てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ベルギー絵画いまむかし(7)

2007年07月10日 | 美術随想
    

 フェルナン・クノップフは、ベルギーの象徴主義を代表する画家だということになっている。では、象徴主義とはそもそも何なのかということになるが、正直なところ、ぼくにはよくわからない。クノップフの絵は、いったい何を象徴しているのであろうか?

 ぼくはクノップフがとりわけ好きだというわけではないけれど、その絵に出くわすと、いつもある感銘を受ける。彼の描く人物像に慣れてくると、作者名を伏せられてもたちどころにクノップフの絵だとわかるほど、そのイメージは特徴的だといっていいだろう。ラファエル前派の画家たちやモロー、クリムトなどの女性像と似ている部分もたしかにあるが、彼の絵には決定的な個性がある。それは、ある特定のモデルを使っているからにほかならない。

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 『白、黒、金』(上図左)というこのパステル画は、まるで日本の掛軸を思わせるような細長い画面の中央に石膏像が置かれ、その向こうに伏し目がちにたたずむひとりの女性が描かれている。彼女の表情はスカーフの陰になっていて、はっきりと読み取ることは難しいけれど、何といっても眼につくのは、その長くせり出したあごである。

 このようなあごははたして、美女の条件たり得るのだろうか。とりわけ瓜実(うりざね)顔を美人の典型とする日本人の眼からは、いささか不自然な風貌に見えなくもない。だが、彼女こそクノップフが繰り返し描きつづけた宿命のモデルなのだ。名前をマルグリットという。画家より6歳年下の、実の妹である。

 どうやらクノップフは、この妹の中に女性の理想の姿を見いだしていたということらしい。彼が長いこと独身を通したのも、そのためだったとする説もあるほどだ。では、彼が描いた女性像の中に、妹の姿がどれほど投影されているものだろうか。『マルグルット・クノップフの肖像』(上図右、部分、個人蔵)という絵には、『白、黒、金』の女性とまったく同じ角度でポーズをとる妹が描かれているが、比較してみると似ているともいえるし、さほど似ていないともいえる。いや、あの特徴的なあごに限っていえば、ほとんど似ていないといっても過言ではなかろう。

 もちろん、この2枚の絵が描かれた時期は同じではない。『マルグルット・クノップフの肖像』が描かれたとき、彼女はまだ23歳のうら若き乙女だった。画家も心置きなく、妹をモデルに描くことができたはずだ。だがなぜか、絵の中の彼女は少し憂鬱そうに見えなくもない。兄の熱い視線に晒されつづけ、当惑ぎみに眼をそらしているようにも見える。

 一方『白、黒、金』のときには、マルグリットは30代の後半を迎えており、それだけでなくすでに人の妻になっていた。その容貌に変化が兆していたのはもちろんだろうが、何よりも彼女はすでに自分のものではないという動かしがたい事実が、この繊細な画家の絵に影を落とさなかったはずはないという気がするが、はたしてどうだろう。『白、黒、金』をはじめ、さまざまな絵に描かれたマルグリットの姿が、どこまで忠実に彼女の面影を伝えているかは疑わしいとぼくは思う。なぜなら彼女はマルグリットという実態ではなく、それこそ何かを象徴する存在として描きつづけられたのではないかと思うからだ。

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 クノップフというと、やはり『愛撫』(上図)という油彩画がまず思い出される。この絵も実はベルギー王立美術館にあるのだが、今回の展覧会には含まれていなかった。クノップフの代表作といっても間違いではないだろうが、しかしこの絵の解釈にはさまざまな意見があって、何を描いたのか今ひとつはっきりしない。有名なスフィンクスの神話に基づくものだという説もあるが、物語の一場面を描いただけの絵とも思われない。おそらく画家の深層心理に触れるような、謎めいたことがらが表現されているのだろう。

 その謎をいっそう深めているのが、このふたりの人物(?)の顔である。どちらも、あの長くせり出したあごをもっているように見えるのだ。つまりこの絵も、あのマルグリットのイメージと無関係ではないのである。しかしここに描かれているのは、理想の女性像などではまったくない。半人半獣の女と、筋骨たくましい男とが頬を合わせているという、まことに奇妙なモチーフなのだ。

 ぼくにはクノップフについて特別な知識はないが、それを前提としたうえで勝手な解釈をさせてもらうと、ここには画家クノップフとマルグリットとの複雑微妙な関係が投影されているようにも思われる。やや強引に頬をすり寄せ、愛を求める女に対して、男の顔には明らかに困惑の色が読み取れるが、これは妹に美のイマジネーションを求めつづける画家の一方的な愛情と、それに戸惑う妹の現実的な心境を象徴しているのではないか、という気がするのだ。

 『愛撫』という表題ではあるが、くっつき合ったふたりの頬と頬の間には、神話の世界と現世ほどの遠い距離が横たわっている。マルグリットをいつまでも乙女として描くことはできないことに、画家も気づいていたはずであるが、それでも彼女を手放してしまうわけにはいかない。絵の中に登場するマルグリットが、徐々に現実とはかけ離れた容貌に変化していったとしても、それはクノップフの芸術を成就させるためには仕方のないことであったのである。

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