てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

装丁の鬼たち(4)

2011年09月16日 | その他の随想

庄野潤三『夕べの雲』(講談社文芸文庫、カバー:菊地信義)

 装丁には絵やイラストのほかに、作品名や作者名などの文字も欠かすことができない要素である。文字をデザイン化するセンスがずば抜けているというだけでなく、ほとんど文字だけで勝負をしている人も少なくない。菊地信義が、その代表的なひとりだと思う。

 彼は講談社文芸文庫が創刊されて以来、すべてのカバーを担当している。いったい何百冊になるか見当もつかないが、そのフォーマットは一貫していて、色のグラデーションのうえにタイトルの文字が絶妙に配置される。たとえば『夕べの雲』は、まさに夕暮れ近くの空のようなピンク色に、夕日の最後の輝きを浴びて光る雲のような金色の文字がたなびいている。絵を使わないで「夕べの雲」を視覚化すると、このようにできるという見本である。

 ただ、ちょっと心配なこともある。『夕べの雲』が出版されたころの文芸文庫は、文字の部分は箔押しというのかエンボス加工というのか、さわると凹凸があった。シンプルなデザインのわりには、非常にお金と手間をかけていたのだろう。けれども最近出版されるものは、金文字や銀文字が使われていても平らで、のっぺりしている。おまけに紙が薄くなったのか、グラデーションを通して本体の表紙の波の模様が透けて見えてしまう。

 純文学だけを集めた文庫など、最初からそれほど売れるはずはないとわかっているはずだが ― 通勤路の途中にある書店には文芸文庫を並べた棚が置いてあるが、その8割がまるで古本のように色あせてしまっているほどだ ― だからこそ上質な装丁を施して、失われた“文学”の存在感を取り戻そうとしたのかもしれない。けれども最近の出版不況の影響か、“文庫の良心”とでも呼びたい講談社文芸文庫にも、コスト削減の波が押し寄せていることは確実である。

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水上勉『五番町夕霧楼』(新潮文庫、カバー:篠田桃紅)

 最近、書家がテレビで活躍する機会が増えてきた。昨年の大河ドラマの題字を担当して注目を浴びた紫舟(ししゅう)という人は、「美の壺」のオープニングに出演しているほどである。

 その人の大先輩ともいえるのが、篠田桃紅(とうこう)だ。いや、彼女は書家にとどまらず、墨を使った多彩な表現をおこなってきた。今はもう100歳近いので表舞台に登場することはないが、かなり以前にインタビューの番組で拝見したときには、渋い着物に身を包んだ凛とした佇まいに衝撃を受けたものだ。そしてそのか細い指に握られた筆先から、大胆な文字や抽象表現が次々と繰り出されるのには、息をのむ思いがした。

 映画監督の篠田正浩は彼女のいとこである。水上作品を手がけたことのある監督が縁を取り持ち、この装丁の仕事が実現したのではないかと想像したくもなるが、仕上がったものを見ると、鬼気迫る気配すら感じてしまう。中央の書き文字はもちろんだが、その周囲を取り巻く墨の線のスピード感、余白を際立たせる丸い点など、ごくごく少ない要素が巧みに配分された完成度にうならされる。

 最近の、ややタレント化した書家の皆さんは、こういったストイックな作品を見習ってほしいものだ。大勢のグループで巨大な書をしたためるイベントがあるが、それとは対極といえるような、孤絶感が眼に刺さる。

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ドウス昌代『イサム・ノグチ 宿命の越境者(上)』(講談社文庫、カバー:平野甲賀)

 平野甲賀も、特徴的な書体の文字を操る名人だ。ずいぶん前に、ある人から椎名誠の本を紹介されたとき、その装丁者としてはじめて名前を知った。ただぼくは椎名誠の愛読者ではないので、家にあるのは上記の『イサム・ノグチ』ぐらいである。ただ、書店ではいくらでも彼のデザインに出くわすことができるだろう。

 カバー右端の「イサム・ノグチ」という字が、デザイナーの長友啓典いわく“甲賀流”の書体だ。何となく不器用な感じに見え、ぼくは紙を切り抜いて貼り付けているのだろうと思い込んでいたが、実はデジタルだという。長友氏によれば、「平野さんほどコンピュータを使いこなしている人は業界でも少ないと思う」とのこと。

 既存の書体をアレンジするか、コンピュータを操るか、自分で書くか。装丁の文字の世界も、なかなか奥が深い。

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