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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

西から観た横山大観(1)

2012年09月28日 | 美術随想

〔展覧会が開かれた京都駅ビル。ガラスが夏の雲を映す〕

 関西の美術愛好家にとって、横山大観は近くて遠い存在である。

 その名声は、もちろん日本中に轟いているだろう。けれども関西で、ことに日本画のメッカである京都で、大観の絵をいつでも観ることができる場所というのは皆無に等しい。

 それに代わって、京都で日本画家の頂点に君臨しつづけているのは、何といっても竹内栖鳳である。「東の大観、西の栖鳳」という言葉は、あまりにも単純明快すぎる政略図のようではあるが、上記の理由からいうと、やはり真実であるといわざるを得ない。実は横山大観も若いころは京都に暮らしていた時期があるのだが、ほとんど忘却されてしまっているように思う。

 1937年からはじまった最初の文化勲章受賞者のなかに、大観と栖鳳が仲良く肩を並べているのは、どちらが優れているという判断を下すことが誰にもできなかったことを意味する。その結果、近代の日本画は東西にふたつの頂きを抱え込んだまま、長い年月を送ることになった。・・・これは幸福なことか、それとも不幸なことか? ぼくには、どちらともいえない気がする。

 たとえば、横山大観といえば誰しも富士山を思い浮かべるだろう。だが、京都在住の画家がしょっちゅう富士山を描くということは、あまり現実的ではない。普段から滅多に眼にすることがないものを絵画化する際には、強靭な想像力か、とりとめもない夢想に浸っていられる空想癖が必要で、何とか描きおおせたとしても、それが万人に訴えるだけのリアリティーをもっているかどうかは、まったく別の問題である。

 その点、生涯のほとんどを関東地方に送った大観にとって、遠くから富士山を眺める機会は頻繁にあったにちがいない。そうしているうち、富士に対する思いが自然に高まり、折しも国を挙げての戦争がおっぱじまると、戦意高揚のシンボルとしての富士山図を量産するようになっていったのだ。

                    ***


〔「横山大観展」のチケット〕

 では、関西にとって横山大観は縁遠い画家かというと、そうでもない。2004年には京都国立近代美術館で大規模な大観展が開かれ、当時としてはダントツの入場者数を記録した(前半と後半で展示替えがあったので、ぼくも二度足を運んだ)。そして今年に入ってからも、9月の初めまで京都の伊勢丹が展覧会を開催していた。

 ぼくは行こうか行くまいか迷ったあげく、最終日になってようやく出かけたのだが、あまりの盛況ぶりに頭がくらくらしたほどだった。特に、縦に長い掛軸は少し下がって眺めないと全体が一望しにくいものだが、会場の狭さと人の多さから、それすらも満足にできなかった。しかも、お客の年齢層は割と高めだったが、多くの人が口々に作品を褒めそやすのだった。

 ぼくは心残りなことに、多少のストレスを抱えながら京都をあとにすることになったが、帰りの電車に揺られながら、ここまで日本人を惹き付ける大観の絵の力とは何であろうか、と考えた。いや、どうやらその得体の知れないカリスマ性は、栖鳳を凌いで余りあるもののようにも思えてきたのだ。

 横山大観とは、いったいどういう人なのだろう? そういうことについて少し思考を費やしてみるのも、まんざら無駄ではなさそうだった。

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