てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

若冲さんの墓参り(5)

2007年10月25日 | 美術随想


 少々間があいてしまったが、墓参りのつづきを書いてみたいと思う。というのも、伊藤若冲の墓は京都にもう一か所あるからである。

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 今年の初夏、相国寺の境内にある承天閣(じょうてんかく)美術館というところで、若冲の『動植綵絵』全30幅が一堂に会したことは先にふれた。全国の美術ファンが待ち望んだ千載一遇の機会に、なぜこの小さな美術館が選ばれたかというと、この江戸絵画史上まれにみる豊潤な傑作群は、そもそもこの寺に寄進されたものだからだ。

 いやそれだけではなく、若冲は3幅からなる『釈迦三尊像』を同時に寄進してもいた。これらは33幅揃って、ひとまとまりの作品だったのだ。だが明治の世を迎え、寺に斜陽が射しはじめていたころ、『動植綵絵』を皇室に献上するのとひきかえに、いくばくかのお金をいただいたというわけである。よくいえば若冲は相国寺存続の恩人であるが、わるくいえば売り払われたようなものだ。現代でも大きな企業が傾くと、不動産と絵画を手放してその場をしのごうとするように・・・。

 だが皇室の所蔵になったのは『動植綵絵』の30幅だけで、『釈迦三尊像』は相国寺にとどまった。つまりこの未曾有の大連作は、古い都と現代の首都との間で、長らく生き別れになっていたわけだ。それが実に120年ぶりに『動植綵絵』が京都に里帰りすることで再会を果たし、33幅すべて揃った本来の姿で公開されたというわけである。それを見越してというか、願ってというか、美術館の展示室は33の掛軸が部屋のまわりにぐるりと展示できるように設計されていたというから驚きだ。

 だが、この展覧会に関してはこれ以上いうまい。前にも少し書いたが、その混雑たるや大変なもので、とても美術を鑑賞するなどという雰囲気ではなかった。

 最近はフェルメールなどの世界的名画が日本で公開されることが増え、美術館側も「いかに混雑を減らせるか」ということに意を砕いているらしいことが、展覧会場のレイアウトからも見てとれる(入場待ちのスペースを屋内に設け、退屈させないようビデオテープを流す等々)。

 しかし承天閣美術館は、33幅の連作をひと部屋に展示することを前もって想定してはいたが、あれだけ大量の人が押しかけるということは予想だにしなかったのだろう。まるでおしくらまんじゅうみたいに、ぎゅう詰めになりながら必死で絵の前に群がっている現代人のすさまじいエネルギーを見て、天国の若冲も苦笑したにちがいない。

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 ところで9月10日の石峰寺での若冲忌のあと、15日には相国寺でも「若冲居士忌」なるものが開かれるということを知った。もうひとつの若冲の墓は、この相国寺にあるのである。そのことは前から知っていて、例の展覧会を観たあとにも、ついでに ― といっては失礼だが ― 若冲の墓に詣でてみようと思っていた。しかし力尽きてしまい、果たせないままになっていたのだ。

 9月15日当日、ぼくが寺に着いたのは午後もかなり遅くなってからだった。若冲居士忌はもう終わってしまったらしく、寺はどこもかしこもひっそりとしていて、境内に何百人という人々が列を作って待っていたあの日と同じ場所だとはとても信じられない。見渡してみると、美術館自体はちっぽけだが、相国寺の敷地全体は実に広大である。おまけに土地が平らだからか、ますます広く感じられる。祇園からほど近い建仁寺もこんな感じだが、こちらのほうが広いかもしれない。

 それにしても、若冲の墓はどこにあるのだろう。ぼくはそれを調べてきていなかった。いや、だいたい寺に来れば墓の場所などすぐわかるものだ。・・・そう思ってうろうろ歩いてみたが、一向に見つからない。墓地はどちら、という看板すら出ていない。

 ふと、水上勉が直木賞を受けた小説『雁の寺』の舞台になったという塔頭の前に出たりした(このことは知らなかったので、びっくりした)。法堂(はっとう)の中からは“鳴き竜”に向かって手をたたく音が、ときどき思い出したように響いてきた。

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 南を向いた正門まで来ると、ようやく絵地図が掲げられているのを発見した(ぼくははじめ西門から入ってきたのだ)。それによると、細い目立たない道を曲がって突き当たったところに、集合墓地があるらしい。

 急いで行ってみると、誰もいない。さっきまで法要がおこなわれていたという形跡もない。広い敷地の中に、新しいものからかなり古そうなものまで、無数の墓石が黙々と立ち並んでいる。

 さて、若冲の墓石はどれか。見回してみても、それらしい表示も何も出ていない(石峰寺には、親切なことに案内板があったのだが)。仕方なく石に刻まれた名前を見ながら墓所内を一周したが、やはりない。場所を間違ったのだろうか? ほかにも墓地があるのだろうか? そのとき急いで墓地に入ってきた親子連れがいたので、ああこの人たちも若冲の墓に来たのかと思ってついていったら、自分たちの先祖の墓を水で洗ってさっさと帰っていった。

 この人たちが急いでいたのには、理由があるだろう。おそらく、墓地が閉まる時間が近づいているのである。ぼくは焦ったが、砂利の上を歩き回った足は疲れ、進退きわまって墓所の入口に立ちすくんでしまった。ふと気がつくと、こちらに背を向けて立っている古い墓がある。あっと思ってその墓の正面に回ると、若冲の名前がそこにあった。

 何の変哲もない四角い石に、やはり「斗米菴若沖居士墓」と刻まれている(ここでも、さんずいである)。そして意外なことに、隣には足利義政、さらにその隣には藤原定家の墓もあり、時代の異なる3人の名士がなぜか仲むつまじく並んでいた。石塔のかたちをした他のふたりに比べ、四角いだけの若冲の墓は平凡で地味だった。彼は異端の画家だとか何だとか、まるで変人みたいにいわれているが、実際にはごく慎ましいひとりの信徒だったのではないか、と思われた。

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 ぼんやりしていると、墓地が閉まってしまいそうである(本当はどうなるのかわからないが、万一閉じ込められでもしたら大変だ)。墓参りの帰りとは思えないくらいに、ぼくはせかせかと急ぎ足で外へ出た。広い境内の中を、バイクに乗ったおじさんが夕刊を配りながら走っていた。これにもまた、しこたま驚いた。

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