てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

「無言館」は語る(6)

2005年08月29日 | 美術随想
 会場は普段よりも照明が落とされているように感じたが、それはあるいは気のせいだったかもしれない。しかしある静謐な、厳粛なものが漂っていたのは確かで、いかにも「無言館」という名にふさわしい気がした。喧騒にまみれた日常世界の混沌から、1枚のヴェールを隔てた“守られた空間”に誘導されていくようである。おっかなびっくり、ぼくは中に入ってみたが、劈頭の1枚を観て雑念が一気に消し飛んでしまった。

 蜂谷清『祖母の像』。いつか必ずくる出征の日、生まれたときからずっとそばにいる肉親にさえ、もう二度と会えなくなるかもしれないという切実な思いが、この絵を描かせたのだろう。ポーズをとらせるでもなく、真正面から描かれた祖母の姿。しかしそれだけに、キャンバスを挟んで向かい合った孫との間に、張りつめた“無言の対話”が交わされていたであろうことをこの絵は想像させる。ここには、ふたりの思いのたけが詰め込まれているのだ。

 ぼくはふと、田舎に暮らしている自分の祖母のことを思い出さずにはいられなかった。帰省するたびに老いさらばえていく祖母を、ぼくはここまでじっと見つめたことはない。蜂谷清は、いつも身近にいる祖母の姿を、まるで初めて見るような思いで見つめたのではないだろうか。額の皺、落ちくぼんだ口、グローブのように浅黒い手、それらひとつひとつを確かめるように、脳裏に刻みつけながら描いていったにちがいない。

 そしてその愚直ともいえる行為が、実は絵画の原点なのではないかと、ふと思い至るのである。彼らと同世代の画家、野見山暁治氏がいう「絵というのは、本当はこういうものじゃないか」(「展覧会に寄せて」)とは、まさにこのことではなかろうか。

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