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専行院(天理市柳本町)に記念碑/崇神陵の周濠をため池に改修(毎日新聞「ディスカバー!奈良」第79回)

2018年08月25日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。この木曜日(8/23)に掲載されたのは「水の潤いに感謝 天理市の修陵餘潤之碑」、筆者は当会の名物男・副理事長の雑賀耕三郎さんである。
※トップ写真は崇神(すじん)天皇陵の周濠(しゅうごう=堀)

巨大な崇神天皇陵は、皆さんよくご存じだろう。国道の向かいには、とても美味しい「御陵餅本舗」もある。山と渓谷社刊『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』によると、

崇神陵(天理市柳本町)<行燈山(あんどんやま)古墳>
大和盆地東南部に展開する大和古墳群の中核をしめる古墳の一つである。龍王山麓の西に延びる丘陵の上に築かれた、全長242㍍の前方後円墳であり、前方部を西に向ける。幕末に崇神陵と治定(じじょう)されたが、それ以前には景行天皇の陵に治定された経緯があり、いずれにせよ幕末においてかなりの修陵が施されたものと考えられる。

特に濠(ほり)については貯水量の増加を目的とした堤体の嵩(かさ)上げ・浚渫(しゅんせつ)工事がなされており、現在の墳丘裾がどこまで本来の状況を残しているかについては不明である。


この嵩上げ・浚渫工事により、周囲の灌漑(かんがい)用水が確保されたのである。それを記念して建てられたのが「修陵餘潤之碑」というわけだ。では雑賀さんの記事全文を紹介する。


修陵餘潤之碑

水の潤いに感謝 天理市の修陵餘潤之碑
天理市柳本町の専行院(せんぎょういん)には、柳本織田藩の歴代領主の墓碑と「修陵餘潤之碑」(しゅうりょうよじゅんのひ)という自然石の大きな碑が建てられています。専行院の東方には崇神天皇陵があり、陵をめぐる巨大な周濠を見ることができます。

もともとは小さかった周濠を巨大な池に作り替えたのは、幕末の織田藩の修陵工事でした。織田藩は工事と併せて周濠を拡大し、灌漑(かんがい)用水の拡充を図ったのです。陵、周濠の改修により、多くの田に潤いの水が届けられることになりました。

水の恩恵を受けた農民が時を経て、田植えを終えた時期に専行院に集まり、織田藩の領主の法要を始めました。法要は今も続いています。あわせて、修陵工事によって水の潤いを受けたと記した「修陵餘潤之碑」を境内に建て、感謝と喜びの気持ちを表しました。        

■メモ 専行院はJR桜井線柳本駅から東に徒歩約10分(奈良まほろばソムリエの会 副理事長 雑賀耕三郎)。


天理市に織田の「柳本藩」とは意外な感じがするが、できたいきさつは次の通りである(Wikipediaなどから抜粋)。
・信長の弟で、茶人として有名な織田有楽斎(長益)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に与して戦功をあげたことから、大和国と河内国の内に3万石の所領を与えられた。
・その後は徳川家康に仕えず、豊臣秀頼の大叔父として秀頼の家臣となっていた。大坂冬の陣では豊臣方として戦ったが、その裏では徳川方に内通したり、冬の陣における和睦交渉で裏工作を行なっている。有楽斎は大河ドラマ「真田丸」で井上順が演じていた人物だ。
・夏の陣直前に豊臣方から離れたため、戦後に罪には問われなかった。しかし有楽斎は藩領3万石のうち、1万石を自分の隠居料とし、残りの2万石うち、1万石を四男の長政(柳本藩)に、同じく1万石を五男の尚長(芝村藩)にそれぞれ分与した。

修陵餘潤(御陵の改修工事のおかげで水の潤いをいただいた)とは、よく考えられたネーミングである。私も専行院にお参りしなければ。雑賀さん、貴重な情報をありがとうございました!

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