ブリヂストン美術館 その8
ピエール・ボナール『桃』(1920年)
多くの美術ファンの方の反感を買うかもしれないことを承知でいうと、ボナールの絵に感動したことはまだ一度もない。
ボナールはヴュイヤールと並んで、「親密派」といわれる。この呼称自体、「印象派」や「象徴派」と比べると馴染みが薄いが、大きな美術運動として画壇を揺るがしたわけではないからだろう(先ごろ京都で展覧会が開かれた知られざる画家ル・シダネルも親密派に属するという話だが、このことについては稿を改めて書くつもりだ)。
だが「親密」かどうかというのは、絵の題材とか雰囲気に関することであって、技法的なこととは関係がない。ただ家庭内の情景を描いたとか、身近にある花や静物を描いたという意味では、現代の日曜画家の絵のほとんどは親密派ということになってしまうだろう。
ぼくはボナールの絵から、親密さを超えた憂鬱のようなものを感じてしまうのだ。彼の代表作を実際に観る機会がまだないからかもしれないが、ボナールの絵はゴッホなどと比べるとはるかに暗く、影の占める割合が多い印象がある。色彩がきらびやかだという人もいるが、どうもそうは思えない。
『桃』という絵を観ても、あの愛らしい桃をこれほどまでに気味わるく描けるものか、と思う。この絵を眺めていると、なぜか口のなかに酸っぱい唾液がわいてくる。桃というよりも、プラムのように思えるからだろうか。たとえば昨年の「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」でも展示されたファンタン=ラトゥールの桃はいかにも甘そうで、比べてみるとそのちがいに驚かされる。
参考画像:アンリ・ファンタン=ラトゥール『皿の上の3つの桃』(1868年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)
もちろんボナールとファンタン=ラトゥールを単純に比較しても、意味がないだろう。ファンタン=ラトゥールは印象派と同世代で、マネやモネ、ルノワールらと厚い友情で結ばれていたけれども、結局“印象派ふう”の絵を描くことはなく、手堅い写実的な画風を貫いた人だからである。ボナールはその点、光の効果に敏感な点で印象派の遺伝子を受け継いでいるように思えるが、『桃』の左側のほうはほとんど影になっていて、果実の弾力のある手触りは失せ、胡桃のような褐色の物体としか感じられない。
しかも、桃を入れた皿はテーブルクロスにのせられているようだが、そこには何やらアルタミラの壁画のような奇妙な模様が描かれている。この柄はいったい、何なのか。おそらく、誰も説明はできないだろう。ボナールの絵を眺めていると、対象がわざと曖昧に描かれているように思われ、隔靴掻痒の感に駆られることが少なくないのである。
***
ジョルジュ・ブラック『梨と桃』(1924年)
ブリヂストン美術館の展覧会には、偶然にも、桃の絵がもうひとつあった。ブラックの『梨と桃』がそれだ。
梨(西洋梨)も桃も、近代絵画のモチーフとなる機会は少ないほうだと思う。静物画に登場する果物というと、やはりまずはリンゴという感じだ。だがそれは、かのセザンヌの仕事があまりに圧倒的だからであって、セザンヌ以降の画家は、無意識のうちにリンゴ以外の果物を選ばざるを得なかったといえるかもしれない。ボナールもブラックも、その意味では同じである。
ブラックはピカソと並んで「キュヴィスムの創始者」といわれるけれども、知名度はピカソに比べてかわいそうなほど低く、作品を観る機会も少ない。日本に所蔵されている絵もそう多くはないはずで、その点ブリヂストン美術館は貴重な場所だともいえるのだが、いかんせん彼の画業の変遷を一望できるような展覧会に出会ったことがないので、一枚の絵を観ただけではなかなか感想をいうのが難しい。
ただ、前回取り上げたピカソの『女の顔』の一年後にこの『梨と桃』が描かれているということを考えると、同じところから出発したピカソとブラックは、この時点であまりにも遠くにかけ離れてしまっていたことはたしかなようだ。
***
ところで、ぼくはもうずいぶん前から、『ボナール展』と『ブラック展』の開催を心待ちにしている。画家の作品を網羅的に観たこともないのに好きか嫌いかを断定することには、危険がともなうからだ。
調べてみるとブラックは来年が没後50年、ボナールは5年後が生誕150年にあたるので、そろそろ絶好のタイミングではないかと思うのだが・・・。
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ピエール・ボナール『桃』(1920年)
多くの美術ファンの方の反感を買うかもしれないことを承知でいうと、ボナールの絵に感動したことはまだ一度もない。
ボナールはヴュイヤールと並んで、「親密派」といわれる。この呼称自体、「印象派」や「象徴派」と比べると馴染みが薄いが、大きな美術運動として画壇を揺るがしたわけではないからだろう(先ごろ京都で展覧会が開かれた知られざる画家ル・シダネルも親密派に属するという話だが、このことについては稿を改めて書くつもりだ)。
だが「親密」かどうかというのは、絵の題材とか雰囲気に関することであって、技法的なこととは関係がない。ただ家庭内の情景を描いたとか、身近にある花や静物を描いたという意味では、現代の日曜画家の絵のほとんどは親密派ということになってしまうだろう。
ぼくはボナールの絵から、親密さを超えた憂鬱のようなものを感じてしまうのだ。彼の代表作を実際に観る機会がまだないからかもしれないが、ボナールの絵はゴッホなどと比べるとはるかに暗く、影の占める割合が多い印象がある。色彩がきらびやかだという人もいるが、どうもそうは思えない。
『桃』という絵を観ても、あの愛らしい桃をこれほどまでに気味わるく描けるものか、と思う。この絵を眺めていると、なぜか口のなかに酸っぱい唾液がわいてくる。桃というよりも、プラムのように思えるからだろうか。たとえば昨年の「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」でも展示されたファンタン=ラトゥールの桃はいかにも甘そうで、比べてみるとそのちがいに驚かされる。
参考画像:アンリ・ファンタン=ラトゥール『皿の上の3つの桃』(1868年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)
もちろんボナールとファンタン=ラトゥールを単純に比較しても、意味がないだろう。ファンタン=ラトゥールは印象派と同世代で、マネやモネ、ルノワールらと厚い友情で結ばれていたけれども、結局“印象派ふう”の絵を描くことはなく、手堅い写実的な画風を貫いた人だからである。ボナールはその点、光の効果に敏感な点で印象派の遺伝子を受け継いでいるように思えるが、『桃』の左側のほうはほとんど影になっていて、果実の弾力のある手触りは失せ、胡桃のような褐色の物体としか感じられない。
しかも、桃を入れた皿はテーブルクロスにのせられているようだが、そこには何やらアルタミラの壁画のような奇妙な模様が描かれている。この柄はいったい、何なのか。おそらく、誰も説明はできないだろう。ボナールの絵を眺めていると、対象がわざと曖昧に描かれているように思われ、隔靴掻痒の感に駆られることが少なくないのである。
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ジョルジュ・ブラック『梨と桃』(1924年)
ブリヂストン美術館の展覧会には、偶然にも、桃の絵がもうひとつあった。ブラックの『梨と桃』がそれだ。
梨(西洋梨)も桃も、近代絵画のモチーフとなる機会は少ないほうだと思う。静物画に登場する果物というと、やはりまずはリンゴという感じだ。だがそれは、かのセザンヌの仕事があまりに圧倒的だからであって、セザンヌ以降の画家は、無意識のうちにリンゴ以外の果物を選ばざるを得なかったといえるかもしれない。ボナールもブラックも、その意味では同じである。
ブラックはピカソと並んで「キュヴィスムの創始者」といわれるけれども、知名度はピカソに比べてかわいそうなほど低く、作品を観る機会も少ない。日本に所蔵されている絵もそう多くはないはずで、その点ブリヂストン美術館は貴重な場所だともいえるのだが、いかんせん彼の画業の変遷を一望できるような展覧会に出会ったことがないので、一枚の絵を観ただけではなかなか感想をいうのが難しい。
ただ、前回取り上げたピカソの『女の顔』の一年後にこの『梨と桃』が描かれているということを考えると、同じところから出発したピカソとブラックは、この時点であまりにも遠くにかけ離れてしまっていたことはたしかなようだ。
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ところで、ぼくはもうずいぶん前から、『ボナール展』と『ブラック展』の開催を心待ちにしている。画家の作品を網羅的に観たこともないのに好きか嫌いかを断定することには、危険がともなうからだ。
調べてみるとブラックは来年が没後50年、ボナールは5年後が生誕150年にあたるので、そろそろ絶好のタイミングではないかと思うのだが・・・。
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