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田中利典師「故 五條順教猊下(げいか)を悼(いた)む」

2023年05月05日 | 田中利典師曰く
2009年5月16日、田中利典師にとって悲しい出来事があった。長年、お弟子として随身(ずいじん)されてきた金峯山寺の五條順教管長(当時)が、遷化(せんげ)されたのである。
※トップ写真は、金峯山寺蔵王堂(2023.3.28 撮影)

利典師は「順教猊下追悼~その1」(2009.6.3)と、「順教猊下追悼~その2」(2009.6.5)という2つの追悼文を、ご自身のブログで公表された。猊下への深い敬愛の念が感じられる、素晴らしい追悼文である。以下、これら2本をまとめて紹介する。

順教猊下の追悼文を2つ書いた。最初のものは以前ブログで書いた内容になるが、密葬の忙しい中の執筆だったので少し手直しをして号外の機関誌(金峯山時報)に載せた。まずその文を転載する。

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「猊下の教えを胸に(順教猊下追悼~その1)」
私には人生の師が3人いる。1人は8年前に亡くなった父である。実父であるとともに、この修験の道に私を導いた師僧である。父の背中をみて大きくなったから、修験の道に繋がったのである。心底、父の元に生まれてきてよかったと思っている。

もう1人は龍谷大学以来、ずっと師事しているA博士。大学での出会いがご縁で、A博士に一生師事出来るという幸せはとてつもなく大きく、今でも会うたびに示唆に富んだアドバイスと慈愛をいただくのは本当に有り難いと言うほかない。

そしてもうお1人は、15歳のときからずっとそばで随身をさせていただいてきた五條順教管長猊下である。まるで父のような心持ちで38年、仕えさせていただいた。まあ仕えるといっても、従順ではなかったかもしれないし、猊下にとっては到底弟子とは思えないような、きっと不出来な人間であったに違いないが…。ともかく私にとっては無二の人であった。

その猊下が去る5月16日未明、不帰の人となられた。その朝、吉野山は深い深い悲しみに包まれ、私もまた言いようのない寂しさと悲しみに、立ちつくす思いでいた。病院にお迎えにいかせていただいて、ご遺体を前に最後のお別れを申し上げ、これまでのご恩にひたすら感謝していた。

猊下には多くの想い出がある。東南院小僧時代のこと、シルクロードやスペインをお供したことなどなど…。それら中で一番強烈な想い出となったのは、つい2ヶ月ほど前、重い病床で闘病生活を送られる中、私は遺言のようにして、ある教えを受けたことである。師はその病床において「吉野修験の究極は蔵王一仏信仰である」と宣言された。私にとってこれは本当に感動する一言だった。それから亡くなる直前まで、お見舞いにいくたびにこのことを繰り返しお話になられた。

かねてより、私が理想の僧侶とする生き方は、『往生要集』を著した恵心僧都源信和尚(えしんそうづげんしんかしょう)であるが、和尚の何を理想とするのか…というと、和尚最晩年の著作に『一乗要訣』という本がある。本書の中で和尚は「一乗仏教を極めて、最後は阿弥陀を祈る」という一言を残されている。この文章に接したとき、私もいづれはかくありたい、と願うところとなったのである。

私はいつまでもまともな修行もなかなか出来ない、ほんとに不具合な修験の僧侶である。それは一番私が知っている。でも、とめどなく生まれ続ける煩悩と、哀しいくらいに猥雑な日々に追われながらも、僧侶として縁をいただいた以上は見性(悟り)を得たいし、いつか、どこかで、なにかしら信仰的安心(あんじん)を獲得したいと願っている。

もちろん源信和尚のように優秀ではないから簡単なことではない。でも、修験信仰のご縁の中で、さまざまな関わり合いや求道遍歴をして、ついにはなにか和尚のような「最後は阿弥陀を祈る」と言い切れる、信仰的境地を得たいと思っているのである。

私が管長猊下のお言葉を聞いて感動したのは、この源信和尚のことを思い浮かべたからである。病床の猊下のもとにいき「蔵王一仏」信仰を聴くたびに、猊下は修験信仰を極めて、ついに、源信和尚の境地に到達されているんだと身震いするような思いでいたのである。

とうてい猊下のような生き様は出来ないまでも、これまでいただいた大きなご恩に報いるためにも、その最期にお示しいただいたかけがえのない信仰上の金言をしっかりと胸に受け止めて、お教えを守っていきたいとお誓いする次第である。

「順教猊下の想い出(順教猊下追悼~その2)」
五條順教管長猊下の想い出は尽きない。ご遷化の訃報を受けてすぐ、ある新聞社から取材依頼があった。私に猊下の想い出を話してほしい、ということだった。記者にはまず、管長様はどんな方でした?と尋ねられた。

猊下はとても美しい綺麗な管長様でした。立ち居振る舞いがいつも清らかで、まさに管長様らしい管長様。管長様という地位というかお立場が天職のように感ずるほど、管長様らしい管長様でした。

管長様ご自身も管長とはかくあるべきだという、なにか信念のようなものをお持ちで、その自分の信念に徹しきっておられた…そういう私の印象でした。それは晩年重い病床にあられても最後の最後まで変わることなく、最後まで美しい管長様のままでした。その信念の堅固さに、改めて凄味と畏怖を覚えるほどの方でした。

貴方にとっては一番印象に残る言葉はなにでしたか?とも聞かれた。金峯山寺に職員として入ったとき、「志の大きな僧侶になりなさい」と最初の教えを受けました。これが私が金峯山寺で活動する上で常に大きな糧となりました。

修験三本山合同や世界遺産登録、修験道大結集、そして今年は紀伊山地三霊場会議の発足などなど、自分の身の丈を超えるようないろんな事業に関わることが出来たのも、全て管長様のお導きのお陰でした。いつもいつまでもこの管長様の御言葉を大切に大切に胸に刻んでおきたいと思います…とも答えた。

記者の取材に答えながら、管長様と過ぎ越してきた38年が走馬燈のように私の脳裏を去来する。管長様は私の父とはとても親しい関係で、そういうことからお出会した当初から私は大事にしていただいてきた。自坊にも何度かおいでいただいた。

記念大祭や晋山式などの公式行事のほかにも、プライベートでもなんどもお越しいただいたものだった。父が亡くなってから一度も公務以外でおいでいただけなかったことが今となっては心残りである。猊下お気に入りのお蕎麦屋さんにもう一度お供をしたかったです。

猊下訃報のあと、猊下が晩年親しくされていた作家の方からメールを頂戴した。猊下はとてもあなたを頼りにされていたのですよ…と教えていただいた。猊下の想い出はつきないが、猊下のご期待に添えるように、これからも志を大きく、前に進んでいきたいと願うものである。ありがとうございました。 合掌。
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