tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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崩壊!日吉館

2009年06月24日 | 奈良にこだわる
昨日(6/23)の読売新聞に《日吉館よ さよなら 解体工事始まる》と言う記事が出ていた。《作業員5人が木造2階建ての建物の周囲に足場を設け、屋根から防音シートをつり下げた。通行人らは、シートで覆われる様子を名残惜しそうに見守りながら、カメラで撮影していた。解体工事は7月上旬に完了する》とのことだった。
うっかりしているうちに、もう解体工事が始まっていたのだ。

「事件は現場で起こっている」。早速、昨日の会社の帰り、現場に立ち寄ってみた。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20090622-OYT8T01070.htm

隣の建物は、釜飯の志津香(しづか)

県庁側から坂を登っていくと、建物が見えてきた。すでに、すっぽりと防音シートで覆われていた。見るも無惨な姿である。建物の横には解体業者の表示も出ている。後ろの建物の解体は、これからのようだが、相当傷んでいるのが見て取れる。こうして日吉館は、なくなってしまうのだ。何とも無念なことである。

私が日吉館の取り壊しを知ったのは、5/13付の奈良新聞だった。見出しは《「日吉館」取り壊しへ-文化人が愛した宿》だ。引用すると…。
http://www.nara-np.co.jp/n_soc/090513/soc090513a.shtml

《会津八一ら多くの文化人に愛された奈良市登大路町の旅館「日吉館」が、老朽化のため取り壊されることが分かった。名勝奈良公園の一角で、所有者の申請を受けた文化庁が現状変更を許可した。店舗兼用住宅に生まれ変わる予定で、古都の名物旅館は多くの思い出とともに姿を消す》。

《日吉館は奈良国立博物館北側にあり、平成10年に88歳で亡くなった田村キヨノさんが切り盛りしてきた。延べ床面積約250平方メートルの木造2階建て。歌人で早稲田大学教授だった会津八一や「古寺巡礼」を著した和辻哲郎、評論家の小林秀雄ら多くの文化人が定宿とした》《学生にも愛されたが、田村さんの高齢化で平成7年に廃業、約80年の歴史に幕を閉じた。セミナーハウスとして活用する計画もあったが、立ち消えとなっていた》。


背後の建物は、まだ残っていた

地元有志の間から「セミナーハウスとして活用したい」という声が上がったのは3年前のことだが、彼らの話では「所有者の同意が得られなかった」のだそうだ。所有者間の「権利関係が複雑だった」という話も聞いた。決して、自然に「立ち消え」となったのではない。

私は日吉館に泊まったことはないが、宴会で使わせてもらったことがある。素朴な家庭料理が出てきたという記憶がある。帰り際には、奥に座っておられた田村キヨノさんに、挨拶させていただいた。ならまちの町家のような雰囲気の旅館だった。


ネットには出ていないが、奈良新聞(5/13付)の記事には続きがある。手元の切り抜きによると《今年に入って所有者が建物の解体を文化庁に申請。県教育委員会が建物を調べたところ、柱が傾くなど中に入るのも危険な状態で、報告を受けた同庁は再利用不可能と判断した》。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazupon279/26696928.html

《周辺は第一種風致地区と歴史的風土特別保存地区。奈良市景観課にほぼ同面積の店舗付き住宅で申請が上がり、先月3日に許可された》。

《文化庁(文化財部)記念物課の担当者は「保存の動きをもう少し早く知っていれば」と残念がる。現在のままでは倒壊の危険もあり、所有者が県と協議することを前提に現状変更を許可したという》。

文化庁担当者のコメントが気になる。記者がつけ加えた「残念がる」は、本当なのか。「保存の動きをもう少し早く知っていれば」文化庁は動いてくれたというのだろうか。文化庁担当者の不勉強(情報不足)はさて置くとしても、霞ヶ関に対して、「地元でセミナーハウスの構想があるよ」と知らせるべきは、(現地調査担当の)奈良県教育委員会なのだろうか。県教育委員会が早い段階でそのことを報告してさえいれば、この文化遺産の解体は免れたというのか。


※解体前の日吉館:橋川紀夫氏のホームページ「奈良歴史漫歩」(No.067 日吉館の記憶)より拝借       
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm070.html

日吉館の常連客にはマスコミ関係者もいるが、早くに全国紙で報道されていれば、文化庁を動かすことができたのだろうか。また、われわれ県民が打つ手はなかったのだろうか…。考えれば考えるほど、疑問や後悔の念が浮かび上がってくる。

記念物とはいえ、私有財産の処分に文句をつけてはいけないのだろうが、権利関係が複雑で所有者が手放さないと聞いていた日吉館が、たった3年で方向転換し、手回しよく市の許可も得て、あっさり解体・新築されてしまうというのは、どうも後味が悪い。これは、新たな反省材料としなければならない。

近代奈良の貴重な文化遺産が、また1つ失われてしまった。文化庁が《正面外観を現状に近いものにすることや、使える部材の活用を所有者側に求めている》ということを、(強制力はないものの)せめてもの救いといなければならないのだろうか。

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6 コメント

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引っ越してきました (奈良男)
2009-06-25 04:28:27
奈良が大好きで この度 奈良に引っ越してきました
奈良のことがよく分かるのでいつもガイドブック代わりにさせてもらってます
また お邪魔します
返信する
南部にも (tetsuda)
2009-06-25 06:26:39
奈良男さん、コメント有り難うございました。

> この度 奈良に引っ越してきました 奈良のことがよく
> 分かるのでいつもガイドブック代わりにさせてもらってます

おお、奈良に来られましたか。奈良は奥が深いですよ、私もまだまだ修業の身です。北部をひと通り回られたら、ぜひ南部にも足をお伸ばし下さい。
返信する
事業継承の難しさ (金田充史)
2009-06-25 22:52:39
こんばんは、tetsudaさん。

このニュースを読んで、私も残念至極に感じた反面、一つの時代が過ぎた、と云う感じもしました。この種の、民宿的経営の旅館から、私共の館までを含めて、経営者の代替わり、と云う問題を常に抱えています。相続の問題、子供・孫が事業継承をしてくれるかどうか、など、一族企業と云われるモノの宿命です。今は、金融機関がこの種の相談に乗って頂ける様になりましたが、現実は、なかなか難しいです。

この日吉館も、田村氏の死去後、同好会的な運営を行われていた時期も有りましたが、結果的に上手く行かなかった様で、いつの間にか閉鎖されてしまいました。

tetsudaさんの書かれている、「若し」がどこかで一つでも引っかかっていれば、建物としては残せたかも知れません。しかし、旅館は、私の考える所、建物だけのコンテンツでは無く、ここのオーナー、社員、社風、等々、様々な要因で成り立っているモノだと感じます。つまり、田村氏の死去によって、氏の考えを引き継いで経営をする人間が居て、初めて「日吉館」として成り立つ訳で、それが無いと、単なる木造建築な訳です。

役人さんや、文化人と云われる方々も居られたでしょうが、現在、彼等は、一般的なホテルに宿泊されています。総論としては必要なのかも知れませんが、各論となると必要では無い訳です。

今後どうなるか、私には判りませんが、街と、そこに住む人々が変成していく、これも一つの過程で有る、と感じます。基本的に、経営を引き継いでいく事が出来なかったビジネスモデルの一つ、とでも云うべきものでしょう。

残念な事ですが・・・・・
返信する
セミナーハウス (tetsuda)
2009-06-27 20:54:01
金田さん、コメント有り難うございました。

> 建物としては残せたかも知れません。しかし、旅館は、私の考える
> 所、建物だけのコンテンツでは無く、ここのオーナー、社員、
> 社風、等々、様々な要因で成り立っているモノだと感じます。

それはおっしゃる通りです。東京の澤の屋旅館に寄せていただいた時、それを感じました。ですから、何も日吉館のような家族旅館をそのまま残してほしかった、と言っているのではありません。
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/b768e3a7f8a261372e28d6c95f4310f2

> 街と、そこに住む人々が変成していく、これも一つの過程で
> 有る、と感じます。基本的に、経営を引き継いでいく事が出来
> なかったビジネスモデルの一つ、とでも云うべきものでしょう。

それは分かりますが、そう断じてしまうと「衰退産業」「構造不況業種」というレッテルを貼ることになります。残念ながら日吉館は、相続人の方が引き継げなかった訳ですが、世間には、このような家族旅館を求めるニーズは十分あります。

また、日吉館の保存運動をしていた人々は「セミナーハウスとして活用しよう」と言っていたわけですから、何らかの形での保存・活用はできたと思います。

文化庁担当者が「残念がる」というのは、地元有志(保存運動の当事者)→県(教育委員会)→文化庁(記念物課)という連携プレーが拙かった、ということだと理解していますが…。
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なるほど・・・ (金田充史)
2009-06-28 22:26:18
tetsudaさん、こんばんは。

なるほど・・・趣旨は理解致しました。

保存運動の方々が、一体どういう活動をされていたかは、私自身は全く存じ上げておりませんので、これについては何とも言えません。しかし、状況判断するに、「地元有志(保存運動の当事者)→県(教育委員会)→文化庁(記念物課)という連携プレーが拙かった」と云う事は、行政側の縦割りの弊害では無いでしょうか。

それなら、ビジネスモデルがキチンと成立する状況に有った訳で、残念と云うより、「ナンじゃこりゃー!」と云う、非常にもったいない例だと感じます。

それなら無くなったモノを、どうこう云うより、第二・第三の日吉館を出さない様にするべく、我々奈良県民一人一人がかんがえる必要に迫られていると思います。
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第2・第3の日吉館を出さないために (tetsuda)
2009-06-29 06:41:03
金田さん、コメント有り難うございました。

> 「地元有志(保存運動の当事者)→県(教育委員会)→文化庁
> (記念物課)という連携プレーが拙かった」と云う事は、
> 行政側の縦割りの弊害では無いでしょうか。

それも、あり得ます。

> 第二・第三の日吉館を出さない様にするべく、我々奈良
> 県民一人一人がかんがえる必要に迫られていると思います。

おっしゃるとおりです。第2・第3の日吉館を出してはいけません。そのためには、この連係プレーの道筋をシッカリとつけておかなければいけないと思うのです。どなたか、この辺りの情報に詳しい方がいらっしゃると思うのですが…。いちど「なら県民電子会議室」にでも、問題提起することにします。
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