てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

人体表現を巡る旅、その他(10)

2013年05月16日 | 美術随想
歪んだ男ベーコン その5


『ファン・ゴッホの肖像のための習作V』(1957年、ハーシュホーン美術館蔵)

 ベーコンと、ゴッホ。これは、まったく意外な取り合わせであった。まるで黄金色に照り輝くカレーライスの横に、焦げ目の入った鶏の蒸し焼きが並べられたような・・・。

 そもそも、ゴッホのあの過剰なまでの色彩感覚と、極めて色数の限定されたベーコンの絵画とに、どのような共通点があるのだろうか。それに、キャンバスにありありと筆の痕跡が残るゴッホの濃厚なマチエールに比べて、ベーコンの絵肌は現代アートに珍しいほどフラットで、寡黙で、禁欲的である。

 さらにいえば、ゴッホはそれほど人体表現に固執した画家だったろうか? 周囲の人たちからなかなか理解されなかった彼は、何よりも風景や植物に愛着を抱いたにちがいない。何点かの人物像は、浮世絵の影響なのか、強靭な圧力でプレスされたようにひしゃげている。たしかにおびただしい自画像を描きはしたが、そこから対象の肉体性を感じ取ることは難しい。

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参考画像:フィンセント・ファン・ゴッホ『タラスコンへの道を行く画家』(1888年、焼失)

 しかし、ベーコンはゴッホのことが好きだったようだ。『ファン・ゴッホの肖像のための習作V』は、ゴッホの『タラスコンへの道を行く画家』をモチーフにしていて、明るい色づかいにも多少の影響は見て取れる。だがやはりそこにたたずむのは、ひとりの不気味な、影のような男の姿である。

 ゴッホの原作と比較してみると、よく似ている箇所がある一方で、あまりにも異なった印象を受けるのに驚かざるを得ない。ぼくはゴッホのこの絵が載った画集をもっていたので、かなり昔から知っていたつもりなのだが、たしかに大胆な筆さばきにはゴッホらしさがあるものの、まるでこれからハイキングに出かけるかのような軽快な人物の身のこなしにずっと違和感を覚えていた。憑かれたように絵を描きつづけたこの“炎の画家”は、果たしてこんな身軽な足取りでスケッチに出かけたのだろうか? という疑問が頭から離れなかったのだ。

 一方、ベーコンが描いた暗澹たるゴッホ像は、画家が意図したかしないかは別として、ぼくの心に長年わだかまっていたものを氷解させてくれた。ゴッホは、一見すると喜び勇んで出かけていくようでいて、実はその内面には焦燥と疲労とが際限なく積み重なっていたのではあるまいか。

 周知のとおり、ゴッホはこのあと精神を病み、2年後にはピストルで自分の腹を撃ち抜く。まるでその悲惨な最期を予感しているかのような哀れなたたずまいが、ぼくには痛々しく感じられるのである。

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 画材を小脇に抱え、準備は万端整ったものの、なかなか絵を描くことができずに呆然とこちらを見る画家の姿。もちろん実際のゴッホは、立ち止まっている暇があるぐらいならどんどん突き進むタイプの人だったろうから、このようにじっと静止していることはありえないはずだ。ベーコンは同じ画家としての“生みの苦しみ”をよくわかっていたから、得体の知れないものに追いつめられているゴッホの心境をおしはかったのだろう、としかいいようがない。


参考画像:鴨居玲『1982年 私』(部分、1982年、石川県立美術館蔵)

 ベーコンの絵からぼくが連想したのは、鴨居玲の代表作といわれる『1982年 私』という作品であった。クールベの『画家のアトリエ』さながらに、キャンバスの前にたたずむ鴨居自身を描いたものだが、そのキャンバスは見事なまでに真っ白である。「おれは何を描いたらいいのだろう?」といわんばかりにこちらを向いている画家の姿は、もはや絶望的で、やりきれない。

 これを描いてから3年後、鴨居玲もゴッホと同じように、みずから命を断ったのである。

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