産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、早くも20回めを迎えた。今回のテーマは、ご本尊の国宝指定で話題の安倍文殊院。筆者はすぐお近く(桜井市阿部)にお住まいの雑賀耕三郎さん(奈良まほろばソムリエ)である。
雑賀さんは岐阜市のご出身で、奈良・桜井の歴史と社会というブログを書いておられる。文章だけでなく、バスツアーのガイド(講師役)も大変お上手なので、私は「カリスマガイド」と呼んでいる。事前のリサーチを徹底され、分かりやすく、楽しく、深いガイドをされる。まさにガイドのお手本である。では、記事の全文を紹介する。
桜井市の安倍文殊院の本尊は、快慶の代表作ともいわれる木造騎獅文殊菩薩(きしもんじゅぼさつ)像。京都府宮津市の切戸(きれど)文殊、山形県高畠町の亀岡文殊と並び「日本三文殊」に数えられる。
文化審議会が、日本最大のこの文殊菩薩像を国宝指定するよう文部科学大臣に答申し、話題となっている。
知恵の仏、文殊菩薩を本尊とする安倍文殊院は、森羅万象を解明する陰陽道(おんみょうどう)の祖、安倍晴明(あべのせいめい)にも縁があり、「学問の仏さん」「受験の文殊さん」と、若い人にも人気がある。
* * *
前身となる安倍寺は大化の改新の功労者、安倍倉梯麻呂(あべくらはしまろ)創建といわれ、境内は約200㍍四方の大寺だった。鎌倉時代に戦乱により焼き払われ、1234年に安倍寺別所だった現在地に寺院を移したとされる。
旧安倍寺跡は、安倍文殊院本堂から約300㍍西南の場所で、史跡公園として保存されている。安倍寺が移転された別所には、すでに文殊菩薩が祀られていた。
写真は、安倍文殊院のホームページから拝借(トップ写真とも)
文殊菩薩は、1203年の快慶作との墨書きが体内にあり、移転より早く現在地に祀られていたとみられる。文殊菩薩のもとに安倍寺の全体が集まり、境内が決まったのだろう。
安倍寺の歴史は、文殊菩薩を抜きには語れない。その後も寺院は、戦乱で焼かれるなど幾多の試練があったが、文殊菩薩は守られた。
明治初期の神仏分離や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の激動も経た。
神仏分離で国の保護が無くなった寺院は、寺領を失い収入も絶たれて廃仏の嵐にさらされることになった。
そのため、寺院にとって存続には大きな決断と努力が求められた。このとき、安倍寺は「文殊菩薩を守り、寺名を安倍文殊院と変える」と決断し、嵐を乗り切ることを決めた。
神社を選択した桜井市の妙楽寺(談山神社)からは釈迦如来三尊像を引き取り、廃寺となる大御輪寺(大神神社の神宮寺)からは客殿の移設も行った。
それが現在、釈迦堂に祀られる釈迦如来三尊像であり、また客殿は県の重要文化財の指定も受けて庫裡(くり)に使われている。
* * *
安倍晴明ゆかりの寺としても有名だ。陰陽道を駆使して、国政のすべてを占った晴明はこの地で誕生したとの説があり、御神像を祀る晴明堂などもある。
文殊菩薩の知恵と安倍晴明の洞察力は、受験生があやかりたい力だろう。
入学試験にとどまらず、国家試験などの合格を祈願する参拝者で季節を問わずにぎわい、多くの合格絵馬が境内に奉納されている。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 雑賀耕三郎)
安倍寺が「文殊菩薩を守り、寺名を安倍文殊院と変える」と決断し、廃仏毀釈の嵐を乗り切ることを決めた、という話は今回初めて知った。廃仏毀釈とは《明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告(通称神仏分離令、神仏判然令)、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す》(Wikipedia「廃仏毀釈」)。各地で神社と習合していた お寺のお堂・仏像・仏具・仏典の破壊・撤去などが行われ、お坊さんも還俗を強制された。
これらは、平田派国学者の神官などが中心になって行った愚策である。司馬遼太郎は『「明治」という国家』(日本放送出版協会)で、このように書いている。《これは維新早々の復古現象のなかでも、最たるものです。この神祇官が、やることがないので、明治国家初期の最大の失政であるお寺こわしをやります。仏教も外来のもので、日本古来のものじゃない、という珍妙な文化大革命です》《まことにバカなはなしです。革命はよっぱらいですから、平時には考えられない大愚行がつきまとうものです》《この神祇官は、はじめは太政官の一部局でしたが、ほどなく、太政官より も上に置かれて、太政官の拘束をうけない、超然たる超権力になります》《しかし、さすがにそういうことの愚かしさに気づいて、神祇官という役所は、わずか三年あまりで、廃止になり、消滅します》。
Wikipedia「廃仏毀釈」では「廃仏毀釈による主な廃寺」が3ヵ寺紹介されている。それは内山永久寺(石上神宮別当寺)、大御輪寺(大神神社神宮寺)、白雲寺(京都愛宕神社神宮寺)で、安倍文殊院はよほどの「大きな決断と努力」で、この嵐を乗り切ったのだ。
安倍文殊院の境内には、「文殊院西・東古墳」という2つの古墳がある。若者に人気の陰陽師・安倍晴明の生誕地といわれ、また安倍首相が寄進した灯籠も建つ。そこに今回の国宝指定である。話題沸騰の安倍文殊院に、ぜひ足をお運びいただきたい。
雑賀さん、良いタイミングで記事をお書きいただき、有難うございました。
雑賀さんは岐阜市のご出身で、奈良・桜井の歴史と社会というブログを書いておられる。文章だけでなく、バスツアーのガイド(講師役)も大変お上手なので、私は「カリスマガイド」と呼んでいる。事前のリサーチを徹底され、分かりやすく、楽しく、深いガイドをされる。まさにガイドのお手本である。では、記事の全文を紹介する。
桜井市の安倍文殊院の本尊は、快慶の代表作ともいわれる木造騎獅文殊菩薩(きしもんじゅぼさつ)像。京都府宮津市の切戸(きれど)文殊、山形県高畠町の亀岡文殊と並び「日本三文殊」に数えられる。
文化審議会が、日本最大のこの文殊菩薩像を国宝指定するよう文部科学大臣に答申し、話題となっている。
知恵の仏、文殊菩薩を本尊とする安倍文殊院は、森羅万象を解明する陰陽道(おんみょうどう)の祖、安倍晴明(あべのせいめい)にも縁があり、「学問の仏さん」「受験の文殊さん」と、若い人にも人気がある。
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前身となる安倍寺は大化の改新の功労者、安倍倉梯麻呂(あべくらはしまろ)創建といわれ、境内は約200㍍四方の大寺だった。鎌倉時代に戦乱により焼き払われ、1234年に安倍寺別所だった現在地に寺院を移したとされる。
旧安倍寺跡は、安倍文殊院本堂から約300㍍西南の場所で、史跡公園として保存されている。安倍寺が移転された別所には、すでに文殊菩薩が祀られていた。
写真は、安倍文殊院のホームページから拝借(トップ写真とも)
文殊菩薩は、1203年の快慶作との墨書きが体内にあり、移転より早く現在地に祀られていたとみられる。文殊菩薩のもとに安倍寺の全体が集まり、境内が決まったのだろう。
安倍寺の歴史は、文殊菩薩を抜きには語れない。その後も寺院は、戦乱で焼かれるなど幾多の試練があったが、文殊菩薩は守られた。
明治初期の神仏分離や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の激動も経た。
神仏分離で国の保護が無くなった寺院は、寺領を失い収入も絶たれて廃仏の嵐にさらされることになった。
そのため、寺院にとって存続には大きな決断と努力が求められた。このとき、安倍寺は「文殊菩薩を守り、寺名を安倍文殊院と変える」と決断し、嵐を乗り切ることを決めた。
神社を選択した桜井市の妙楽寺(談山神社)からは釈迦如来三尊像を引き取り、廃寺となる大御輪寺(大神神社の神宮寺)からは客殿の移設も行った。
それが現在、釈迦堂に祀られる釈迦如来三尊像であり、また客殿は県の重要文化財の指定も受けて庫裡(くり)に使われている。
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安倍晴明ゆかりの寺としても有名だ。陰陽道を駆使して、国政のすべてを占った晴明はこの地で誕生したとの説があり、御神像を祀る晴明堂などもある。
文殊菩薩の知恵と安倍晴明の洞察力は、受験生があやかりたい力だろう。
入学試験にとどまらず、国家試験などの合格を祈願する参拝者で季節を問わずにぎわい、多くの合格絵馬が境内に奉納されている。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 雑賀耕三郎)
安倍寺が「文殊菩薩を守り、寺名を安倍文殊院と変える」と決断し、廃仏毀釈の嵐を乗り切ることを決めた、という話は今回初めて知った。廃仏毀釈とは《明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告(通称神仏分離令、神仏判然令)、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す》(Wikipedia「廃仏毀釈」)。各地で神社と習合していた お寺のお堂・仏像・仏具・仏典の破壊・撤去などが行われ、お坊さんも還俗を強制された。
これらは、平田派国学者の神官などが中心になって行った愚策である。司馬遼太郎は『「明治」という国家』(日本放送出版協会)で、このように書いている。《これは維新早々の復古現象のなかでも、最たるものです。この神祇官が、やることがないので、明治国家初期の最大の失政であるお寺こわしをやります。仏教も外来のもので、日本古来のものじゃない、という珍妙な文化大革命です》《まことにバカなはなしです。革命はよっぱらいですから、平時には考えられない大愚行がつきまとうものです》《この神祇官は、はじめは太政官の一部局でしたが、ほどなく、太政官より も上に置かれて、太政官の拘束をうけない、超然たる超権力になります》《しかし、さすがにそういうことの愚かしさに気づいて、神祇官という役所は、わずか三年あまりで、廃止になり、消滅します》。
Wikipedia「廃仏毀釈」では「廃仏毀釈による主な廃寺」が3ヵ寺紹介されている。それは内山永久寺(石上神宮別当寺)、大御輪寺(大神神社神宮寺)、白雲寺(京都愛宕神社神宮寺)で、安倍文殊院はよほどの「大きな決断と努力」で、この嵐を乗り切ったのだ。
安倍文殊院の境内には、「文殊院西・東古墳」という2つの古墳がある。若者に人気の陰陽師・安倍晴明の生誕地といわれ、また安倍首相が寄進した灯籠も建つ。そこに今回の国宝指定である。話題沸騰の安倍文殊院に、ぜひ足をお運びいただきたい。
雑賀さん、良いタイミングで記事をお書きいただき、有難うございました。