てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

あたたかな静寂 ― ル・シダネルを回顧する ― (1)

2012年04月25日 | 美術随想

〔「アンリ・ル・シダネル展」のチケット〕

 ぼくが「ル・シダネルのやさしき不在」という記事を書いたのは、もう6年も前のことである。

 つい最近まで、実際に対面したことのあるル・シダネルの絵は、日本国内にあるものばかり3、4点ぐらいだったのではないかと思う。いわば、ぼくにとってほとんど未知の画家といってもいいほどだった。いや、日本の多くの美術ファンにとっても、彼の存在はそれほど浸透していなかったにちがいない。

 けれども反対の見方をすれば、決して人気の高い画家ではないけれども、ル・シダネルを常に観ることのできる美術館が日本にはいくつかあるということだ。ぼくが彼の絵と対面したのは、それらが他のコレクションに混じって関西でお披露目されたときであった。その絵は知名度の低さに反して、いずれ劣らぬ秀作に思われた。

 例外が、『夕暮の小卓』という絵である。これについては先の記事にも書いたが、もうずいぶん前に倉敷に出かけたおりに、大原美術館まで行って観た。大原は日本有数の西洋美術館ということになっているが、そこ以外ではほとんどお眼にかかれないような知られざる画家の絵も数多い。そのなかでもいちばん印象に残ったのが『夕暮の小卓』だったわけだが、作者のアンリ・ル・シダネルという画家については、詳しく知る機会がなかった。

 そんな疎遠な画家のことを、なぜあのとき書こうと思ったのか、自分でも不思議に思う。おそらくは、人の気配はするけれども人影は描かれていない、いわば「孤独のぬくもり」といったものを感じさせる彼の絵に、勝手に親近感をいだいていたからだろう。

 決して人間が嫌いなわけではないが、他人との円滑なコミュニケーションをはかるのが不得手なぼくにとって、この異国の画家も似たような性癖をもっていたのではないか? そういう思い込みが、「ル・シダネル」というややこしい名前を心の底に記憶させるきっかけになったのだ。

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 そのル・シダネルの回顧展が、先ごろ京都で開催された。もちろん、彼の作品ばかりで構成されているはずである。掛け値なしに、待望の展覧会だといえる。

 けれども楽しみの反面、少し不安もよぎらないではなかった。もし最初から最後まで「孤独のぬくもり」のただよう絵ばかりで占められていたとしたら、どうだろう。人っ子ひとりいない、それでいて居心地のいい絵をずっと眺めていたら、もう二度とそこから出たくなくなってしまうのではあるまいか? もちろん杞憂だとはわかっているけれど・・・。

 子供のころ、夢のなかでル・シダネルの絵と似たような状況に出くわしたような気がしないでもない。ぼく以外には誰もいない街を、たったひとりで歩いている夢。道の両側には家が並んでいるが、何の物音も聞こえない。

 窓から中を覗いてみると、食べかけの食事がテーブルに置かれている。だが、誰の姿も見えない。ひょっとして、彼らは魔法か何かのせいで、たった今この世から消されてしまったのではあるまいか? そんな不安が突き上げてくる。

 汗びっしょりになって眼を覚ますと、いつもの自分の部屋にいるのを見いだす。窓からは朝日が射し込み、ドアの向こうから母親が台所で何かを刻む音が聞こえてくる。そのときの安堵した気持ちは、今でもはっきり思い出すことができるほどだ。

 ぼくにとってル・シダネルの絵画世界に入り込むことは、ひょっとして二度と覚めないかもしれない夢を見ることに等しかった。

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有名と無名のあいだ ― マルク・リブーの写真を観る ― (3)

2012年04月24日 | 美術随想

『エッフェル塔のペンキ工』(1953年)

 『エッフェル塔のペンキ工』は、リブーの写真のなかでもっとも印象に残る一枚かもしれない。

 チャーチルよりも、ピカソよりも、はるかにフットワークが軽いのはこの名もないペンキ工である。彼はヘルメットもかぶっていなければ、命綱もつけていない。斜めの鉄骨に穿たれた凹みのようなところに足をかけ、軽業師のような身のこなしでペンキを塗っている。まるで重力を忘れたような浮遊感は、東郷青児の『超現実派の散歩』という絵を思い出させる。


参考画像:東郷青児『超現実派の散歩』(1929年、損保ジャパン東郷青児美術館蔵)

 背景には、パリの街がはるかに見下ろされる。いったい地上何メートルの地点か知らないが、高所恐怖症でない人でもつい足がすくんでしまうような光景である。

 パリ観光の中心ともなっているエッフェル塔は、こういう無名の職人たちによって手入れされ、100年以上ものあいだ建ちつづけているのだ。もちろんエッフェル塔だけではなく、東京タワーも、ちかぢかオープンの日を迎えようとしているスカイツリーも、実際に作ったのはどこかの偉い人ではなくて、労働者たちなのである。

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 このとき、写真家のリブーも地上何メートルかで、風に吹かれながらカメラを構えていたにちがいない。われわれはテレビを見ても、雑誌を見ても、被写体のこちら側にはこの光景を写している人がいるのだ、ということになかなか気がつかない。展覧会の図録にしても、絵をスキャナーで取り込んだわけではないのだから誰かが撮影しているはずだが、そのカメラマンの苦労については知ろうともしない。

 別の記事にも書いたが、東日本大震災の被害の様子を一般の人が克明にとらえた映像は、報道写真にはない臨場感にみちている。恐ろしい津波が、今にも自分の体をさらっていくように思われる。撮影者本人の身にも、明らかに危険が迫っていたはずだ。それなのにカメラを回しつづけた人たちは、真の意味でジャーナリズムを体現する人なのではあるまいか?

 高所で作業をするペンキ工と、同じ高さで仕事をする写真家。銃剣の切っ先と同じ高さで構えられたアングル。マルク・リブーの仕事から伝わってくる等身大のヒューマニズムは、彼自身もひとりの人間として世界をかけずり回っていたことを、ふと思い出させてくれるのである。

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 去る4月12日、暴走する軽ワゴン車に十数人がはねられるという悲劇の起こった場所を、この日の帰り道に通った。あの事故(事件?)以後、京都に行くのは二度目だが、最初は現場付近に近寄ることすらためらわれた。けれども今回は、何必館から京阪電車に乗るためにどうしてもその道を通らなければならなかったので、心を決めたのだ。

 行楽客たちは、何ごともなかったように祇園をそぞろ歩いていた。一見すると、いつもどおりの明るい京都の街が戻ってきたようだった。けれども大和大路通との交差点にさしかかると、道端に多くの花束が置かれているのが見えた。それに向かって手を合わせる人も少なくなかった。遠方から来たらしい観光客のなかには、何も気づかないで通り過ぎる人もいたけれど・・・。

 車道の上には、さすがにもう血痕は残っていなかったが、チョークで何やら書き込んだあとがうっすらと認められた。ぼくはそこで立ち止まることなく、足早に横断歩道を渡ってしまった。得体の知れない恐ろしさが、脳髄からわき起こってきた。

 京都の人は、大阪の人よりはるかに信号を守る、ルールに忠実な人たちだ。それなのに、自分の身の安全を守ることさえできなかった。われわれはいったい、何に気をつけたらいいのだろう? ぼくの頭のなかで、答えのない疑問が渦巻きつづけた。

(了)


DATA:
 「時代の証言者 マルク・リブー展」
 2012年3月3日~4月22日
 何必館・京都現代美術館

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有名と無名のあいだ ― マルク・リブーの写真を観る ― (2)

2012年04月23日 | 美術随想

『ウィンストン・チャーチル』(1954年)

 マルク・リブーは著名人のポートレートも手がけた。『ウィンストン・チャーチル』は、80歳を迎える英国首相の姿をとらえている。彼が国政の第一線から退くのは、この翌年のことだ。

 テレビでよく見かける現在のイギリスの首相は、まだ非常に若い(正確にいえば、ぼくより5歳年上というだけだ)。日本の総理はもう少し年を取ってはいるが、顔ぶれがしょっちゅう入れ替わり、そのたびに人格の底の浅さを露呈する結果になっている。今、このチャーチルに匹敵し得るような威厳を持ち合わせた政治家は、世界中にひとりもいないのではあるまいか。

 ぼくはもちろん、生きて動くチャーチルの姿を見たことはない。だが、おそらく座っているものと思われるこの写真のチャーチルは、このまま二度と立ち上がることができなくても、いや仮にひとことも発しなくなっても、国のトップとしてのメンツを失うことはなかろうと思えるほどの存在感を発揮している。はやりのいい方でいえば、“オーラ”がみなぎっているのである。

 だが、単に偉そうなだけではない。彼の肉体はあまりにも肥満しすぎ、首は上半身にめり込んでいる。眉間には厳しいしわを寄せているが、滑稽な丸眼鏡をかけた顔は、不機嫌な赤子のように無邪気そうにも見える。

 この写真を撮影したとき、リブーはまだ30歳そこそこだった。そんな若造写真家に向かって、チャーチルはわざと渋面を作ってみせたのか、それとも「こいつ、何者だ?」と訝っているだけなのか、どちらともつかない。本心がそう簡単に透けて見えないところが、政治家たる所以なのかもしれないが・・・。

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『パブロ・ピカソ』(1957年)

 チャーチルに比べて、ピカソのフットワークの軽さはどうだろう。この疲れを知らぬ美術界の超人は、やっと76歳になったところである。ピカソは写真家にとって、よき被写体だったようだ。「よう!」といった感じで、親しげに声をかけてくれる(ダリの演出された写真と比べると、雲泥の差がある)。

 この場所は、どこだろう。避暑地のようでもあるが、人前でさえ上半身裸になることの多いピカソのわりには、やや厚着をしているようにも見える。背後には「酔いどれ船(LE BATEAU IVRE)」という名前の飲食店があるから、ひょっとしたら港町かもしれない。

 だが注目すべきはピカソその人ではなく、彼が連れているダックスフントのほうだ、といったらピカソは怒るだろうか。まるで灼熱の太陽が地面に映し出した影絵のように真っ黒なその犬は、愛犬の「ランプ」である。ピカソはランプの姿を焼物に描いたり、たくさんの油絵に登場させたりした。デイヴィッド・ダグラス・ダンカンという名のアメリカ人写真家は、ちょうど同じころにピカソとランプの写真を何枚も撮っている。


参考画像:デイヴィッド・ダグラス・ダンカン『ピカソとランプ』(1957年)

 ピカソは生涯にわたって、女性たちからインスピレーションを受けつづけたことはよく知られている。ランプはオスかメスか知らないが、この犬もピカソにとっては大切なミューズだったのだ。

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有名と無名のあいだ ― マルク・リブーの写真を観る ― (1)

2012年04月22日 | 美術随想

〔何必館の最上階にある「光庭」〕

 京都の祇園にある何必館(かひつかん)では、素敵な写真展がしばしば開かれる。もともと写真というジャンルに疎いぼくには、はじめて聞く写真家の名前も多い。マルク・リブーも、そのひとりだった。だいたいカメラという機材が芸術の、それ以上にジャーナリズムの必需品になってからというもの、写真家に分類される人種は世の中にあふれるほどいるはずである。

 展覧会のポスターでたまたま見かけた一枚の写真が、リブーに対する興味を無性にかき立てた。絵画などとちがって印刷物と現物との印象が天と地ほど異なるということは、こと写真の場合に関しては少ないかもしれない。けれども、是非ともあの何必館の静謐な空間で、壁にかけられたリブーの写真を観たいと思った。膝の上で写真集をめくるのとはまたちがったやり方で、彼の写真と対面してみたくなったのだ。

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『ジャン・ローズ』(1967年)

 生まれてはじめて彼の展覧会を観たあとでも、リブーという写真家に関して何も詳しくなったわけではない。彼は来年90歳を迎えるほどの高齢で、かの有名な写真家集団「マグナム・フォト」のメンバーだった、ということがわかったぐらいである。

 だが、『ジャン・ローズ』という写真は、そんな個人の地位や名声を超えて、時代の象徴を見事にとらえた作品ではないかと思う。ぼくがポスターで見かけて、どうしてもリブー展に足を運ぼうと決意させたきっかけは、これだった。

 題名の「ジャン・ローズ」というのが何を意味するのかわからなかったが ― 会場には作品の背景などの説明は一切なかったからだ ― あとから調べてみると、右側の女性の名前であるらしい。けれども、別に有名人というわけではない。1967年のこと、アメリカ・ペンタゴンの前で大規模なヴェトナム反戦デモがおこなわれ、花を捧げたひとりの少女が、銃剣を構える兵士たちの前に進み出た。その瞬間を撮影した一枚である。

 この写真は、『ジャン・ローズ』というタイトルではインパクトがないと判断されたからか、『銃剣に花を捧げる少女』というセンチメンタルな題で呼ばれることもある。けれども、彼女が花を捧げたのは、はたして銃剣に対してだったのだろうか? そうではあるまい。ヴェトナムという不慣れな土地に送り込まれ、命を落としたり怪我をしたりした数万人もの米兵たちに向けられた一輪の花だったはずである。

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 このシーンの直後、ジャンは兵士たちに向かって両手を広げ、どうぞ私を撃ちなさい、といったポーズを見せた。その瞬間も、リブーは撮影している。何必館の展示室の壁には、2枚が並べて展示されていた。ぼくはそれらを見比べながら、たくさんの兵士に狙われながらまったく表情を変えようとしない少女のことを考えていた。

 そして、フォト・ジャーナリズムというものが置かれている立場を、この写真から教えられるような気もしたのだ。相対立する被写体の、どちらの側に加担することもなく、それらをいわば真横から記録するのが、彼らの役目なのである。写真家には、ある種の非情さが要求されるものなのだろう。

 写真が登場する以前の優れた画家たちも、先天的に同じような距離感を身につけていたのではないかと思う。以前「東京ゼロ泊 ― ゴヤ展その他のこと ― (16)」で取り上げたゴヤやピカソの絵の構図が、つい45年前のアメリカでも繰り返されていたことに、どうしようもない無力感を覚えざるを得なかった。

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植物園で深呼吸を(5)

2012年04月21日 | その他の随想

〔渡辺千萬子『落花流水』(岩波書店刊)の表紙。これも中島千波の絵である〕

 京都の銀閣寺近く、疏水の流れる脇を「哲学の道」と呼ばれる小道がうねうねと通っている。ここにはソメイヨシノのほかに、オオシマザクラなどのさまざまな品種が咲き競う。何せ「道」が主役であるから、将来的にもここがアスファルトで舗装される心配はないだろうが、桜の季節には大勢の人が通るので地面が踏み固められ、桜の成長のためにはあまりよくないのではないかと思う。

 哲学の道を彩る桜は、「関雪桜」と呼ばれることもある。関雪とは、日本画家の橋本関雪のことだ。近くには白沙村荘という邸宅跡もあるので、ご存知の向きも多かろう。ただ、ぼくは橋本関雪という画家に今ひとつ親しみがもてないので、まだ訪問したことはないが・・・。

 関雪の孫で、谷崎潤一郎の義理の娘にあたる渡辺千萬子(ちまこ)は、こんなふうに書いている。

 《哲学の道が一番華やぐのは何といっても、道の両側に植えられた「関雪桜」が満開の、桜花爛漫の春四月です。「関雪桜」は橋本関雪が植えたとされていて、いつの間にかこう呼ばれるようになりました。しかし実は関雪の妻よねが植えたものなのです。よねはとてもつつましい人で、関雪の貧乏時代を支え、(略)ようやく世に認められるようになってからも、関雪が祇園あたりで豪勢に遊び歩いている時も、変わらず質素に暮らしていて、少しずつ小遣いを貯めて「何か人のためになることに使いたい」と夫とも相談して疏水の土手に「桜」を植えることにしたのです。》(『落花流水 谷崎潤一郎と祖父関雪の思い出』岩波書店)

 よねの没後、残された関雪は桜の手入れをつづけた。亡き妻の遺志を継いでのことといっても、その情熱は、笹部新太郎と単純に比較できるようなものではない。よねが桜を植え、関雪が丹精したおかげで、哲学の道は京都を代表する桜のメッカとなった。

 ただ、京都市が疏水の改修工事のために200本あまりを切り倒してしまったため、当初の桜は十数本しか残っていない。『櫻守』の竹部が役人をけなした激しい言葉を、ここで繰り返したくなってしまうのは残念なことだ。

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〔笹部新太郎が手がけた植物園の桜たち〕

 けれども「大阪市立大学理学部附属植物園」には、そんな行政の無謀な手が入ることはないだろうと思いたい。

 山桜、枝垂桜、楊貴妃、兼六園菊桜、緑色の花弁をつけるという貴重な新錦など、いわゆる“名所”をぶらぶらしていただけではお眼にかかることができないさまざまな桜が、ここにはまだ息づいている。もちろん桜だけが特別扱いというわけではなく、あまり人に知られることのないような他の植物たちと同じように、桜も「家族の一員」として育てられているという印象を受けた。桜が咲きはじめると花見をしたくてうずうずするが、それ以外の季節は花に見向きもしないという輩は、大いに反省したほうがよろしかろう(もちろん、ぼく自身も含めて)。

 家から比較的近くにあるこの植物園を、季節が移り変わるごとに、まめに訪れてみようと決めた。ぼくは実物の花よりも、絵に描かれた花を見るほうがずっと多いだろう。だが、画家たちもやはり本物の花を見つめ、写生し、豊かなインスピレーションを受けていることを忘れたくはないものだ。

 それと、もうひとつ。大阪市内の職場と家とを往復しているだけの毎日には決定的に不足していたものを、ここで得ることができた。それは、何ものにも穢されていない、美しい空気である。ぼくは何年かぶりで、大きく深呼吸をした。

(了)

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