作家で脚本家だった向田邦子は、自称“水羊羹評論家”というほど、水羊羹が好きだったそうである。彼女はどことなく洋風のたたずまいがするからか、ぼくには思いもよらないことであった。
それも、ただの好物というだけではない。水羊羹を食すときの雰囲気、BGM、皿、合わせて飲むお茶などにもこだわりがあったらしい。向田は文字どおり『水羊羹』と題したエッセイでそのことを語っているというが、ぼくはそれをまだ読んだことはない。ただ、かなり以前にNHKの「グレーテルのかまど」という番組で、そのことが紹介されていたのだ。
ひんやりとして、喉をつるりと滑り落ちる水羊羹は、夏のお菓子として愛好されているものらしいが、ぼくが生まれ育った福井では、もっぱら冬の食べ物であった。それもとことん念が入っていて、冬期しか販売されないのである(この意外性についても番組では紹介されていた)。福井のテレビから流れるCMソングは、福井生まれの人なら知らない人はないのではないかと思うが、こたつに入りながら水羊羹を味わうというのは、向田邦子にもちょっと想像がつかない光景かもしれない。
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わが家では、年末になると実家から水羊羹を送ってもらう。この広い大阪で、12月に水羊羹を食べる家など数えるほどしかないのではないか、と考えるとおかしいが、それが習慣になってしまっているのだから仕方がない。慣れというのは、おそろしいものである(その一方で、“郷に入っては郷に従え”ともいうけれど・・・)。
ただ、実をいうと、ぼくは水羊羹がそれほど好きではないのだ。そもそも、子供のころから粒餡は食べることができなかった。饅頭や大福に嬉々としてかぶりつく人の気が知れぬ。会社などで粒餡入りのお菓子が配られても、ぼくは人にあげるか、こっそり捨てるしかないのである。
水羊羹は丁寧に漉して作られているので、粒餡のように舌にざらつく触感はない。けれどもあの風味は、どうごまかしてもアンコのあれである。たとえ向田邦子のいうように緑茶を添えて食べたとしても、ぼくにはあまりおいしく感じられないだろう。水羊羹を製造している菓子メーカーによれば、ブラックコーヒーにも合うということだが、ぼくはミルクと砂糖で甘くしたコーヒーしか飲めないときている。何とも厄介だ。
ともあれ、箱に入ったままの水羊羹に切り込みを入れ、フォークで“ちくりさして”(福井の方言で“刺して”の意)食べるのが、わが家の年末の風物詩のようになってしまっているのである。
しかしながら向田邦子は、「水羊羹の命は、切り口と角」と書いているらしい。直角な切れ目と、鋭い切り口をもつ水羊羹が、小皿の上でひんやりと凝り固まったようなたたずまいこそが、雰囲気を引き立てるのであろう。わが家のずぼらな食べかたを見ると、彼女はその美しい額に青筋を立てて怒り出すにちがいない。
(了)
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今年も、例年どおりといいますか、“竜頭蛇尾”ともいうべきブログに堕してしまいました。まことにお恥ずかしいかぎりです。
また来年も、自分なりのペースでつづけていく所存ですので、何とぞよろしくお願い申し上げます。
それでは皆さま、よいお年を。
(画像は記事と関係ありません)