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田中利典師の「法華経の冥加」

2024年10月03日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「法華経の冥加(みょうが)」(師のブログ 2016.10.29付)。冥加とは、〈神仏から知らず知らずに受ける加護〉のことである。
※トップ写真は近隣公園の桜。コロナ渦中で「Stay Home!」を言われた2020.3.30.撮影

師は法華経「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」の最後の4句を読み上げていたとき、〈どうにも有り難くなってきて、自分ながら驚いてしまったのである。涙が出そうに有り難く心に響くのであった〉とお書きである。その後、師は「法華経一昼夜不断経」という修行を、金峯山寺の年中行事に、取り入れられた。では全文を以下に紹介する。

「法華経の冥加」ー田中利典著述集281029
今回からしばらく、私が26才から金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」に書かせていただいた駄文から、折に触れて、転記します。

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「毎自作是念、以何令衆生、得入無上道、速成就仏身(意訳:私はいついかなる場所にあっても、次のことを念じ続けている。 即ち、どのようにして人々を無上の仏道に入らしめ、しかも速やかに悟りに到達して仏の境地を得せしめようか、と)」。…これは妙法蓮華経如来寿量品の最後の四句である。 日頃の勤行では何気なく唱えている読み慣れた経文であるが、昨年の本山練成会で、ちょうどこの如来寿量品を講読したとき、この一節に胸を詰まらせたことがある。

それは寿量品の解説をし終えて、みんなで偈文の書き下しを読み上げていたときであった。 「毎に自らこの念を作す、何を以てか衆生をして、無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと」。この一偈が誠にどうにも有り難くなってきて、自分ながら驚いてしまったのである。涙が出そうに有り難く心に響くのであった。

懸命に泣くまいと歯をくいしばってふと目を上げると、席の前列の二、三人の人が、やはり小生と同じように感無量の表情を湛えている。こんなことがあるのだろうかと、不思議なくらいの有り難さであった。二年あまり、法華経の講読は続いているが、あんなことは後にも先にも一度きりであるが、本当に法華経の有り難さが身にしみた一時であった。それ以後、法華経講読の冒頭では必ず、この寿量品の偈文をみんなで読み上げることにしている。

法華経には五つの功徳が説かれている。受持・読・誦・解説・書写の五つである。受持とは持つことであるが、本当はただ持つのではなく、法華経の教えを堅く信じ、堅持することをいう。でも単に持つだけでもそれはそれで功徳にはなる。読とは目で見て読むこと、誦とは暗唱すること、心の中で繰り返し読むこと。

解説は法華経の意味を理解し、人々に説いていくこと。書写とは写すこと、つまり法華経の写経である。これらは五種の功徳であると共に、五種法師の修行でもある。法華経を広める人のことを法師というが、その法師が行ずるべき修行が受持・読・誦・解説・書写の五つなのである。

この五種法師の修行、当初、漫然と受けとめていたが、寿量品の冥加に出会って以後、読誦の大切さに思いを致すようになった。何よりも我々は法華経を読まなければならないのである。しかも身にしみて有り難くなるような読み方をしなければならない。近頃真剣にそう思っている。

実は法華経を読み出して不思議なことがもう一つある。それは法華経を読み進めば読み進むほど、先の五種法師の修行を私に行じさせようと、法華経自体が問いかけてくるのである。強要してくるといった方が正確かも知れない。それはちょっと怖い感じさえする。

法華経とはそんな不思議な経典であるが、先に述べたように間違いなく有り難い経典でもある。その法華経が本宗の中心的経典であることはご存じのはず。是非、多くの人に法華経の縁に連なっていただきたいと思っている次第である。
「金峯山時報第362号(1997年3月号)所収、蔵王清風」より

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法華経はほんとに不思議なお経である。もう20年以上も前に書いた文章であるが、本質をよくとらえていると、我ながら、思うところである。このあと私は金峯山寺の年中行事に、「法華経一昼夜不断経」という修行を、青年僧の会の主催によってはじめることとなるが、法華経講話での冥加がなければ、はじまっていない修行会である。
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