一四九)の『多神社注進状』には当社の旧名を春日宮として多氏の奉斎する神で、『古事記』の編者である太安萬侶は多臣蒋敷(こもしき)の孫と記している》。
Wikipedia「多氏」によると《皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされるが、確実なことは不明。神武天皇東征の後、嫡子の神八井耳命は九州北部を、庶流長子の手研耳命は九州南部を賜与されたとされる。邪馬台国の女王の卑弥呼もまた、多氏の一族である肥国造の人とする説もある》。
おお(多)、これはすごい。卑弥呼が多氏の一族という説もあるのだ。《多氏の一族は大和国十市郡に移り、同地の飫富(おう)郷(現田原本町多)に住む。甲斐国、信濃国の飫富氏は、その一族とされ、信濃国造家もまた多氏の後裔というが、いずれも伝承以上のものではない》。
雅楽演奏家の東儀秀樹は、よくご存じだろう。東儀家と多家は、ともに奈良時代から続く楽家(がくけ)である。Wikipedia「楽家」によると《雅楽を伝承してきた家系。下級の官人であり、貴族ではない。東儀家、多(おおの)家、他》。多家の雅楽師には、多忠龍、多忠紀、多忠麿などがいるし、洋楽家になった人もいる。
Wikipedia「多忠亮」によると《多(おおの)家は、古事記を編纂した太安万侶(多安万呂:おおのやすまろ)の子孫の家系とされ、先祖には平安期に伝統神楽の形式を定めた多自然麿(おおの じねんまろ)を擁しており、代々皇室に仕える楽人家として多くの雅楽家を輩出した》。
《多 忠亮[おおの ただすけ、1895年(明治28年)5月3日 - 1929年(昭和4年)12月3日]は、大正期のヴァイオリン奏者・作曲家。東京生まれ。旧制芝中学校(第8回生)を卒業し、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)入学。 宮内省式部職楽部所属の雅楽の家柄の出ではあるが、彼自身は洋楽に専心し、ヴァイオリンを専攻する。竹久夢二の「宵待草」の詩に感動、これに曲を付けて1918年(大正7年)セノオ楽譜より出版、またたく間に日本中の心をつかみ一世を風靡した》。
これは新発見だ! 「宵待草」といえば「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな~♪」である。こんな名曲を安萬呂の子孫が作曲していたとは…。
多忠修氏はジャズミュージシャンだった。Wikipedia「多忠修」によると《多 忠修(おおの ただおさ 1913年7月14日 - 1996年1月22日)は日本のジャズミュージシャン。筆名、萩原忠司。平安時代から続く雅楽の家に生まれ育つ。父の多忠基(おおの・ただしげ)は宮内省式部寮雅楽課楽長》《宮内省楽部楽生を経て、1931年、ジャズの三上秀俊バンドに参加。1932年に辞官してジャズの道に進み、1937年、14人編成のジャズオーケストラ「多忠修とミュージック」を結成。1940年、日劇オーケストラの指揮者に就任。1943年、NHK東京放送管弦楽団の指揮者に就任。1944年、横須賀海兵団に入隊》。
トニー谷、ざんす (幻冬舎アウトロー文庫) | |
村松友視 | |
幻冬舎 |
《戦後、"渡辺弘とスター・ダスターズ"への参加を経て、1949年、"多忠修とゲイスターズ"を結成。日本を代表するビッグバンドとして知られた。のち"多忠修とビクター・オールスターズ"を結成。1950年前後の日本を席捲したジャズブームの波に乗り、バンドリーダー、ジャズ・サックス奏者、指揮者、作曲家、編曲家として活躍した。バンドリーダーとしてトニー谷のバックバンドを指揮した他、作曲家としてはトニー谷の歌のほとんどを手がけた。この他の代表作に雪村いづみの『東京の三人娘』などがある。息子の多忠和は日本電子専門学校理事長》。
子孫が宮内省の楽部生、NHK東京放送管弦楽団指揮者を経てジャズバンドのリーダー、サックス奏者、指揮者、トニー谷の作曲家だったとは、田原の里に眠る安萬侶も驚いたに違いない。
ヴァイオリンやサックスは別としても、楽人家として続いてきた家柄ということなので、DNA的にも、単に「漢文の天才」「超エリート」にとどまらず、音楽の才能に恵まれていたと考えられ、なんとなく故・黛敏郎を連想してしまう。子供の頃を思い返しても、国語のできる子は音楽の成績も良かったものだ…。というわけでまとめると
里中満智子説:大津皇子似の文武両道、勇敢で聡明、イケメンの理想的な男子
tetsuda説:漢文と楽器演奏(国語と音楽)にたけた芸術家肌の秀才。やや「ええかっこしぃ」
里中さんは女性だし、もともと少女向けマンガ雑誌『mimi DX(ミミデラックス)』に連載されていたことを考えれば、理想的な男性像になることは理解できる、読者の少女たちも支持するだろうし…。いずれにしても「推理」の域を出ないので、皆さんもどうぞご勝手に想像をめぐらせてみてください!