てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

フェルメールと、その他の名品(12)

2013年01月24日 | 美術随想

フランス・ハルス『笑う少年』(1625年頃)

 フェルメールの描いた少女が、混雑緩和のためにじっくり眺めることができないような仕掛けになっていたのに対し、こちらのハルスが描いた少年は、いつまでも眺めていたいような底抜けの朗らかさにみちていた。

 直径30センチ余りの丸い画面に、満面の笑みをたたえた、いかにもやんちゃそうな子供の顔のクローズアップ。大きさとしては、『真珠の耳飾りの少女』よりまだ小さい。しかもその大胆な筆跡から想像するに、ハルスの仕事ぶりはフェルメールよりずっと早かったことは明らかだ。彼の実力をもってすれば、まるで即興のように、ごく短い時間で描き上げられたのではなかろうか。

 よく“完成度が高い”などという表現を耳にするが、その“完成度”がいったい何を基準にしているのかは、時代によって異なるだろう。フェルメールの諸作品が、極めて慎重に丁寧に描かれ、揺るがしようのないほど高い完成度を誇っているとすれば、ごく荒っぽいハルスの絵などは完成度が低いといわねばならない。

 しかしだからこそ、観る者にストレートに感情が伝わってくることがある。破顔一笑といった感じの少年の顔は、空気を孕んで浮き立ったような奔放な髪型とともに一陣の風を起こし、それはわれわれのほうにも届く。思わず、笑みが伝染してしまうのである。フェルメールにおいては、絵の中身とこちら側とが厳然とわけられているような感じがして ― ひねったいい方をするなら、気圧が異なっているようで ― 画中の人物との心の交流は起こりにくかろう。

                    ***


レンブラント・ファン・レイン『笑う男』(1629-1630年頃)

 では、同じ笑顔でも、レンブラントが描いた『笑う男』のほうはどうか。こちらは上のハルスよりもさらに小さな絵だが、観ているほうが思わずぞっとしてしまうような不気味さをたたえている。

 兵士の鎧にも似た金属の襟が見事な質感を醸し出しているのに対して、肝心の顔のほうは、お世辞にも丁寧に描かれているとはいえない。色彩もムラだらけで、まるで皮膚病のようである。立派な口髭が眼につくが、その下からは醜く乱れた歯列がのぞいている。ほとんど漫画的な表現に近いだろう。

 だが、ぞっとしてしまう理由はそれだけではない。はしたないともいえる男の笑い顔は、絵の前に立つ人間の浅はかさ、さもしさを鏡のように映し出す。うわべを綺麗に整えていても、心のなかではどんな顔をしているかわからない。それが人間なのだ。

 一般的には“見えるものの外見を巧みに写す”と思われている絵画の作者が、ときとしてこのように見た目の美しさを投げ出し、内面をむき出しにしたような人物像を描きたくなるのも、何となくわかるような気がする。

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