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僧・隆光ゆかりの超昇寺跡(奈良市佐紀町)/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第25回

2017年07月14日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は、毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。先週(7/6付)掲載されたのは「隆光(りゅうこう)大僧正の墓石 奈良市の超昇寺跡」、執筆されたのは姫路市にお住まいの池内力(いけうち・ちから)さんである。頻繁に姫路から奈良まで通われて、各地の史跡を探訪しておられる。
※トップ写真は、超昇寺(ちょうしょうじ)跡にある自然石の墓石(左奥)

隆光といえば、徳川幕府の護持僧で、「生類憐みの令」を進言したとされる(現在は否定されているそうだ)。『デジタル大辞泉』には、

[1649~1724]江戸中期の新義真言宗の僧。大和の人。字(あざな)は栄春。将軍徳川綱吉の信を得て筑波山の知足院主となり、のちこれを江戸に移して護持院と改称。生類憐みの令を提言したという。通称は護持院大僧正。

と紹介している。なお『国史大辞典』は《立身は綱吉が隆光の祈祷の効験を認めたということが基本にあるが、その教養や人柄にもひかれ、仏教の師と仰いだことによる》《後世、異常と思われるほどの立身と綱吉が公布した生類憐みの令が結びつけられ、綱吉やその生母桂昌院を惑わした妖僧と酷評されたこともあるが、不当な評価である》とフォローしている。


隆光が自ら建てたと伝える供養塔(唐招提寺奥之院の西方院境内)

さて、少し予備知識を頭に入れていただいたところで、今回の記事全文を紹介する。

超昇寺村(現在の奈良市佐紀町)に生まれた河辺隆光(りゅうこう)は、唐招提寺で律宗を修めた後、長谷寺や興福寺、法隆寺でも学び、江戸に出ました。知足院では徳川綱吉の母桂昌院の帰依が厚く、幕府の護持僧として活躍しました。

隆光は桂昌院を動かして、公慶上人が進める東大寺大仏殿の再建や、法隆寺金堂・五重塔の元禄大修理を支援するほか、室生寺や長谷寺、唐招提寺などの復興にも尽くしました。しかし、綱吉の死後、生類憐(あわ)れみの令を進言したとの汚名を着せられて失脚し、超昇寺に退隠、1724(享保9)年に没しました。

1978年、超昇寺跡に奈良市立佐紀幼稚園(現在は閉園)が建設される際、遺徳を称えるため南に墓域が整備され、小さな自然石の墓石が建てられました。また、唐招提寺の奥之院である西方院には、隆光が自ら建てた供養塔と伝えられる五輪塔があります。

【メモ】墓石へは近鉄大和西大寺駅から東へ徒歩約15分、平城宮第一次大極殿の北西200m。(奈良まほろばソムリエの会 池内力)


佐紀町は広いのに、姫路市民がよくこんな墓石を見つけられたものだと感心する。私も見習わなければ…。池内さん、興味深い記事をありがとうございました!

コメント (5)
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