メトロポリタンでの時空の旅 その1
〔「メトロポリタン美術館展」のチケット〕
かつて、NHKの「みんなのうた」で、大貫妙子が歌う『メトロポリタン美術館(ミュージアム)』という曲が放送されたことがあった。今でも覚えている人が多いのではないだろうか。
ただ、ぼくはそのころクラシック音楽に夢中だったので、メトロポリタンと聞けば思い浮かぶのは美術館ではなく、「メトロポリタン歌劇場」のほうだった。どちらもニューヨークにあるが、設立されたのは美術館のほうが早い。
今回の展覧会のサブタイトルは、「大地、海、空 ― 4000年の美への旅」となっている。去年の6月、やはり上野で開かれていた「ベルリン国立美術館展」に行ったときには「学べるヨーロッパ美術の400年」と書いてあったが、ざっとその10倍の時間を股にかけることになる。
だいたい、ルーヴル美術館だって、ボストン美術館だって、紀元前から近代までに及ぶ大量のコレクションを有しているわけだ。つまり、考古学博物館と美術館が合体したような、まさしく「ミュージアム」としか呼びようのないものなのである。だが、それらの時代を横断するような展覧会が日本で開かれることは滅多にない。
ところが、このたび東京都美術館のためだけに考えられた展示構成では、古代ギリシャやエジプトの彫刻から20世紀の工芸品まで、あるいは重厚な額縁に入った油絵から現代の日本人が撮影した写真まで、それこそ宝石箱をひっくり返したようなラインナップとなっていた。いってみれば、幾種類ものフルコースを少しずつつまみ食いするようなものだ。
こういう展示方法が、メトロポリタン美術館の許容量の途方もなさを誇示する効果があるのももちろんである。いくら背伸びをしたところで、それに見合うような文化施設を日本に作ることは叶わぬ夢であるということを、いやというほど思い知らされる。ただ、今回はそういう“やっかみ”は胸の底におさめておいて、多彩なコレクションの数々を素直に楽しめばいいのだろう。
***
クロード・ロラン『日の出』(おそらく1646-1647年)
展覧会の最初は、まるで大都会の美術館から借りてきたことを忘れさせるような、瑞々しい自然の景色からはじまった。クロード・ロランは、荘厳な古代建築を脇役に配した海景画を観ることはよくあるが、こういった田園風景は珍しいのではないか。
手前には家畜を追う人々が描かれていて、いかにものどかな情景が展開している。彼らはまるで神話のなかから抜け出してきたかのようだ。しかしこれは神話画というわけではなく、雄大な自然を描くための口実にすぎないような気がする。ロランが港を描くときも、同じような手つづきを踏んでいたはずだ。
参考画像:クロード・ロラン『シバの女王の船出』(1648年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)
たとえば、同じころに描かれた代表作『シバの女王の船出』という絵がある。ところが、この絵のどこにシバの女王がいるのか、われわれは眼を皿のようにして探さなければならない(おそらく右側の石段のところに、群衆に混じって小さく描かれているのがそれだ)。絵の題名は『上陸するシバの女王のいる風景』とされることもあって、要するに船出をするところなのか上陸したところなのか、絵を観ただけでは判断できないほど細かい。いいかえれば、まあどちらでもいいのである。
ロランが描きかたったのは、まさに理想化された自然の姿だった。もし女王が今から船出をするというのであれば、ちょうど太陽が海から昇ってきたところのように見えるし、すでに上陸したということになれば、これから水平線の向こうに沈んでいくところに見える。つまり実際の、ある特定の時間の太陽を写生したわけではなく、画家の頭のなかで磨き上げられたモチーフとしての“太陽”が、この絵のなかにはめ込まれたわけである。
『日の出』に話を戻すと、実はこの絵には“太陽”は描かれていない。ロランと同じ名前をもつクロード・モネにいわせれば、「これのどこが日の出なんだ」ということになるかもしれない。だが、誰にでも公平に光を与える偉大なる日輪の輝きが、風景のすみずみにまでいきわたっていることは感じられる。
なかでも、中天に広がる空の清々しい青さはどうだろう。可憐な雲を浮かべた空の下で、新しい一日のはじまりを迎えるときの幸福感が、時空を超えて伝わってくるというものだ。止み間もない雨に濡れながらようやく美術館に駆け込んだぼくにとってみれば、これぞまさしく理想的な風景そのものだといわざるを得ないのである。
つづきを読む
この随想を最初から読む
〔「メトロポリタン美術館展」のチケット〕
かつて、NHKの「みんなのうた」で、大貫妙子が歌う『メトロポリタン美術館(ミュージアム)』という曲が放送されたことがあった。今でも覚えている人が多いのではないだろうか。
ただ、ぼくはそのころクラシック音楽に夢中だったので、メトロポリタンと聞けば思い浮かぶのは美術館ではなく、「メトロポリタン歌劇場」のほうだった。どちらもニューヨークにあるが、設立されたのは美術館のほうが早い。
今回の展覧会のサブタイトルは、「大地、海、空 ― 4000年の美への旅」となっている。去年の6月、やはり上野で開かれていた「ベルリン国立美術館展」に行ったときには「学べるヨーロッパ美術の400年」と書いてあったが、ざっとその10倍の時間を股にかけることになる。
だいたい、ルーヴル美術館だって、ボストン美術館だって、紀元前から近代までに及ぶ大量のコレクションを有しているわけだ。つまり、考古学博物館と美術館が合体したような、まさしく「ミュージアム」としか呼びようのないものなのである。だが、それらの時代を横断するような展覧会が日本で開かれることは滅多にない。
ところが、このたび東京都美術館のためだけに考えられた展示構成では、古代ギリシャやエジプトの彫刻から20世紀の工芸品まで、あるいは重厚な額縁に入った油絵から現代の日本人が撮影した写真まで、それこそ宝石箱をひっくり返したようなラインナップとなっていた。いってみれば、幾種類ものフルコースを少しずつつまみ食いするようなものだ。
こういう展示方法が、メトロポリタン美術館の許容量の途方もなさを誇示する効果があるのももちろんである。いくら背伸びをしたところで、それに見合うような文化施設を日本に作ることは叶わぬ夢であるということを、いやというほど思い知らされる。ただ、今回はそういう“やっかみ”は胸の底におさめておいて、多彩なコレクションの数々を素直に楽しめばいいのだろう。
***
クロード・ロラン『日の出』(おそらく1646-1647年)
展覧会の最初は、まるで大都会の美術館から借りてきたことを忘れさせるような、瑞々しい自然の景色からはじまった。クロード・ロランは、荘厳な古代建築を脇役に配した海景画を観ることはよくあるが、こういった田園風景は珍しいのではないか。
手前には家畜を追う人々が描かれていて、いかにものどかな情景が展開している。彼らはまるで神話のなかから抜け出してきたかのようだ。しかしこれは神話画というわけではなく、雄大な自然を描くための口実にすぎないような気がする。ロランが港を描くときも、同じような手つづきを踏んでいたはずだ。
参考画像:クロード・ロラン『シバの女王の船出』(1648年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)
たとえば、同じころに描かれた代表作『シバの女王の船出』という絵がある。ところが、この絵のどこにシバの女王がいるのか、われわれは眼を皿のようにして探さなければならない(おそらく右側の石段のところに、群衆に混じって小さく描かれているのがそれだ)。絵の題名は『上陸するシバの女王のいる風景』とされることもあって、要するに船出をするところなのか上陸したところなのか、絵を観ただけでは判断できないほど細かい。いいかえれば、まあどちらでもいいのである。
ロランが描きかたったのは、まさに理想化された自然の姿だった。もし女王が今から船出をするというのであれば、ちょうど太陽が海から昇ってきたところのように見えるし、すでに上陸したということになれば、これから水平線の向こうに沈んでいくところに見える。つまり実際の、ある特定の時間の太陽を写生したわけではなく、画家の頭のなかで磨き上げられたモチーフとしての“太陽”が、この絵のなかにはめ込まれたわけである。
『日の出』に話を戻すと、実はこの絵には“太陽”は描かれていない。ロランと同じ名前をもつクロード・モネにいわせれば、「これのどこが日の出なんだ」ということになるかもしれない。だが、誰にでも公平に光を与える偉大なる日輪の輝きが、風景のすみずみにまでいきわたっていることは感じられる。
なかでも、中天に広がる空の清々しい青さはどうだろう。可憐な雲を浮かべた空の下で、新しい一日のはじまりを迎えるときの幸福感が、時空を超えて伝わってくるというものだ。止み間もない雨に濡れながらようやく美術館に駆け込んだぼくにとってみれば、これぞまさしく理想的な風景そのものだといわざるを得ないのである。
つづきを読む
この随想を最初から読む