てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ステージを見下ろして(3)

2009年07月27日 | その他の随想


 休憩を挟んだ後半は、ブラームスの交響曲第2番だった。ぼくは不安と期待のない交ぜになった複雑な気持ちで、曲がはじまるのを待った。

 ブラームスは、もっとも好きな作曲家のひとりである。知名度のきわめて高い人物であるわりに、その作品には晦渋な部分が少なくなく、聴衆におもねることをしない。いわば難解な文章をもって鳴る小説家が、その存在を広く読者に認めさせるだけの底力を発揮するのにも似て、わかりやすさを乗り越えた何かが、ぼくの心に強く訴えかけてくるのだ。それはぼく自身が、生まれつき不器用なせいかもしれない。そして不器用ながらに、何かを生み出そうと苦心しているからかもしれない(ブラームスの音楽とぼくの文章が似ているなどと、牽強付会なことをいうつもりはまったくない、念のため)。

 だがこの第2番だけは、なかなか歯が立たなかった。今でもこの曲が本当によく理解できたとは思えないし、これからも当分できないのではないかと思える。特に第2楽章は、何拍子の音楽か非常にわかりにくい(冒頭が4拍目のアウフタクトからはじまることは、楽譜を見てはじめて知った)。ほかにも第1楽章のトロンボーンに唐突に出現する不協和音、全曲を通してあらわれる独特のシンコペーションは、噛み切れない肉のようにぼくの耳に引っかかる。

 しかしこの曲は、ブラームスには珍しいほど一気呵成に、数か月で書き上げたらしい。第1番の完成までに20年あまりも費やしたのが嘘のような話だ。練りに練って、手を加えるほどに洗練されていくというよりは、一晩かけて苦労して書いたラブレターが翌朝見ると意味不明なものになっているように、徐々にぎこちない容貌をあらわしていくところがブラームスの個性ではないかと思っているのだが、第2番は彼の“書き言葉”ではなく率直な“語り言葉”が、全篇にわたって吐露されているということだろう。いわば、ブラームスの“本音”が垣間見える作品なのである。

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 そのわりには、人の心に直接響くというよりは、やや屈折した音楽になっていると思う。「ブラームスの田園交響曲」と呼ばれているということだが、そのあだ名もぼくにはしっくりこない。散歩が好きだったベートーヴェンは、自然のなかにいるときだけは誰とも衝突することなく、自我を存分に解放することができたのだろうが、ブラームスの“本音”は、やはり自分自身の内面へと向けられているような気がする。

 比較的わかりやすい楽章といえる第4楽章は、ぼくには痛々しい空騒ぎのように思える。冒頭に、弦やホルンに混じってトランペットが小さな音で鳴らされるが、それを吹いた奏者が気恥ずかしくなってしまうのではないかと思うほど ― 実際、合わせるのは大変に難しいにちがいない ― 不自然に浮いて聴こえる。メロディーラインはなかなか主音に到達せず、出口を求めて右往左往する迷子のようだ。コーダで音楽は盛り上がり、金管楽器も水を得た魚のように活躍するが、そこに「ンタタタター」という『運命』のリズムが含まれていることにも注意していい。

 指揮者のウラディーミル・ヴァーレックは、さほど大きなアクションをすることもなく、管弦楽を見事にまとめ上げていたように思えた。かつては大阪シンフォニカーの首席客演指揮者を務めていたということだが、このオーケストラとは気心の知れた間柄なのだろう(それにしても“首席客演”とはどういう立場なのかわかりにくい。いわば準レギュラーのようなものか)。それぞれの楽器もよく鳴っていたし、随所にある管楽器のソロも素晴らしかった。弦のぶ厚いアンサンブルも、重厚で美しかった。

 問題の2階席だが、眼が悪いので指揮者の表情まではよくわからない。ただ、指揮台からいちばん奥のティンパニまでは想像以上の距離があることがわかったし、トランペット奏者と譜面台の間がひどく離れていて、前に乗り出すように楽譜をめくっているのも眼についた。こういった視点からの眺めは、テレビでもめったに映ることがないものだ。

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 木管の隣に、うら若い女性ホルン奏者が座っていた。髪を結い上げていて、美しいうなじがライトに映える。この席はたいていの場合、首席奏者の定位置だ。しかし彼女はどう見ても首席ではなく、隣にいる中年の男性がそうなのだろうと思えた。

 ホルンの奏者は入団したてのころ、あるいはこれから正式に入団するかどうかというときに、首席の左隣に座らされることがあるようだ(客席から見ると右隣)。もちろん実際に第1ホルンのパートを吹くことはなく、すべての奏者が一斉に吹く強奏のところだけを、合わせるように吹くのである。ホルンは音を間違えると大変に目立つので、それだけでもかなりの緊張を強いられるにちがいないが、将来に一人前の奏者として自立するための予行演習として、または度胸試しとして、そういう訓練をするのだろう。

 しかし、なぜ首席奏者が自分の席を明け渡してまで、新人を左隣に座らせるのか。ぼくにはそれが疑問だった。だがこの日のコンサートを上から見ていて、あくまで想像にすぎないが、何となく察しがついた。ホルンはその構造上、やや左側を向いて演奏する必要がある。島田雅彦が『優しいサヨクのための嬉遊曲』か何かで、ホルンを吹くときのポーズを女性を愛撫するしぐさに例えていたように、真正面から堂々と攻めるわけにはいかない。つまり右隣に座る奏者の姿は、ほとんど視界に入らないのだ。

 新人を首席の右に座らせると、先輩の動きや息づかいを見てしまう。これでは、指揮者を見ないで周りに合わせてしまうことになりかねない。オーケストラの一員といえども、ひとりの音楽家としての自立をうながす意味で、あえて指揮者とのやりとりに集中させるために、左に座らせているのではなかろうか?

 第1楽章の終わり近く、ホルンの首席奏者が長いソロを吹く場面があるが、やはり若い彼女ではなく、隣の男性が吹いていた。艶のある、見事なホルンであった。彼女は右のほうを振り返って、その姿を見たいという衝動に駆られているのではないかと思ったが、やはり神妙に前を向いて座っていた。

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 こんなことを考えながら耳を傾けていると、ブラームスの長い交響曲もあっという間に過ぎた。田部京子のCDを買ったりして、少し時間が経ってからホールを出ると、ヴァイオリンのケースを肩から下げた女性たちが横断歩道を渡っていくところだった。失礼ないい方かもしれないが、ついさっきまでステージにのっていたのに、まるでレッスンからの帰りのように屈託なく、楽しげに見えた。2回もの公演をこなしたあとには思えなかった。

 かつてヴァイオリンを習い、ものの見事に挫折した経験のあるぼくは、そんな彼女たちが颯爽と歩くさまを黙って見送っていた。

(了)


DATA:
 「第57回名曲コンサート」
 田部京子(ピアノ)
 ウラディーミル・ヴァーレック(指揮)
 大阪シンフォニカー交響楽団

 2009年7月20日
 ザ・シンフォニーホール

参考図書:
 柴田南雄「クラシック名曲案内 ベスト151」(講談社文庫)

(画像は記事と関係ありません)

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