てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ベルギー絵画いまむかし(1)

2007年06月24日 | 美術随想


 《ワッフル? ビール? いえいえ次はアートです。》

 これは、大阪で開かれた「ベルギー王立美術館展」のポスターに書かれたコピーである。誰が作ったのかは知らないが、いかにも普段から美術に縁のない人が考えそうな文章だ。多少なりとも西洋美術に関心のある人であれば、フランドルと呼ばれた時代から20世紀にいたるまで、かの国がどれほど偉大な画家たちを輩出してきたかを知っているはずである。

 童話『フランダースの犬』の舞台は現在のベルギーであり、主人公のネロ少年がルーベンスの絵と対面を果たした大聖堂は、ベルギーのアントワープに実在する。だいいちルーベンスはフランドルを代表する画家というだけにとどまらず、全ヨーロッパでもっとも成功をおさめた画家だといってもよかったのだから、美術の中心地は一時期ベルギーにあったといっても決して過言ではないだろう。

 それにしても『フランダースの犬』の物語は、世界中のどこにもまして日本でいちばん人気があるらしい。にもかかわらず、ベルギーといえば1にワッフル2にビールとは、いささか食い意地が張りすぎているのではないか、と苦言を呈したくもなる。

 とはいうものの、宣伝コピーが気に入らないからといって、その展覧会を観にいかないという理由にはならない。それに、日本でベルギー美術に接する機会は決して多くはないということも、残念ながら事実なのだ。姫路市立美術館のように、優れたベルギー美術のコレクションを有しているところもなくはないが、それでもフランドル絵画までは持ち合わせていないのが現状である。今度の展覧会でピーテル・ブリューゲル〔父〕の『イカロスの墜落』(上図)の出品が大きな話題となったのも、理由のないことではない。

 ただし、今回は画家の名前にクエスチョンマークが付けられている。ぼくが昔、画集か何かでこの絵の存在を知ったころには、普通にブリューゲルの作ということになっていた。しかし研究が進むにしたがって、いろいろ問題が出てきたらしい。だが今のところ、この絵をブリューゲルの作品とすることにぼくは何の不都合も感じていないので、その前提で話を進めていくことにしよう。

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 ギリシャ神話に登場するイカロスの物語が、現代の日本でもよく知られているのは、やはり『勇気一つを友にして』という歌のおかげなのだろうか。ぼくがまだごく小さいときにNHKの「みんなのうた」で流れ、のちに音楽の教科書にも収録されたというこの歌は、たしかに若者の心を奮い立たせるものをもっている。ぼくも大好きな曲である。

 余談だが、若いころにFM放送でクラシック音楽を聴きあさっていたころ、N響定期公演の生中継の司会を山田美也子さんという方が担当しておられた(あれからずいぶん年月が経つが、今でも番組に出演されているらしい)。ソフトで親しみやすい語り口が心地よく、ぼくはその放送を楽しみにしていたものだった。のちに大阪で開かれたあるコンサートの司会者として、ご本人を実際にお見かけする機会もあった。それから何年かして、『勇気一つを友にして』を歌っていたのが山田さんその人だということを知ったときには、本当に驚いたものだ。あの凛とした歌声と、ラジオでの穏やかな口調とが、頭の中でどうしても一致しなかったのである。

 それにしても、この絵のイカロスはあまりにみじめな姿だ。ここには“ロウでかためた鳥の羽根”など描かれてはいない。溺れてもがく人のように、海中から足だけがむなしく突き出している。しかもそれが、うっかりすると見過ごしてしまいそうなほどに、画面の隅のほうに小さく描かれているだけなのである。絵の中央には腕組みをして空を見上げている男がいるのに、イカロスの存在は眼に入らなかったらしい。海辺にはひとりの男が釣り糸を垂れているが、この男すらも眼の前で起こっている悲劇に気づいた様子はない(下図)。



 絵の題名を『イカロスの墜落のある風景』とした本も多くある。それほど、この絵の中でイカロスの占める位置は小さい。農民は黙々と畑を鋤き、海には帆船のマストが風にひるがえり、水平線の向こうには日が沈もうとしている。いつもどおりの一日が、いつもどおりに暮れようとしているだけなのである。

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 ブリューゲルの絵を日本で観る機会はめったにないが、ぼくは今から17年前に、京都の美術館で『干草の収穫』(上図、プラハ国立美術館蔵)を観た。

 ぼくはそのころ、故郷の福井を出て大阪でひとり暮らしをはじめたばかりだった。お金はなく、道はわからず、出かけようかどうしようか迷ったが、福井にいてはまずめぐり合えない西洋絵画の名作をひと目観たくて、行くことに決めた。京都に住むようになった今では2か月に一度は出かける国立近代美術館に、はじめて足を踏み入れたのがその展覧会だった。

 『干草の収穫』と対面したぼくは、これが本物のブリューゲルなのか、フランドル絵画とはこんなにすごいものなのか、と感じ入った。そのときの感激は、今でもちっとも色あせてはいない。それは油彩画とはいっても、普段からよく眼にするこってりした油絵とは全然別のものであった。草の葉一枚まで描かれた精密な細部と、地平線まで見わたせるような雄大なスケールとが、何の破綻もなくひとつに溶け合ったような絵はそれまで観たことがなく、まるで別世界に降り立ったような気分になったほどである。

 この絵でも、農民たちは黙々と働いている。馬に乗る者、頭上に載せた籠いっぱいに収穫物を入れて運ぶ者、画面の左には鎌を修繕するひとりの男。干草を収穫する人々のずっと向こうには ― 豆粒ほどの大きさだが ― 羊飼いがぽつんとたたずんでいるし、さらに遠くの家の前には何やら人だかりができている。皆がそれぞれ、自分たちの日常を一生懸命に生きている。他人のことに眼をくれる暇などない、といわんばかりだ。

 その中で唯一の例外が、前景を足並みそろえて歩きすぎる3人の娘たちの、真ん中のひとりである。彼女だけは、すれちがった馬がひいていく赤いみずみずしい果物のほうを振り返っているように見えるのだ(下図)。この絵の中で表情が判別できるのはその3人の娘だけだが、麦藁帽子をあみだにかぶった彼女の卵型の顔は、ひときわ愛らしい。一見すると労働のつらさにみちた農村風景の中に、彼女の存在が一抹の微風となって吹きそよぐようではあるまいか・・・。



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 “鉄の勇気”が頓挫し、まっさかさまに墜落したイカロスは、誰ひとりとして振り返らせることができなかった。彼は助けられることもなく、海の底へ沈んでいこうとするところである。

 今この瞬間にも地球のどこかで、勇気をもった若者が夢なかばで消え去ろうとしているかもしれない。しかし世の中の歯車は、そんなこととは関係なく、同じように回りつづける。現実とは、そんなものなのだ。

 ・・・こんなふうに考えていくと、400年以上前に描かれたこの絵の中に、21世紀の現代社会が二重写しになって見えてくるような気がする。イカロスの小さな姿が、ブリューゲルによって絵の隅に描きとめられたのは、今でいえば写真にたまたま写りこんでしまったというだけのことかもしれない。

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