
レンブラントの工房による模写『首あてをつけたレンブラントの自画像』(1629年頃以降)
レンブラントは、自画像を単なる記録としてではなく、芸術にまで高めた第一人者だと思う。同国人のゴッホも自画像を多く残したが、それはやはり偉大なる先輩への敬意のあらわれかもしれない。ただし、レンブラントはゴッホよりもずっと長生きした分だけ、自画像の変遷の過程をたどるのがおもしろいはずだ。
『首あてをつけたレンブラントの自画像』は、画家本人の作ではないということになっているが、以前はレンブラントの自筆と判断されていたそうである。そのへんの見極めは、おそらくぼくのようなシロウトには及びもつかない専門的なことなのかもしれないが、初期のレンブラントの風貌を知るためには、工房作でも何の不足もなかろう。
この絵は彼が23歳のころらしく、世の女性すべてを骨抜きにするほどの美男子とはいえないにしても、じゅうぶんにいい男であるし、何といってもその瞳には覇気が漲っている。この年ですでに工房を営んでいたのだから、世間の評価も高く、自信があって当然ともいえる。
若きレンブラントには画家としての成功と、幸福な未来が約束されていたのである。
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参考画像:レンブラント・ファン・レイン『放蕩息子に扮するレンブラントとサスキア』(1635年頃、ドレスデン国立美術館蔵)
数年後、レンブラントは早くも絶頂期を迎える。だが、そのころに描かれたこの絵では、画家は眼も当てられないような姿に変貌してしまった。これは純粋な自画像とはいえないだろうし、レンブラントの顔がどこまで忠実に描かれているかは何ともいえないが、がっぽり儲かったお金で心ゆくまで酒盛りをし、美しい妻を抱き寄せて悦に入っている姿は、愚かだとしかいいようがない。
レンブラント自身は、おのれの生涯が頂点を極めた記念にこれを描いたのかもしれないけれど、はたから見ればあまりにひどすぎる。つい、哀れみを催してしまうほどだ。あのきりりと引き締まった若者はどこへやら、頬はぶくぶくと膨れ上がり、口はだらしなく開けられ、眼つきもあやしい。
この世の春を謳歌している夫の膝の上にのり、顔をこちらに振り向けているサスキアは、まだ結婚したばかりだった。けれども、夫に同調して浮かれたりはせず、むしろ冷めたような、厳しい眼をしているのが気にかかる。ひょっとしたら、彼女のほうがレンブラントの生涯の先のほうまでを正確に見通していたのかもしれない。
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レンブラント・ファン・レイン『自画像』(1669年)
ピークは、長くはつづかない。レンブラントは破産し、妻にも死なれ、息子にも先立たれ、暗鬱な後半生を送る羽目になる。
かつてみずからの手で、幸福の絶頂にいる自分の姿を描き残したレンブラントは、わが身を襲いつつある厳しい現実との落差に愕然としたのではなかろうか。その後は虚飾も自尊心もかなぐり捨て、ひとりの男が年老いていくさまを、自分の姿の上にありのままに表現していく。
上の『自画像』が描かれた1669年は、レンブラントの最後の年にあたる。このとき彼には、すでに死の足音が聞こえていたのだろうか。その眼は、何か決然たる思いを秘めているようにも見える。人生の大きな山と谷を経験し、辛酸をなめ尽くした画家は、まるで自分の存在を手探りするように絵の具を何度も塗り重ねている。
自分には絵画の道を歩むしかないことを知り、その道がもうすぐ閉ざされてしまうことの寂しさと、やれることはやりきったとでもいうような静けさがこもごもに観る者をうつ、不思議な肖像画である。
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