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田中利典師と鏑木毅さん(トレイルランナー)の対談「弘法大師の道」

2023年08月10日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」では、トレイルランナーの鏑木毅(かぶらき・つよし)さんとの特別対談「弘法大師の道」を紹介する。この対談は、師のブログ「ウルトラトレイル・マウントフジの前夜祭」(2013.4.25 付)に、リンク(県のHP)が貼ってあった。師のブログには、
※トップ画像は、県のHPから拝借した

急遽決まったのですが、世界的なイベントになりつつある、ウルトラトレイル・マウントフジの前夜祭懇親会で、大会参加者の安全祈願勤行に参戦することになりました。

弘法大師の道などのプロジェクトでご一緒して以来少し親しくしていただいている鏑木毅さんが委員長を務めておられるのがご縁で、今夜、富士山麓河口湖に山伏が参戦します。ただ安全祈願のお手伝いをするだけで、私が走るわけではありません。私と鏑木毅さんとの「弘法大師の道」対談はこちら


またWikipedia「ウルトラトレイル・マウントフジ」によると、

ウルトラトレイル・マウントフジ (ULTRA-TRAIL Mt.FUJI) は、2012年から始まった、山梨県・静岡県をまたいで開催されているトレイルランニングのウルトラマラソンレース。総距離はおよそ100マイル(約160km)、累積標高差は約8,000m、制限時間は46時間。

日本・アジアで最初に設置された100マイルレースであり、国内・アジア地域の100マイルレースにおける草分け的存在である。2014年大会よりウルトラトレイル・ワールドツアーの1つ。


Wikipedia「鏑木毅」には、

鏑木 毅(1968年(昭和43年)10月15日~)は、日本のトレイルランニング競技者。富士登山競走や日本山岳耐久レースをはじめ、数々の競技大会で優勝。

「山修行」と「トレイルランニング」を比較対照しながら、それぞれの特徴を浮かび上がらせ、最後は吉野から高野山に至った弘法大師に思いを馳せる…。とても興味深い対談である。長いので少し端折らせていただいた(それでも長いが)。ぜひ最後までお読みいただきたい。

特別対談
己の進むべき道を模索しながら、深山幽谷を彷徨った若き日の空海。彼が修行の場として選んだ「山」とは一体何なのか。その「山」の在り方に迫るべく、山岳信仰を礎とした「修験道」総本山の山伏と、「トレイルランニング」のトップランナーとのスペシャル対談が実現!1200年前の空海の姿に想いを馳せ、21世紀の山と向き合う男たちが語るそれぞれの「山」とは。

田中利典 日本人にとって山は聖なる場所
修行は朝4時頃から夕方15~16時頃まで1日11~12時間歩き続けますが、ただやみくもに歩くのではなく、1日におよそ15~20カ所の「靡(なびき)」という拝所に祈りを捧げます。「靡」は山の中に入っていくと大木になったり、岩になったり池になったりします。

つまり自然そのものに神仏がおられて、そこに自分を超えた聖なるものを感ずる。“歩かせていただく”、と感じるわけですね。そういう心の在り様がいちばん大事であって、普段の自分の心の中に持っているいろんな灰汁(あく)のようなものが行を通じて溶けていくんです。

鏑木毅 修験道とトレイルランニングは似ている?
山を走るランニングですが、常に自然と対話しながら走っているんです。やみくもにピークを目指すのではないというお話がありましたが、まさにトレイルランニングもそうで、自分自身あるいは自然との対話です。

山伏の方々のように山を巡りながら拝む、といった行為は私たちはしませんが、気を感じる場所では立ち止まってふと自分自身に問いかけてみたり、あの場所に行くんだ、ということが目的ではなくて自分の足の向くまま、気の向くままに山を楽しんで帰っていく。

時には自然の中で風雨にさらされたりいろんな危険もあります。そういった中で自然と上手くやりとりしながら、自然を征服するのではなく、自然の流れの中で上手く自分自身を、活路を見出して走る、そういったところに魅力があるんです。

私たちも時に20数時間ぶっ通しで走る中で、ホントに自分自身の精神が壊れていって、幻覚の世界でいろんなものが見えてくるんです。疲労の極限の中で山中を走っている時に、自分自身が一体何者なのかが初めてわかるんですね。

あ、自分っていうのはこういう人間なんだ、と普段ではわからない本当の自分の姿がわかる。私たちは信仰心から走っている訳ではありませんが、そうしたメンタリティという部分では似てるなと思うんです。そういう意味では、吉野や熊野の山を走るということは私たちにとっても魅力的です。

田中利典
ちょっとトレイルランニングと違うと思うのはね、その歩く行為の中に、自分を超えたもの、それは神でも仏でもいいのですが、そういうものとお経を唱えながら対峙する時間や相向かう時間があって、それによって自分の我がとれていくような、気づきが生まれるような…そんな儀礼というかシステムが山の修行の中ではまさに1000年もかけて作られてきた、そういう凄さというか、心地よさがあるんだと思います。

トレイルランニングというのは欧米で始まるわけですが、一神教の世界というのは、自然と人間が神の同心円にはいないんですね。日本人の神仏は、人間の同心円の中にいて、自然もあって、神が超越していない。

これに対して神が超越している一神教というのは逆に言うと、神と契約した、帰依した人間はどのように自然を切り取ってもいいという、そういう論理が実はあって、その道筋で自然を征服してきたし、平気で自然を切りきざんできたのです。

日本人は自然そのものをそのままで尊んできた。だから「お山」に入ると、そういう敬虔な想いを自ずから取り戻すと思うんです。欧米発のトレイルランニングはその辺はどうなのかなあ、と。

鏑木毅 日本版トレイルランニング
僕がみなさんによくお話しするのは、トレイルランニングをする時に山と喧嘩しちゃダメだよ、ということです。山を征服している、とか山に勝つんだ、みたいな気持ちでいっちゃうと自分がダメになってしまう。上手く山と仲良く、トレイルを仲間や友達だと思って走らないと自分が潰れちゃう。そこをよく話しますね。

確かにトレイルランニングはもともとは西洋のスポーツなんですけれども、実は僕は「日本版トレイルランニング」というのがあってもいいんじゃないかなと思っているんですよね。もっと山のことを知ったり、山の持つ歴史を知ったり、宗教的な部分もあってもいいと思うんですよね。

そういうものを感じながら山を走るスタイル、それはまた西洋にはないスタイルなので、そういったスタイルのトレイルランニングをこれから自分自身でやっていきたい。そういう意味では、修験道というものに少しずつ近づいてきているのかなあ、なんて思ったりはしているんですけれどもね。

田中利典
トレイルランニングでも日本で関わっている方は、DNAの中に自然に対する畏怖とか敬虔な想いをお持ちなのかなと思います。日本人は近頃は何でも欧米化していって、自分たちが持っていたものを少し卑下するところがありますが、本当は欧米人が憧れるようなものを今なお持ち続けているというところがあるんですね。

欧米で育ったやり方をそのまま日本に通じさせるのではなくて、今おっしゃったような日本的な形で新たな魅力を創り出すことが、本当の意味での日本人にとってのトレイルランニングになると思いますし、神との関係、仏との関係、信仰的なこと、あるいは人間の生きている根源的なことがわからなくなった現代において、そういうスポーツを通じて実は日本人が長く大事にしてきた世界に触れることができる、安心できることが大事になるような気がしますね。

鏑木毅
先日、熊野古道を走るというイベントをしたのですが、参加者が言っていた印象深い言葉があって。「普通の山道を走るのもいいけれど、宗教的な意味がある、昔からいろんな人が通ってきたいわく因縁のある道を走るというのはプラスアルファの喜び・楽しみがある」と。そういうスタイルこそまさに西洋にはないスタイルです。そうした部分をぜひ若い方にも感じていただきたい。

田中利典
我々の修行の参加最低条件は、地下足袋で行きましょう、ということです。地下足袋は実は痛くて、ランニングシューズとかトレッキングシューズのほうが足は楽になるんですよ。だけど我々にとって山というのは神仏の世界なので、山が傷ついて痛がるようなことはしない。ストックも使用しない。我々は金剛杖という木の杖を使う。木ですと岩を突くと木が摩耗していきますが岩はそんなに傷まないわけですよね。

そういう自然に対する労わりや、そこに神仏を感ずる計らいみたいなものをアイテムとしても持っているわけです。地下足袋ホントに痛いんですよ。あれが痛いから行きたくないという人もいるくらい痛いんです(笑)、でも足の裏を通して岩の痛み、自然の息吹、息遣いみたいなものを感じられるんですね。そういうものをどこかで持っていただければ…。

鏑木毅
確かに普通の山道を走るのとはまた違う意味があるなと思うんですよね。言ってみれば「郷に入っては郷に従え」という言葉のように、意味がある道にはなぜ意味があるのかということを理解して、そのルールに従って行動するということはすごく重要なことなので。

田中利典
ひとつ大きなルールがありましてね。山上ヶ岳一帯は女人禁制なんですね。女人禁制の在り方はいろいろご意見があるとは思うんですが、少なくともあの山を信仰の山として守ってきて、今に続いている意味というのは、信仰に関わっている人間がこれからどうしていくかというのが非常に大事で、そうじゃない人たちが自分の論理で壊していくというのは違うと思うんですね。

先程言ったその山が持っている歴史・風土を尊びながら入らせていただくのであれば、自分たちは関係ないからと土足でふみにじっていくような、自分の論理を持ち込んでいくというのは非常に問題も多い。無理に入っていかなくても回り道をすればいいだけですから。

鏑木毅 楽しむ勇気と諦めるということ
ええ、金剛杖の話も地下足袋の話も女人禁制の話も、きちっとした意味のあることですから、意味のあることをちゃんと理解しておこなうというのはルール、スポーツもルールがありますからね。トレイルランニングは最もそういうところ、自然環境と対峙しなければならなかったり、いろんな歴史も重んじなければならないというところもありますので、しっかりと守らなければいけないなと思っています。

僕、すごくお聞きしたいことがあったのですが、100日間連続で山に行って来るという修行をされると聞いたんですね。我々は楽しみで山を走るという世界なんですけれども、やはり同じフィールドを連続100日間、しかもものすごくハードなコースじゃないですか。いわゆる信仰上の気持ちからやってらっしゃるんですが、そもそものモチベーションですよね、動機付けというか。どんなところにあるのかすごくお聞きしたくて。

田中利典
そうですね…修行に入る行者の個人の想いというのはそれぞれ別で、決して一律のものではないと思うんですね。それはもういろんな想いがあるのですが、体力がある人もない人も、山との関わり自然との関わりが上手く整ってないと歩けない。

それは御本尊のお力を感じて歩くことにもなるし、自分の愚かさや自分のいろんな想いが湧いては出て湧いては出てするんですけれども、そのうちそれも解けてくる。最後まで元気に歩く行者もいるし、最後はもうふらふらで帰ってくる行者もあります。

まあちょうどいいのが100日でね、100日で成満をして何か山の蔵王権現様、御本尊、役行者の加護があって行じていることを知らされてね、自分が勝手に生きているのではないな、そういう世界をある種、行の中に確立化できて越えているような気がしますね。
トレイルランニングではどうですか?

鏑木毅
僕は苦しいことを楽しむ、ということですね。苦しいことなんて日常やる機会ないじゃないですか。言い換えればめったに味わえない苦しい状況も含めて楽しもうという。サインと一緒に書くんですけどね、「楽しむ勇気」って。「オレ、こんな苦しいところまでやってるよ、へへへ」みたいな(笑)。それがすごく重要ですね。それを乗り越えると無心の境地ですよね。何も考えてない、ひたすらゴールへ突き進んでるという自分というか。それが心地よくもありますよね。

田中利典 空海が歩いたロマンの道
修験道の場合も少し似ているところもあるんですけどね。私は「諦めるしかないな」と。諦めた時には歩けるんです。例えばここで止めたらこういう理由がたつとかいろいろ考えるじゃないですか、それも諦める(笑)。来たんやから行かなしゃあないやないかと。

とにかく行こ、と諦める。諦めるのがいちばん。自分のいろんな想いも諦める。それしかないんですよ。足が痛い、痛いけどしようがない、諦めて歩こう、と。ひきつっても、怪我しても、まあ怪我したもんはしようがないと諦める、受け入れる。そうすると終わった後にね、ありがたいんですよね。

自分の足にもありがたいし、助けてくれた周りにもありがたいし、いろんなものがありがたい。それは途中で諦めたりいろんな理由をつけてリタイアすると、ありがたいというところまで心がいかない。始めからありがたいと思ってたら嘘ですよね。本当に苦しいところを乗り越えて、諦めて到達すると、本当にありがたい。

今、吉野と高野山が一緒になって、弘法大師が高野に至られた道を1200年ぶりに蘇らせて、繋げていこうというお話が進んでいましてね。平成27年に高野山が開創1200年という記念の年をお迎えになるので、高野山側から弘法大師が歩かれた道を探索していたのですが、そのルートがほとんど奈良県側、吉野側なんですよ。

弘法大師がお書きになった『性霊集』の中に「少年の日、吉野より南に1日、西に2日行きて幽遠の地を見つける。名付けて高野という」と、吉野から高野山に至る文章があります。少年の日と言われるのですから18か19かそんな頃だと思いますね。弘法大師は大学で勉強をなさって、ちょっと挫折をなさるのかな。自分が思っていたものではないという想いがあって、山林修行の時代をお迎えになるんですね。

で、南都と吉野というのは今はあまり言われませんが、当時は非常に距離も近くて文化交流もあったようで、そういう下地が弘法大師をこちらへ引き寄せて、何度かおいでになっているみたいですね。そして最初においでになった頃に、吉野を徘徊して高野を見つけられた。

これはね、歴史に埋もれた道でそれ以降あまり注目を浴びてこなかったんですが、高野山開創1200年ということで、お大師様が高野を見つけられたそのルートを平成の御代にもう一度蘇らせる、さらに一般の方々も吉野と高野という世界遺産にもなった2つの聖地を結ぶそのルートを歩いていただいて、日本人が長い歴史の中で営んできたひとつの証のような、そういう山との関わりを持っていただきたいというプロジェクトです。

鏑木毅
若かりし日の弘法大師がいろんなことを考えながら山を彷徨ったんだと思うんですよね。そんなロマンのある道がどこなのか探していく。そしてそのロマンのある道を辿れたらすごく楽しいなあと思います。

田中利典
この間そのルートの一部である、乗鞍岳の周辺をプロジェクトチームと一緒に歩きました。「吉野から南へ1日」ですから、どこまで行ったかというのはまだ確定はされていないのですが、ひとつ考えとしては弥山(みせん)というところまで行ったのかなと。

あの辺から行くとね、高野が目の前に見えるんですよ、高野の峰々が。なので非常に雰囲気を感じることができるんですが、実際にルートとして吉野を走って弥山まで行くのは、トレイルランニングの方なら大丈夫なんでしょうけれども、我々では今は2日の行程ですし、さらに弘法大師は道を探しながら行っておられるとすると、ちょっと南に行きすぎかなと。

で、もう少し手前で下りられて投宿をして、あと2日行かれて高野というルートの方が理屈としてはわかりやすいかなという結論になりつつあります。ただし弘法大師の叙述には、少年の日に高野を見つけるという話以降も、金の御岳等々で修行したというのも出てきますので、高野を見つける道は西側のルートだったかもしれないけれども、その後もこの大峯に入られていろんな修行をなさって、その中で弥山~高野のようなルートを行かれたという可能性もある。実際には弘法大師の事歴はほとんどわからないんですよね。

鏑木毅
弘法大師さんがどれだけ足が強かったのかっていうのもありますしね。南へ1日というのがポイントだと思うんですよね。2日じゃなくて1日。要するに直角に西へルートをとったという、何かがあったからこそ西にルートをとったと思うんですよね。

何かっていうそのポイントが一体何だったんだろうなっていうところに興味がありますね。弘法大師の気持ちになると、西に行きたくなるような、何かこうモチベーションがあるんだと思うんですよね、何かがね。それが何だったのかなというのに想いを馳せたいですね。

田中利典 現代の「ハレ」と「ケ」
少年の日に高野を見つけたっていうのはまさに大学に入って苦悩をして、24歳の確立に至るまでの時期なんですよね。だから今おっしゃったように、悩んで、偉大な弘法大師になる前、普通の…まあ普通の人間ではなかったと思うんですが、特別に秀でた人ではあったけれども、まだまだ未熟なものを抱えていて、それを自分の中でどう作っていくか。

そういったことがこの大峯の修行の中で彼を強くしていったり、鍛えていった。そして希望の地・高野というのを見つけて後年そこにやって来る…という非常に人間のロマンを感じますよね。

トレイルランニングでの現代的な山への入り方、そして我々のように1000年も前から同じような方法での入り方、時代と共に人間は変わっていくと思うのですけれども、日本人にとって、山に入ることにはひとつとても大事なことがあります。それは日常と非日常を行き来する知恵です。日常というのは日本人にとってはケなんです。ケガレのケです。

毎日の生活って疲れますよね。疲れると気が枯れて、ケがつく。それに対してハレというのがある。ハレとは、日常とは違うことをすることで、汚れた気や疲れた気が元に戻って“元気”になる。元気になるためにおこなうことを、一般にハレというのです。日常のケと非日常のハレの行き来です。しかし現代、都会の生活というのはなかなかハレがないんですね。信仰もありませんしね。

山へ行くのはハレなんですよ。こんなハレは実はなかなか今はない。天気が晴れてるんじゃなくて、日常を離れて聖なるものに近づくことがハレ。そこで、身心脱落する。そういう山との関わり方があるんです。

弘法大師が、いろんな想いを持ってあの山に入られて高野に至られた。それは弘法大師にとって、ひとつのハレの場所が高野だった。そして高野をハレの場所として確立させたかった。そういう、今の人たちにいちばん必要なものが山の修行の中にはあるし、今回の高野に至る道のような取り組みの中にあるように思います。

鏑木毅
現代に生きている人たちというのはいろんな意味で疲れている。体力的な疲れもあるし、心の疲れ、だと思います、いちばん大きいのはね。僕はトレイルランニングをやっていてすごくいいなあと思うのは、そういった日常を一切切り捨てて非日常の世界に入る。そうするといろんなわだかまりを山を駈け抜けることによってすべて解消できるんですね。

山の持つエネルギーによって解消される。その中で自分自身が一体何者なのかというのがわかるんですね。山という空間はいろんな意味で自分自身を見つめるには最高の空間だと思います。ぜひみなさんにも弘法大師さんと同じようにこの道を通っていただいて、自分自身が何者なのか、そういった答えを探してもらえるひとつのいい機会になればいいなあと思います。ぜひこの地を訪れてください。
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