ブリヂストン美術館 その6
ジョルジュ・ルオー『ピエロ』(1925年)
もしかしたら、今ほどルオーの絵が求められている時代はないのかもしれない。そんな気がする。
日々は、忙しく過ぎていく。各国から伝わってくるさまざまなニュースはたちまちのうちに日本に広まり、地球が小さくなったということを実感する反面、わが国の政治家がちっとも心に響かない議論を相も変わらず繰り返しているのを見ると、人と人との距離は永遠に縮まらないのかとも思う。
こういう世の中に、ぼくたちは何を求めたらいいのか。薔薇色の未来など、どこにもありはしないのではないか。そんな底知れぬ諦めのようなものを一時でも忘れ去るために、人は酒を飲んだり、ギャンブルに熱中したりするのだろうか。
酒もギャンブルもまったくやらないぼくとしては、一枚の絵と真剣に向き合うことが、浮き世の辛さを忘れるきっかけになることがある。ルオーの絵は、まさにそんな絵ではないかと思うのだ。
***
彼の絵の前に立つと、たゆみなく流れていた時間が、ふとそこで滞ったように錯覚することがある。絵のなかには人物の姿が描かれていて、ぼくは心の声で話しかけてみようとするが、しかしコミュニケーションが成立することはほとんどない。この絵に描かれたピエロは、ぼくのほうを見てもくれないが、それをいいことに、ぼくは彼の姿をじっと見つめることができる。
この奇妙な感覚は、寺院で仏像を拝したときとよく似ているようだ。よく近代の仏像には玉眼などの技法が用いられ、生きた人の眼と見紛うように作られているというが、ぼくは仏像と眼が合った経験がない。いや、眼が合わないからこそ、内に秘めた願いを存分に吐露することができるのではあるまいか。それこそが、祈りということなのではあるまいか。
もし仏が自分のほうを厳しく凝視していたら、ありがたいのを通り越して、たいていの人間は縮み上がってしまうかもしれない。このピエロも、眼をつぶっているからこそ、いろいろな思いをぶつけることができるのである。彼は、それを黙って聞いてくれているような気がする・・・。
***
参考画像:オディロン・ルドン『目を閉じて』(1890年、オルセー美術館蔵)
瞑目した人の顔というと、ぼくにはルドンの『目を閉じて』がすぐに思い出される。
ルドンのほうは実物を二度ほど観たことがあるので、ぼくには親しみ深い絵だが、改めてルオーと比較してみると、こんなに明るい絵だったことに驚いた。ルドンは白黒の絵を長いこと描きつづけた人なので、原色の花が咲き乱れる晩年の仕事を除いては、何となく暗い絵の画家という印象があったのだろう。
それだけではなくて、『目を閉じて』はまるで水彩画のように淡い色調で占められていることに気づく。ルドンが生涯にわたって追求しつづけた幻想性が、手を伸ばしても届かぬような無限の距離感を生み出しているのだろう。
けれどもルオーの『ピエロ』の前に立つと、すぐ眼の前に、息がかかりそうな近さに彼がいるのである。その輪郭は太く、色は何度も塗り重ねられ、でこぼこした手触りを感じさせられる。彼の存在感は、動かしようのないものとしてそこにある。
けれども、威圧されるような感じはしない。やはり彼が眼をつぶっているからか、それとも目尻のあたりの皮膚が照れたように赤らんでいるからか、いや、彼の表情そのものが大いなる優しさを帯びているからだろうか・・・。
こういう絵と出会うために、われわれは辛い日々を生き抜いているのかもしれない。そんなふうに思わせてくれる一枚である。
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ジョルジュ・ルオー『ピエロ』(1925年)
もしかしたら、今ほどルオーの絵が求められている時代はないのかもしれない。そんな気がする。
日々は、忙しく過ぎていく。各国から伝わってくるさまざまなニュースはたちまちのうちに日本に広まり、地球が小さくなったということを実感する反面、わが国の政治家がちっとも心に響かない議論を相も変わらず繰り返しているのを見ると、人と人との距離は永遠に縮まらないのかとも思う。
こういう世の中に、ぼくたちは何を求めたらいいのか。薔薇色の未来など、どこにもありはしないのではないか。そんな底知れぬ諦めのようなものを一時でも忘れ去るために、人は酒を飲んだり、ギャンブルに熱中したりするのだろうか。
酒もギャンブルもまったくやらないぼくとしては、一枚の絵と真剣に向き合うことが、浮き世の辛さを忘れるきっかけになることがある。ルオーの絵は、まさにそんな絵ではないかと思うのだ。
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彼の絵の前に立つと、たゆみなく流れていた時間が、ふとそこで滞ったように錯覚することがある。絵のなかには人物の姿が描かれていて、ぼくは心の声で話しかけてみようとするが、しかしコミュニケーションが成立することはほとんどない。この絵に描かれたピエロは、ぼくのほうを見てもくれないが、それをいいことに、ぼくは彼の姿をじっと見つめることができる。
この奇妙な感覚は、寺院で仏像を拝したときとよく似ているようだ。よく近代の仏像には玉眼などの技法が用いられ、生きた人の眼と見紛うように作られているというが、ぼくは仏像と眼が合った経験がない。いや、眼が合わないからこそ、内に秘めた願いを存分に吐露することができるのではあるまいか。それこそが、祈りということなのではあるまいか。
もし仏が自分のほうを厳しく凝視していたら、ありがたいのを通り越して、たいていの人間は縮み上がってしまうかもしれない。このピエロも、眼をつぶっているからこそ、いろいろな思いをぶつけることができるのである。彼は、それを黙って聞いてくれているような気がする・・・。
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参考画像:オディロン・ルドン『目を閉じて』(1890年、オルセー美術館蔵)
瞑目した人の顔というと、ぼくにはルドンの『目を閉じて』がすぐに思い出される。
ルドンのほうは実物を二度ほど観たことがあるので、ぼくには親しみ深い絵だが、改めてルオーと比較してみると、こんなに明るい絵だったことに驚いた。ルドンは白黒の絵を長いこと描きつづけた人なので、原色の花が咲き乱れる晩年の仕事を除いては、何となく暗い絵の画家という印象があったのだろう。
それだけではなくて、『目を閉じて』はまるで水彩画のように淡い色調で占められていることに気づく。ルドンが生涯にわたって追求しつづけた幻想性が、手を伸ばしても届かぬような無限の距離感を生み出しているのだろう。
けれどもルオーの『ピエロ』の前に立つと、すぐ眼の前に、息がかかりそうな近さに彼がいるのである。その輪郭は太く、色は何度も塗り重ねられ、でこぼこした手触りを感じさせられる。彼の存在感は、動かしようのないものとしてそこにある。
けれども、威圧されるような感じはしない。やはり彼が眼をつぶっているからか、それとも目尻のあたりの皮膚が照れたように赤らんでいるからか、いや、彼の表情そのものが大いなる優しさを帯びているからだろうか・・・。
こういう絵と出会うために、われわれは辛い日々を生き抜いているのかもしれない。そんなふうに思わせてくれる一枚である。
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