tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師の『体を使って心をおさめる 修験道入門』集英社新書(8)/「近代の災禍と修験道再生 PART Ⅰ.」

2022年04月21日 | 田中利典師曰く
田中利典師の名著『体を使って心をおさめる 修験道入門』をご本人の抜粋により紹介するシリーズ。今回は8回目、「近代の災禍と修験道再生 PART Ⅰ.」を紹介する。
※トップ写真は、吉野山下千本から「七曲り」方面を見下ろしたシーン(2022.4.7 撮影)

もう20年近く前になるが『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』に、いきなり「当山派」(真言宗系)とか「本山派」(天台宗系)という言葉が出てきて、面食らったことがある。それほど修験道は遠い存在になってしまっていたのである。師のFacebook(3/1付)から抜粋する。

シリーズ修験道「近代の災禍と修験道再生」
拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門』(集英社新書)は7年前に上梓されました。一昨年、なんとか重版にもなりました。「祈りのシリーズ」の第2弾は、本著の中から「修験道」をテーマに、不定期にですが、いくつかの内容を紹介いたします。よろしければご覧下さい。 

************ 

「神仏分離令による大ダメージ」
世は下って、明治維新政府になると、宗教政策はより強化され、古来より信仰されてきた神仏習合の風を打破しようと、神社と仏寺を分離する政策を強行しました。1868(明治元)年の「神仏分離令」(正式には神仏判然令)により、法律で神と仏を分けろ、神社と寺院をはっきりと区別しろ、という命令が出されたのです。

いまの日本では、神社と寺院ははっきり区別されていますが、もともと寺院と神社とは、密接不可分なものでした。お寺の中に神社があり、神社の中にお寺があったのです。日本人にとっては、神さまも仏さまも、ともにありがたいものです。家の中でも、神棚と仏壇の両方ある場合も珍しくはありません。神も仏も、ともにおまつりして拝んできました。

ところが、「神仏分離令」というのは、神か仏のどちらかを残し、どちらかにはっきりさせろという命令です。しかも、この「神仏分離令」は、「神道を国教化したい」という明治政府の考えが基盤にあったため、全国で廃仏毀釈といわれる仏教の排斥運動がはじまりました。

神社と併設されていた寺院の多くは破壊されました。貴重な仏像や経典、法具などは焼かれたり川に流されてしまいました。国宝級のものまで、二束三文で売りに出されたりしたのです。

修験道の霊場もまた、この「神仏分離令」によってたいへんな被害を被りました。明治元年6月、金峯山寺には、「蔵王権現を神号に改め、僧侶は復飾神勤せよ」という厳しい通達がありました。その意味は、蔵王権現を神に改め、僧侶は神職になるか、僧侶をやめて還俗せよというのです。

修験道は、神も仏も礼拝する宗教です。修験道の本尊は、蔵王権現をはじめ、権現信仰という、仏さまが神の姿として現れたものが中心です。神なのか仏なのか、明確に区別しはいたしません。それを「神にしろ」と命じられたのです。

「過酷な迫害の歴史」
全国において、多くあった修験の霊場はほとんどが神社になり、山伏は神官となりました。関東一円にも、たくさんの修験の霊場があったのですが、たとえば武蔵の御嶽山や、秩父の三峰山のように、その多くは神社になるか、すべて取り壊されるといった運命をたどりました。

そして明治4年には、社寺の境内以外の朱印地や除地が上知(政府に上納すること)されることとなります。たとえば金峯山寺の場合には造営山や大峯奥駈道にかかわる靡(なびき)左右の土地等の所有権を失ってしまいました。それまで広大な境内を持ち、多くの堂社や支院なども含め、山をまるごと所有しているような感覚でいたところが、主要な建造物のあたりだけに所有権が限定されてしまったのです。

大きな城にたとえると、堀の周りからすべてがその城の所有地であったのが、天守のある建物のあたりしか所有権が認められなくなった、そんな感じです。もともと、力を削ぐことを目的としているので当然といえば当然ですが、宗教の側にとって大変なダメージとなる政策でした。

さらに追い打ちをかけるように、1872(明治5)年に「修験道廃止令」が出されます。山伏の奉じている宗教「修験道」そのものが禁止されたのです。「山伏になることはあいならん、山伏は許されない」ということです。

そうして、権現信仰が禁止となりました。「修験の寺は、神社となるか、檀家寺かどちらかにせよ」と選択を迫られます。役行者以来、1200年にわたって営まれたわが金峯山寺の山上山下蔵王堂をはじめ、修験道の根本聖地である吉野から、修験寺そのものがなくなってしまうという事態に陥ったのです。

明治6年には、金峯山寺に対し、「白鳳以前に復古し、金精明神(こんしょうみょうじん)をもって本社とし、金ノ峯ノ神社と称し、蔵王堂ならびに仏具、仏体等をみな取り除くように」と指令がありました。明治7年には、奈良県から金峯山寺に対し、「吉野山蔵王堂を金峯神社口ノ宮、山上蔵王堂を同じく奥ノ宮とするべきこと」を通達してきたのです。

このとき、威容を誇った吉野奥千本・安禅寺の蔵王堂さえも、解体されてしまいました。幸いご本尊だけは山下蔵王堂に移されて破損からまぬがれましたが、安禅寺に限らず、他の修験寺はほとんどが根絶やしにされてしまったのです。こうして、根本聖地においても一千年以上におよぶ金峯山寺の歴史が中絶させられたのでした。

明治のこの法難はたんに金峯山寺だけではなく、全国を駆け巡ります。明治政府は修験宗そのものを廃止したわけで、本山派・当山派・羽黒修験など全国の修験は、天台宗か真言宗のいずれかに帰属するように命じました。これは社家との争論を避け、神仏習合を排するという意図であったと言われています。これによって本山派修験の三井寺と聖護院は天台宗に、そして当山派修験の醍醐寺は真言宗に一時期、帰属するところとなりました。
#ロシアにウクライナへの即時停戦を訴えます!
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« おススメ、駅近!自家製麺蕎... | トップ | 生駒駅前、最強のイタリアン... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

田中利典師曰く」カテゴリの最新記事