てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

多面体イサム・ノグチ(1)

2006年09月19日 | 美術随想
 2年ほど前、ある職場を退職するときに、ごく親しい人たちがささやかな送別会を開いてくれたことがあった。会社の近所の焼鳥屋で ― ぼくは人付き合いが悪いので、普段は決してそういう場所には行かないのだが ― しばらく飲み食いしているうちに、誰からともなくイサム・ノグチの名前が出た。それは明らかに飲み会には似つかわしくない話題だと思われたが、なぜか皆はノグチのことをよく知っていて、話はそれからそれへとつづき、「ノグチの作品を観てみたい」「ノグチの美術館に行ってみたい」という声まで上がったのには驚いた。

 ぼくはそのときちょうど、大竹昭子の『個人美術館への旅』(文春新書)という本を読んでいて、その中にイサム・ノグチ庭園美術館のことが書かれていた。鞄からその本を取り出して皆で回し読みしているうち、何となく「一緒に行こうじゃないか」「一泊すればじゅうぶん観られるだろう」「じゃあ来年あたりに」などと、話がとんとん拍子に決まってしまったのである。どうせ酒の席での約束事なので、ひとりだけ素面だったぼくは適当に聞き流していたけれど・・・。

 その後、あのときの連中と連絡を取り合うこともなく、いまだに“一泊旅行”は実現していない。しかし美術サークルの打ち上げならともかく、ごく普通のメンバーが集まった席で、まるで皆の共通のキーワードのようにしてイサム・ノグチが語られたということが、ぼくには強く印象に残ったのである。思えばそのときはノグチの生誕100年にあたる年で、テレビや雑誌などでノグチのことが頻繁に取り上げられはじめた時期だったかもしれない。設計図は書かれたものの生前には未着手のまま遺された札幌の『モエレ沼公園』が完成に近づいているということも、注目を集めていたようだった。いわば、イサム・ノグチブームが巻き起こりつつあったのである。

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 そしてそのブームは、今や頂点に達した感がある。少し大きい本屋に行けば、おびただしいノグチ関連の本が平積みにされていて、なかにはJ-POP界を代表する“歌姫”が彼の美術館を訪ねた、などという記事があるほどだ。本屋にいると財布の紐がつい緩んでしまうぼくの家にも、その中の何冊かがちゃんとある。

 しかしいざ読みはじめてみると、何かちがうな、と思ってしまう。これはイサム・ノグチに限らず、その他のあらゆることにいえるのだが、ぼくはブームに対して、ある種の警戒心をいだくのが常である。例えばイサム・ノグチが流行っている、と聞くと、彼はそれほど万人に受け入れられやすい作家だろうか、と首をかしげてしまうのだ。

 これには、ぼく自身の体験が影を落としている。1992年の京都で、ノグチの没後初の回顧展を観た。そのときがぼくにとって、おそらくノグチの作品に対面する初めての機会だったろう。生前から名前は知っていたものの、それはせいぜい『あかり』の作者としてぐらいで、ほとんど何の予備知識もないまま、展覧会に臨んだのである。

 そのときは知人とふたりで出かけたのだが、観終わったあとに「イサム・ノグチは難しい」ということで意見が一致したものだった。今から思えば、彼の前衛作家としての側面が強く打ち出された展覧会だったのかもしれないが、当時の図録も絵はがきも残っていないので確かなことはわからない。ただひとつだけいえることは、10年ほどのちにノグチがこれほど人口に膾炙するようになろうとは、夢にも思わなかったということだ。

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 数か月前に、民放のニュースバラエティーのような番組でイサム・ノグチが取り上げられることを知り、普段は見ないその番組にチャンネルを合わせてみた。司会をしているアイドルグループのメンバーのひとりが、「今日はぼくの大好きなデザイナー、イサム・ノグチの特集です」などといっているのを見て、なるほどそういうことか、と思った。確かに彼はデザインの仕事もしたし、例の『あかり』はそれの最も有名なものかもしれないが、ぼくはイサム・ノグチを“デザイナー”としてとらえたことはなかったのである。

 番組の中では、デザインだけにとどまらないノグチの広範な活動ぶりがきちんと紹介されていたけれども、やはり彼は“デザイナー”として一般に広く受け入れられているという事実はあるのであろう。だが彼自身は、自分のことをあくまでも“彫刻家”と呼んでいるそうだし、ぼくもそうだと思う。“デザイナー”としてのノグチは、彼が世間と手を結ぶときの最もとっつきやすい姿であって、その裏側には芸術家としての ― あるいは日米の血筋を一身に受け継いだひとりの人間としての ― はかりしれない苦悩が横たわっているはずである。

 ぼくはしばらく前から、イサム・ノグチのことを書きたいと思ってきた。そのために、雑誌だけでなく専門家によって書かれた研究書や評伝のようなものもいくつか読んだ(世評の高いドウス昌代氏の著作は、長すぎてまだ手をつけていないけれども)。しかし読めば読むほど、その人物像のあまりの巨大さに悲鳴を上げたくなったものだ。何しろ作品の規模が大きく、しかもそれは世界中に散らばっていて、容易に観ることはできないのである(一泊旅行ですめば、まだいいほうだ)。

 いったいどうやって、イサム・ノグチにアプローチしていけばいいのだろうか? ちょうどそんなことを考えているときに、滋賀で彼の展覧会が開催された。結論からいうと、それはノグチの創作活動のごくごく一部を垣間見るにすぎない内容だったけれども、そこには雑誌の特集記事などからはこぼれ落ちることの多い、彫刻家としての地道な歩みが刻印されていたように思う。

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 イサム・ノグチ・・・とてもその全容はつかみきれない。せいぜいこの目で観た作品から出発することしか、ぼくにはできそうもない。まずはそこから始めてみよう、とぼくは考えた。

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