てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

東京ゼロ泊 ― ゴヤ展その他のこと ― (28)

2012年04月15日 | 美術随想
ブリヂストン美術館 その8


ピエール・ボナール『桃』(1920年)

 多くの美術ファンの方の反感を買うかもしれないことを承知でいうと、ボナールの絵に感動したことはまだ一度もない。

 ボナールはヴュイヤールと並んで、「親密派」といわれる。この呼称自体、「印象派」や「象徴派」と比べると馴染みが薄いが、大きな美術運動として画壇を揺るがしたわけではないからだろう(先ごろ京都で展覧会が開かれた知られざる画家ル・シダネルも親密派に属するという話だが、このことについては稿を改めて書くつもりだ)。

 だが「親密」かどうかというのは、絵の題材とか雰囲気に関することであって、技法的なこととは関係がない。ただ家庭内の情景を描いたとか、身近にある花や静物を描いたという意味では、現代の日曜画家の絵のほとんどは親密派ということになってしまうだろう。

 ぼくはボナールの絵から、親密さを超えた憂鬱のようなものを感じてしまうのだ。彼の代表作を実際に観る機会がまだないからかもしれないが、ボナールの絵はゴッホなどと比べるとはるかに暗く、影の占める割合が多い印象がある。色彩がきらびやかだという人もいるが、どうもそうは思えない。

 『桃』という絵を観ても、あの愛らしい桃をこれほどまでに気味わるく描けるものか、と思う。この絵を眺めていると、なぜか口のなかに酸っぱい唾液がわいてくる。桃というよりも、プラムのように思えるからだろうか。たとえば昨年の「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」でも展示されたファンタン=ラトゥールの桃はいかにも甘そうで、比べてみるとそのちがいに驚かされる。


参考画像:アンリ・ファンタン=ラトゥール『皿の上の3つの桃』(1868年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)

 もちろんボナールとファンタン=ラトゥールを単純に比較しても、意味がないだろう。ファンタン=ラトゥールは印象派と同世代で、マネやモネ、ルノワールらと厚い友情で結ばれていたけれども、結局“印象派ふう”の絵を描くことはなく、手堅い写実的な画風を貫いた人だからである。ボナールはその点、光の効果に敏感な点で印象派の遺伝子を受け継いでいるように思えるが、『桃』の左側のほうはほとんど影になっていて、果実の弾力のある手触りは失せ、胡桃のような褐色の物体としか感じられない。

 しかも、桃を入れた皿はテーブルクロスにのせられているようだが、そこには何やらアルタミラの壁画のような奇妙な模様が描かれている。この柄はいったい、何なのか。おそらく、誰も説明はできないだろう。ボナールの絵を眺めていると、対象がわざと曖昧に描かれているように思われ、隔靴掻痒の感に駆られることが少なくないのである。

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ジョルジュ・ブラック『梨と桃』(1924年)

 ブリヂストン美術館の展覧会には、偶然にも、桃の絵がもうひとつあった。ブラックの『梨と桃』がそれだ。

 梨(西洋梨)も桃も、近代絵画のモチーフとなる機会は少ないほうだと思う。静物画に登場する果物というと、やはりまずはリンゴという感じだ。だがそれは、かのセザンヌの仕事があまりに圧倒的だからであって、セザンヌ以降の画家は、無意識のうちにリンゴ以外の果物を選ばざるを得なかったといえるかもしれない。ボナールもブラックも、その意味では同じである。

 ブラックはピカソと並んで「キュヴィスムの創始者」といわれるけれども、知名度はピカソに比べてかわいそうなほど低く、作品を観る機会も少ない。日本に所蔵されている絵もそう多くはないはずで、その点ブリヂストン美術館は貴重な場所だともいえるのだが、いかんせん彼の画業の変遷を一望できるような展覧会に出会ったことがないので、一枚の絵を観ただけではなかなか感想をいうのが難しい。

 ただ、前回取り上げたピカソの『女の顔』の一年後にこの『梨と桃』が描かれているということを考えると、同じところから出発したピカソとブラックは、この時点であまりにも遠くにかけ離れてしまっていたことはたしかなようだ。

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 ところで、ぼくはもうずいぶん前から、『ボナール展』と『ブラック展』の開催を心待ちにしている。画家の作品を網羅的に観たこともないのに好きか嫌いかを断定することには、危険がともなうからだ。

 調べてみるとブラックは来年が没後50年、ボナールは5年後が生誕150年にあたるので、そろそろ絶好のタイミングではないかと思うのだが・・・。

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東京ゼロ泊 ― ゴヤ展その他のこと ― (27)

2012年04月14日 | 美術随想
ブリヂストン美術館 その7


パブロ・ピカソ『女の顔』(1923年)

 『女の顔』はピカソの新古典主義時代の作品である。モデルとなったのは最初の妻のオルガだとも、また別の女性だともいわれているらしい。

 だが、いくら女好きのピカソといえども、すべての女性像を実在の女の肖像に帰する必要はあるまいと思う。特に古代ギリシャのキトンのような衣装をまとった一連の人物像は、同時代の誰かをモデルにしたわけではないのではないか、という気がする。

 『女の顔』に描かれた女性は、たとえば以前「メモリアル・ピカソ(6)」という記事で取り上げた『水浴の女』と似ていて、豊かな髪と二重のまぶたをもっている。これが特定の女性の面影を映しているものかどうか、ぼくにはあまり興味がない。ただ、ピカソにいつもついてまわる凄絶なる肉欲というものが、この『女の顔』からはほとんど感じられない。

 彼女は肉体的というよりも、むしろ思索的である。その瞳はやや憂いを宿していて、何かを深く考え込んでいるように思われる。肌の色が異様に白いことも、この女の実在性を希薄にしている一因であろう。

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参考画像:パブロ・ピカソ『腕を組んですわるサルタンバンク』(1923年)

 ブリヂストン美術館の顔ともいえる『腕を組んですわるサルタンバンク』も、同じ1923年の作品である。

 ただしこの絵は、半世紀前におこなわれたフランスへの里帰り展には含まれていない。というのも、当時この絵は、世界的ピアニストであるウラディーミル・ホロヴィッツの所蔵となっていたからだ。彼がこの絵のどこを気に入って買ったのか、ぼくには想像がつかないけれど・・・。

 この絵を先ほどの『女の顔』と比べてみると、かなりよく似ているといえる。豊かな茶色の髪、彫りの深い二重のまぶた、斜めから見た顔の向き・・・。おまけに肌の色が抜けるように白いところまで、そっくりだ。ただ、サルタンバンクがやや眼差しを上にもたげており、何かを眺めているように感じられるところがちがう。この絵はもともと左側に女の姿が描かれていたというから、彼女の顔を見ていたのかもしれない。

 だがなぜか、ピカソは傍らにいる女の姿を消してしまった。その理由を知るすべはないけれど、ピカソはこのとき、画壇の寵児として世間に注目され、時代の波に揉まれることに疲れていたのではないか。オルガと結婚して5年が経ち、最愛の息子も生まれた直後に、ピカソはほんの束の間、穏やかな家庭のなかで過ごすことができたのかもしれない。新古典主義時代の絵は、落ち着いた彼の心の状態をよく映し出しているようにぼくには思われる。

 なおこの絵を所有していたホロヴィッツは、10年余りにわたってリサイタルを開くことを拒否した時期があったそうだ。そのとき彼はアメリカの自宅で、この絵と長いこと向き合っていたのだろうか。ピカソが何となく人を遠ざけたくなった気持ちが、ホロヴィッツにはよく理解できたにちがいない。

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東京ゼロ泊 ― ゴヤ展その他のこと ― (26)

2012年04月13日 | 美術随想
ブリヂストン美術館 その6


ジョルジュ・ルオー『ピエロ』(1925年)

 もしかしたら、今ほどルオーの絵が求められている時代はないのかもしれない。そんな気がする。

 日々は、忙しく過ぎていく。各国から伝わってくるさまざまなニュースはたちまちのうちに日本に広まり、地球が小さくなったということを実感する反面、わが国の政治家がちっとも心に響かない議論を相も変わらず繰り返しているのを見ると、人と人との距離は永遠に縮まらないのかとも思う。

 こういう世の中に、ぼくたちは何を求めたらいいのか。薔薇色の未来など、どこにもありはしないのではないか。そんな底知れぬ諦めのようなものを一時でも忘れ去るために、人は酒を飲んだり、ギャンブルに熱中したりするのだろうか。

 酒もギャンブルもまったくやらないぼくとしては、一枚の絵と真剣に向き合うことが、浮き世の辛さを忘れるきっかけになることがある。ルオーの絵は、まさにそんな絵ではないかと思うのだ。

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 彼の絵の前に立つと、たゆみなく流れていた時間が、ふとそこで滞ったように錯覚することがある。絵のなかには人物の姿が描かれていて、ぼくは心の声で話しかけてみようとするが、しかしコミュニケーションが成立することはほとんどない。この絵に描かれたピエロは、ぼくのほうを見てもくれないが、それをいいことに、ぼくは彼の姿をじっと見つめることができる。

 この奇妙な感覚は、寺院で仏像を拝したときとよく似ているようだ。よく近代の仏像には玉眼などの技法が用いられ、生きた人の眼と見紛うように作られているというが、ぼくは仏像と眼が合った経験がない。いや、眼が合わないからこそ、内に秘めた願いを存分に吐露することができるのではあるまいか。それこそが、祈りということなのではあるまいか。

 もし仏が自分のほうを厳しく凝視していたら、ありがたいのを通り越して、たいていの人間は縮み上がってしまうかもしれない。このピエロも、眼をつぶっているからこそ、いろいろな思いをぶつけることができるのである。彼は、それを黙って聞いてくれているような気がする・・・。

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参考画像:オディロン・ルドン『目を閉じて』(1890年、オルセー美術館蔵)

 瞑目した人の顔というと、ぼくにはルドンの『目を閉じて』がすぐに思い出される。

 ルドンのほうは実物を二度ほど観たことがあるので、ぼくには親しみ深い絵だが、改めてルオーと比較してみると、こんなに明るい絵だったことに驚いた。ルドンは白黒の絵を長いこと描きつづけた人なので、原色の花が咲き乱れる晩年の仕事を除いては、何となく暗い絵の画家という印象があったのだろう。

 それだけではなくて、『目を閉じて』はまるで水彩画のように淡い色調で占められていることに気づく。ルドンが生涯にわたって追求しつづけた幻想性が、手を伸ばしても届かぬような無限の距離感を生み出しているのだろう。

 けれどもルオーの『ピエロ』の前に立つと、すぐ眼の前に、息がかかりそうな近さに彼がいるのである。その輪郭は太く、色は何度も塗り重ねられ、でこぼこした手触りを感じさせられる。彼の存在感は、動かしようのないものとしてそこにある。

 けれども、威圧されるような感じはしない。やはり彼が眼をつぶっているからか、それとも目尻のあたりの皮膚が照れたように赤らんでいるからか、いや、彼の表情そのものが大いなる優しさを帯びているからだろうか・・・。

 こういう絵と出会うために、われわれは辛い日々を生き抜いているのかもしれない。そんなふうに思わせてくれる一枚である。

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東京ゼロ泊 ― ゴヤ展その他のこと ― (25)

2012年04月12日 | 美術随想
ブリヂストン美術館 その5


アンリ・ルソー『イヴリー河岸』(1907年頃)

 モネやセザンヌは、全身全霊で自然と向き合いつづけ、いってみれば格闘し、それを絵にした。花や水や、山などを。吹き抜ける風、射し込む光、そして温度や湿度などを。

 けれどもアンリ・ルソーという男は、あまり真面目に自然と対峙することはなかったように思われる。彼は巨大な葉っぱが鬱蒼と茂る密林の風景を好んで描いたが、それはパリの植物園で描いたものを再構成したという話で、いわば“張りぼて”の自然にすぎなかったのだ。

 けれども、植物園に入り浸ってスケッチに没頭するということが、彼のアマチュア精神をよくあらわしているような気がするのもたしかである。

 彼は50歳近くまで、税関の役人としての堅実な勤めを果たしていた。だがルソーの性格からして、同僚たちとのあいだに親密な友好関係を結んでいたとは思えない。

 画家としての作風を特徴づける異常なまでの几帳面さと、それに相反するような大胆な虚言癖 ― 彼はメキシコのジャングルに行った経験をもとに絵を描いていると称していた ― は、おそらく誰からも煙たがられたにちがいない。職場でも一種の“変わり者”として、体よく扱われていたのではないだろうか。

 そんなルソーがひと息つくことができたのが、温室の熱帯植物群に囲まれているときだったのだろう。植物は、文句をいわない。気をつかわなくてもいい。彼は思うさま自分を解放して、破天荒な空想の世界に入り込むことができたはずだ。ルソーにとって絵を描くことは、本来の自分を取り戻すことでもあったのである。

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 ルソーはジャングルにばかり眼を向けていたわけではなかった。同時代のパリも、彼の絵のモチーフになっている。

 イヴリー河岸は、セーヌの上流にあたる場所だそうだ。道を歩いている人はいずれも真横を向いていて、「斜め向きの人を描けない」というルソーの欠点をよく示しているが、彼はその上空に、何と飛行船を浮かべてみせた。かのツェッペリンがはじめて飛行船を飛ばしたのが1900年のことだから、当時の最先端の科学技術だといっていいだろう。

 ただ、この絵に描かれている飛行船は、技術の粋の結晶というふうな堅苦しい存在には見えない。ルソーの夢を積んで、ひたすら遠くまで、それこそメキシコの密林にまで運んでいってくれる希望の象徴のように、パリの空にぷかりと浮かんでいるのである。

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 『イヴリー河岸』が描かれた直後、ライト兄弟が飛行機の実験に成功した。ルソーは新しもの好きの性癖を発揮して、今度は同じ場所の上に、さっそく複葉機を飛ばした絵を描いた。


参考画像:アンリ・ルソー『釣り人たち』(1908-1909年、オランジュリー美術館蔵)

 彼はおそらく、本物の飛行機をまだ見たことがなかったのであろう。その機体はグライダーに毛の生えたようなチャチなもので、何となく嘘くさい。もしかすると新聞記事あたりからでっち上げたものかもしれない。

 しかし驚くべきは、複雑な飛行機が「斜め向き」に描かれていることだ。正面を向いて描かれている無表情な釣り人よりも、ずっと臨場感がある。ルソーは身辺の平凡な事物を地道に観察することよりも、人類の夢や希望を掻き立ててくれるものに対しては、よりいっそう熱意を注いだのである。

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東京ゼロ泊 ― ゴヤ展その他のこと ― (24)

2012年04月11日 | 美術随想
ブリヂストン美術館 その4


ポール・セザンヌ『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』(1904-1906年頃)

 人間はその成長期のころ、あらゆるものにまんべんなく関心をもつように教育される。これは世界共通のことであろうか。

 たとえば計算式を見ただけで怖気が走るという人でも、算数や数学を学ばずに大人になることは、表向きは認められていない。ただし大人になってしまってからは、いったん覚えた知識を忘れ去り、任意の生き方をすることもできるだろう。それぐらいの自由は、われわれに許されているのである。

 画家にとっても、同じことがいえそうだ。若いころは静物を描いたり、人物を描いたり、風景を描いたり、あらゆる画題に挑むことを要求されるだろう。絵を注文されれば、あまり気乗りのしない題材でも、全力を尽くして描かなければならない。それが絵描きとしての技量を深めることにもなる、大切な修業だからである。

 けれども人生の後半に向かうにつれ、モチーフを極端に制限していく画家も少なくない。モネは、睡蓮の池が生み出す無限のバリエーションを描きつづけた。そしてセザンヌは、故郷エクス=アン=プロヴァンスに聳え立つごつごつした岩山に死ぬまで向き合いつづけたのだった。

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 『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』は、セザンヌの最晩年に位置する作品である。ぼくにとってセザンヌは少しわかりにくいところのある画家だが、この絵には強く惹かれるものを感じる。それは、この絵が技術的にもっとも優れているからではなく、シャトー・ノワールという異物が介入しているからだと思う。

 画面の左側からせり出してきたように見えるオレンジ色の城館が、シャトー・ノワールだ。山と城との位置関係は、実際に絵のとおりかどうかはわからない。ただ、これほど目立つ建物ではないのだろう。過去には何人かの人がこの城を訪ねようとして、失敗したという話を書き残している。今では個人の所有となっていて、立ち入ることはできないらしい。

 絵のなかのシャトー・ノワールは、いかにも人工の産物といった感じで、そこにある。周囲の山や木々とは、明らかに不調和をきたしている。絵を描くのに長大な時間を要したといわれるセザンヌだが、この建物はさほど手をかけずに描いたのではなかろうか。色調はごく平板で、筆触も単純に見えるからだ。

 セザンヌは、“既製品”をそこに描き込んだようなものかもしれない。ただ、それを取り巻く森の緑の連なり、風にそよぐ枝の動き、その奥に不動の存在感を誇って立つサント=ヴィクトワール山は、彼自身がキャンバスのなかに、一から築き上げようとしてきたものだ。いわばセザンヌは、あの偉大なる神になりかわり、地球の創造主たらんとして絵筆を振るったともいえる。

 まるで固まりつつあるマグマのように複雑に入り乱れた筆跡のなかに突然あらわれた人工の建築物は、セザンヌが絵画のうえで本当になしとげようとしていることがいかに困難なことであるかを証明すべく、そこに描かれたもののように思われるのである。

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