
ピエール=オーギュスト・ルノワール『自画像』(1875年頃)
「こんにちは、ルノワールさん」。ここはやはり、画家の自画像から入っていくのが礼儀であろう。
だが、ルノワールの穏和な絵画世界に慣れている人にとっては、彼の顔はちょっと予想外なものかもしれない。後年の肖像写真でもそうだが、ルノワール自身が笑顔をたたえている姿をいうのを、ぼくは見たことがないのだ。いやむしろ、今まさに危機に瀕しているかのような深刻な、厳しい顔をしている。
ルノワールは肖像画家としても活動していたから、人の特徴を一瞬で見抜く術は心得ていたはずだ。相手を喜ばせるためには、ある程度の“美化”が必要であるということも、よく知っていたはずである。のちに彼の絵が世に認められるようになり、描きたいものを自由に描くことができるようになってからでも、“現実より美しく描く”という姿勢は、ルノワールの根本に居座っていたのではないかと思う。
それなのに、である。ルノワール自身の顔から、美しさはさておいても、心地よさを感じ取ることは不可能だ。この『自画像』が描かれたのは印象派展がはじまって間もないころで、いまだに貧乏暮らしから抜け出すことはできなかっただろう。そのことを別にしても、まるで思い詰めたような画家の表情は、彼が絵画に対していかに真剣に取り組んでいたかを物語っているといえる。
そうやって描かれた数々の名作を、われわれも全身全霊を傾けて鑑賞しなければならない。そう思いたくなるのは、考えすぎというものだろうか? だが、ぼくはただ「綺麗な絵だねえ」というだけで彼の絵の前を通り過ぎてしまうのは、ルノワールに対して失礼なことのような気がするのである。
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ピエール=オーギュスト・ルノワール『若い娘の肖像(無邪気な少女)』(1874年頃)
それにしても、ほぼ同じころに描かれた女性像を観ると、理屈抜きで心を奪われる。これこそが、ルノワールの魔力だろう。
けれども、従来の古典的な女性の表現と比べると、やはり大きくちがっているように思う。この少女の姿は、現実にはあり得ないほど極端な撫で肩であり、人体解剖までして正確さを期したダ・ヴィンチからすれば、何という手抜きだ、ということになってしまいそうだ。ついでにいえば、先ほどの『自画像』と同様、背景には何も描かれていない。
だが、描写の正確さを抜きにしても、女性を愛らしく表現する方法をルノワールはよく知っていた。画面のなかでもっとも濃い色に塗られた瞳、ぷっくりとした質感のある唇。そっと添えられた、可憐な人差し指。これ以上、何が必要だというのか?
もっといえば、帽子に飾られた花だけが異質なマチエールで描かれていて、絵のワンポイントになっている。このワンポイントという言葉は、いわゆるファッションの世界でよく使われるような気がするが、女性が自分を美しく飾り立てるときに考えるのと同じようなことを、やはりルノワールも考えていたのである。
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