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横山大観『霊峰四趣・夏』(1940年、足立美術館蔵)
横山大観を語るときに忘れることができないのは、彼が戦争に協力的な人物だったということである。このことと、彼が富士山の絵を乱作したのとは、ほとんど同一のことといっていいかもしれない。
わが国の軍国主義が進み、いよいよ戦争の足音が聞こえはじめようとするころ、昭和15年が神武天皇以来の「皇紀2600年」という記念の年にあたっていたことから、それを祝うためにさまざまな催しが開かれたことはよく知られている。
この行事は日本国内だけの話だと思うのだが、なぜか海外の名立たる作曲家たちにも新作が委嘱され、リヒャルト・シュトラウスやジャック・イベールなどがそれに応じて曲を書いてくれた(今から思えば、西洋音楽の後進国である日本が巨匠シュトラウスに作曲を依頼するなどおこがましいにもほどがある、という気がする)。
そんななかで、まだ20代の半ばであった気鋭のイギリス人作曲家ベンジャミン・ブリテンにも注文が及んだ。結果、彼が日本に送ってよこしたのは祝賀ムードとは程遠い『鎮魂交響曲』というもので、当局から演奏を拒否されるなど、問題となっている(ブリテンは、極東の島国の悲惨な敗北を予見していたかのようだ。現在では、この曲は日本でもしばしば演奏される)。
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すでに日本画の巨匠となっていた大観は、この記念すべき年を自身の作品展で祝った。そこに出品されたのは、彼が満を持して描いた「山に因む十題」と「海に因む十題」の連作、合わせて20点である。もちろんタイトルから推察するに、それは純然たる日本の山と海の風景を描いた絵のはずなのだが、戦時体制に傾きつつある時節柄、日本人の精神性を象徴するものとして受け取られたのはやむを得なかった。
それらの絵はすぐに高額で買い上げられ、当時の金で50万円という途方もない収入を手にした大観は、その資金を使って戦闘機を軍に献納する。そういった行為が果たして賢明な判断だったか、それは何ともいえないことだが、敗戦後にあらゆる価値観がひっくり返ってしまったあと、大観が戦争犯罪人の汚名を着せられる原因ともなった。
『霊峰四趣・夏』は、その連作のうちの一枚だ。近藤啓太郎は、この絵への賛辞を惜しまなかった。
《「夏」はもつれあう灰白色の雲に囲まれた、群青色の富士山頂を描いたものである。真っ白な雪をわずかに残した、鮮かに濃い群青色の富士の頂きが、重り合いもつれあう雲烟の中から、ひょっこりと顔を出しているところ、といった方がよいかも知れぬ。雲烟の微妙な色調と複雑な形態とによって、単純で鮮かな夏富士が、さらに眼のさめるように美しく単純に表現されているのである。》(『大観伝』)
だが、日本人の心をとらえる霊峰富士の勇姿としては、この絵はちょっと物足りない。近藤のいうように「ひょっこりと顔を出している」だけの山頂は、のちに大観が描くようになる紋切り型の富士とはちがうのだ。その偉大な姿は雲にかき消され、およそ写実的とはいえない「群青色の富士」が垣間見える情景は、日本の伝統絵画が得意とするチラリズムそのものであり、部分から全体を連想させる心の動きをかき立てる。
こういった趣向がまた、日本画の奥床しさのひとつのあらわれでもあるのだろう。ただ、この絵が戦闘機へと姿を変えてしまったのは、あまり奥床しい話ではないけれど・・・。
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