てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

地下に咲く花 ― 須田悦弘について(2)

2006年09月17日 | 美術随想
 その展覧会は、ひとり須田悦弘のみではなく、全部で3人の現役作家の近作が展示されていた。なかでも須田作品にあてられたスペースは最も小さく、点数もわずか数点のみで、ちょっと残念だった。ぼくは大山崎での展覧会と同様に、彼の雑草なり花なりが他の作品の間にまぎれてひっそりと“生えて”いるのを期待していたようである。

 いざ彼の展示スペースに行ってみると、そこにはまるで劇場の舞台裏にある書割の裏側みたいな木の壁が天井近くまで聳えていて驚かされた。とまどっていると、スタッフのひとりに声をかけられ、木で囲われた狭い入り口から中へ入るようにといわれた。そこは細い通路のようになっていて、その突き当たりに須田の作品があるのである。ただし入るときはひとりずつ、作品に1メートル以上近づくとブザーが鳴るから気をつけて、などと注文が多い。そういわれれば、先ほどから奇妙な電子音がときどき聞こえていたのはこれだったのだ。

   *

 余談だが、ぼくはこういう“体験型”の作品があまり好きではない。鑑賞に際して、どうしてもある種の制限がともなうからである。以前、草間彌生の大規模な展覧会に行ったおりにも ― ほとんど最終日近くに行ったのがいけなかったのだが ― 個室にひとりずつ入らなければならない作品があり、入り口の前には長蛇の列が順番待ちをしていて、観るのをあきらめたことがあった。

 瀬戸内海の直島にある内藤礼の『きんざ』という作品は、入場はひとりずつ、制限時間は15分と決められているため、鑑賞に予約が必要であるという。15分というのは、ひとつの作品にかける時間としてはいかにも長いが、美術好きとしては、気に入った作品の前にはいつまででも立っていたいものだ。もちろん15分もつづけて立っていることはほとんどないが、他の作品を観ている途中でまた戻ってきたり、会場を出る前にもう一度“見おさめ”をするために戻ってきたり、気がすむまで観ていたいものなのである。

 作品と一対一で対峙することは、いわば自分自身と作品とを秤にかけることで、目だけで観ているよりははるかに切実な“体験”として鑑賞者の記憶に刻まれるだろうことは理解できる。作者の意図もそのあたりにあるのではないかと思うが、逆説的なことをいえば、他者から隔離されてひとりで作品の前にいる間も、自分の番がくるのを待っている後続の人たちのことが、ぼくには気になって仕方がない。これは単に、ぼくが必要以上にシャイだというだけの問題かもしれないが・・・。

   *

 ともあれ、いわれたとおりにひとりで通路の中に入っていった。通路は全部で3本あって、白っぽく塗られた突き当たりの壁には、泰山木やバラなどがひと茎ずつかかっている。ぼくたちは一対一で、花と向かい合うのである。こんなことは、人生でそう何度もあることではないだろう。

 本物そっくりに作られた見事な花を ― 1メートル以上近づかないように気をつけながら ― 眺めているうち、ぼくはいったい何をどう鑑賞したらいいのか、正直なところよくわからなくなってきていた。純粋に花の美しさに酔えばいいのか、そうではなくて、それを巧みに再現した作者の技量に感嘆したらいいのか・・・。結局ぼくを最後に支配したのは、どうやら羞恥心に近い感覚だった。それは誰かと目を見つめ合ったときなどに感じる“照れ”によく似ていた。

 大山崎とはあまりにもちがうこの展示方法は、もちろん作者の意図が反映されたものなのだろう。ぼくは昔NHKのテレビで、須田悦弘のデビュー作である『銀座雑草論』という作品を観たことがある。まるで夜鳴きそば屋のようにリヤカーを引きながら現れた須田は ― そのときの須田自身が多少“照れ”ていたような気もするが ― 荷台の入り口を開けてカメラを導き入れた。内部には一面に金箔が貼られており、その突き当たりの壁にたったひと茎、なんとかいう長い名前の雑草が、まるで床の間の一輪挿しのようにかけられている。ほかには何もない。

 この作品の下地には、豊臣秀吉と千利休のエピソードがあるという。かいつまんでいうと、つまりこういうことだ。利休の庭に朝顔が咲き乱れているという話を聞き、秀吉が急いで利休の屋敷に駆けつけてみると、花は残らず摘まれてしまって一輪もない。これはどういうことかと詰め寄る秀吉を、利休は茶室に請じ入れる。そこには、床の間にたった一輪だけ、見事な朝顔が生けられてあった・・・。

 そのとき秀吉は、一輪の朝顔の美しさに感服したと伝えられている。しかし、もしもこのぼくが秀吉の立場だったらどうだろう。「朝顔はどこじゃ、どこへやった」などとわめき散らしたあとに、美の結晶ともいえるたったひとつの朝顔と向き合うはめになったとき、ぼくだったらひとたまりもなく“照れ”てしまうだろうと思うのである。それは客観的に眺めていられるような、“見せ物”としての美ではない。反対に、朝顔から“見られている”かのようにすら感じてしまうのではないだろうか? そして、さっきまでの乱行ぶりを深く恥じ入ることになったのではなかろうか? 美と対峙するということは、決してなまやさしいことではないのだ。

   *

 展示室を出て、上の階へのエスカレーターに乗っていると、かたわらの柱の上のほうに、鮮やかなチューリップを見つけた。アスファルトから生えた大根というのは聞いたことがあるが、こんなところにチューリップが咲くはずもなく、これももちろん須田悦弘の作品なのである。ここにチューリップがあることは、最初にもらった地図にもこっそり書かれているのだが、場所は明記されておらず、気づかずに帰ってしまう人もいることだろう。ぼくは大山崎で地図を片手に作品を探し歩いたときの、童心に返ったようなうきうきした感じを思い出した。

 それにしても、須田のあまりにもデリケートな作品は、扱いが難しいにちがいない。先ほどのブザー音などは、作品を保護するための苦肉の策であって、本当はないに越したことはないのである。しかし須田自身が、作品が永久に保存されることを望んでいるとも思われない。利休の故事にかこつけるわけではないが、朝顔はすぐにしぼむのである。そういうものなのだ。

 このチューリップは、展覧会の終了とともに撤去されてしまうだろうが、もしこのままでいつまでも展示されつづけていたらおもしろいだろう、とぼくは考えた。木を薄く削いで作られたチューリップは、おそらく数十年後には色あせ、まるで本物の花が散るときみたいに、花びらがちぎれて舞い落ちるかもしれない。そうなったときには、また新しい美の瞬間が繰り広げられるのではあるまいか、などと思ってもみるのである。


DATA:
 「水の流れ、水の重なり ~Settled Waters~ 須田悦弘展」
 2002年6月4日~9月1日
 アサヒビール大山崎山荘美術館

 「三つの個展:伊藤存×今村源×須田悦弘」
 2006年6月27日~9月18日
 国立国際美術館

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