藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」     絶滅危惧種「社民党」

2013-06-30 13:47:37 | インポート

003 午前五時東の空は朝焼けである。 今日こそ良い天気になってくれると思いきや、午前中はずっと曇りである。 

自ずと私の体は悲鳴を上げている。 呼吸は三度に一度は深呼吸。 絶滅寸前である。 

絶滅といえば、「社民党」も又、絶滅寸前である。 「絶滅危惧種」と言っても良いくらいである。 「護憲」 「脱原発」をずっと言い続けてきたが、今ひとつどこか「魅力」にかける。 それが何かは私には解らないが、嘗ての「社会党」の時代と違い、どこか国民に擦り寄っているように感じてならない。 孤高の美しさがなくなったように思う。 要するに「がむしゃら」な所が無くなったように感じてならない。 

「がむしゃら」=「純粋」 どこか一部が隠れているのではなかろうか。 近年「社民党」の 「髪振り乱し、必死の形相」の選挙を見たことが無い。 ここは一度、「労働運動」の原点に立ち返り、がむしゃらな選挙を見てみたいものである。

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深山 霞の「霞的心」    今では違法行為でしょう。

2013-06-23 13:49:14 | インポート

Photo 鬼灯の花を数十年ぶりに見た。 二十五歳まで過ごした家には、鬼灯が植えてあったのだが、駆け落ち結婚してからは鬼灯など何故だか植えることがなかった。 

一ヶ月ほど前に、駐車場として貸している以前の自宅敷地の除草に出かけた奥様が、放置された鉢を持ち帰った。 そこに植えられていたのは、鬼灯であった。 

我が奥様は、よく山野草や友人から苗木など頂いてくるが、その後の管理はなさらない。 全て「じいや」の私の仕事になってしまう。 どうも末っ子の特権のように思っているところがある。

昨夜の夕食時に、亡くなった妻の両親の話になった。 妻の兄が高等学校に進学し、下宿してからは三人での生活になったそうである。 夕食時にお父さんが、飲めもしないビールをお母さんと飲んだ時は、大瓶半分が残ってしまい残りのビールを、我が奥様が飲まされていたそうである。 中学時代は、毎晩晩酌付きで有った様である。 

話を聞きながら、そういえば奥様と付き合い始めたのは、奥様が十九歳に成ったばかりの時であったが、お酒がめっぽう強くてびっくりしたことを思い出した。 奥様は中学時代からお酒を鍛えていたのだった。 未成年の飲酒は禁止のはずである。 ・・・・・。

ご両親は、三人の子供が巣立っていく過程で、寂しさを感じながらお酒で話題を作り、そばに置いておきたかったのだろうと勝手に想像していた。

広島では、「末っ子を嫁にもらうと苦労する」とよく言われる。 苦労したとは思わないが、時々とんでのない質問にびっくりすることはある。 それに、何でも興味を示すが長続きしない。 未だに続いているのは、「読書」くらいである。 時々、トイレの中に「本」が落ちていたりする。 本人は真面目にその本を探しているから面白い。と、そんなことを我がブログに書くと、時々クレームがつく。 「私のことは書かないで」と抗議されるが、粗忽長屋のような我が家のことを書かずして、世間のことは書く事はできない。

これ以上個人情報を流すと、また奥様からまた抗議が来そうである。 今夜あたり「クワバラクワバラ」。

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深山 霞の「霞的心」   今年初めてのお目もじ

2013-06-03 16:45:50 | インポート

001 今年初めてのタテハチョウの訪問である。例年ならば、この時期には「深山スミレ」の葉は、タテハチョウの幼虫で食い尽くされているが、今年は青々と茂っていた。

始めての来蝶者が、「豹紋タテハ」とは珍しい。 この近辺ではあまり見かけない種である。

008 見事な「豹柄」を見せてくれた。

「豹柄」の着衣は「大阪人」が好むという事を聞いたことがあるが、本当であろうか。

「明石家さんま」さんにでも、一度聞いてみたいものである。

ところで我が家の「茜」奥様が、昨晩から「広島復興平和博覧会」の事を、根掘り葉掘り聞いてくる。

その博覧会は、どうも頂いた本の中に書かれていたらしく、それが昭和三十三年の五月から8月末まで、平和公園と、広島城跡地を中心に開かれたのを、自分も見た記憶があると言う。 しかし、その時期が自分の記憶と一致しないらしい。 その年に「広島城」がコンクリートで再建され、平和公園や、本道り商店街等で幾つかのイベントが開かれた。 

その年の四月に私が、私立の中学校に進学した年なので、記憶が鮮明である。 加えて、この年から「神楽」の題目の中に、天皇家を題材にした物が復活し始めた。 例えば、「天岩戸」等の題目である。 長く進駐軍に封印されていた題目だ。 「傷痍軍人」が、未だ街角でアコーデオンを弾きながら軍歌を歌い幾ばくかのお金を受け取っていた時代の事である。 「救世軍」の「社会鍋」の活動も活発に行われていた。

そもそも我が妻「茜」様の記憶では、誰に連れられて「広島」に来たのかさえ、記憶にないらしい。 どうも子供の頃の記憶が少ないのに、本人は少しショックを受けているようである。 平和な家庭で何事もなく育てば、あまり記憶すべき事項などないのが当たり前である。 私の過ごした幼少期は波乱万丈、進駐軍と暴力団との「市街戦さながらの銃撃戦」や、「一家心中事件」など忘れようとしても忘れられない事件が多すぎただけである。 鉄道自殺など日常茶飯事であった。 

「仁義なき戦い」が開幕する直前であった。いや既に始まっていたように記憶している。

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深山 霞の「霞的心」  おや!コース変更なの。

2013-03-08 14:22:35 | インポート

オスプッレーが、岩国基地に帰ってきた。 夜間飛行訓練だそうである。 沖縄に行ったオスプレーが、わざわざ岩国にご帰還してまでする訓練とは、如何なるものか知りたいものである。 

当初ブラックルートと呼ばれる、ルートでの訓練であろうと予想されたが、そうではないそうである。 なーるほど。 「ブラックルート」と呼ばれるルートは、住民の反対運動が功を奏し、騒音測定器が昨年末から今年の二月中に配置された。 地方自治体が、騒音の実数値を計り、それを元に低空飛行訓練の反対運動をしようと始めたのだ。 不思議と、山口県、島根県、広島県の低空飛行被害地区が共同歩調を取る結果となった。

米軍もこれには参ったようである。 70ホーンを超える騒音を立てながら行われる低空飛行訓練は、授業中の小学生が驚いて机の下に潜り込むそうである。 一昨日、「北広島町」の町議会選挙の応援に出かけて、訓練空域の先生たちの生の声を聞きびっくりした。 特に東北震災以後、子供たちは音や揺れに敏感になり、落ち着きが亡くなったそうである。 しかし、一月に騒音測定器が設置されてから、米軍機の高度が高くなって、少し騒音が減ったそうだ。

さすがの米軍も、騒音測定器なる「具体的計測器」には抵抗しづらいようである。 変わって今回の訓練空域は、宮崎県、大分県、熊本県中心のイエロールートになったそうであるが、昨夜になりはたまた変更になったそうである。

再変更後のルートは四国縦断ルートであり、なぜ変更されたのか不思議に思い、色々つてを頼りに聞き合わせて見ると、九州の三県出身国会議員が、総理に直談判したようだ。 この九州三県は、乳牛の飼育が盛んで、過去にも米軍の低空飛行訓練で、乳牛の出が悪くなり農家からの苦情が国会議員に殺到したそうである。 さもありなん。 背に腹は代えられぬ。 国会議員は票には代えられぬ。 このような時は、国会議員はよく働く。 そうなるとルート変更された四国に、被害がなければ良いのだが。 「カラス」がぶっつかってもすぐ落ちるオスプレーのことだ。 石鎚山に激突・・・・・なんてないでしょうかねー。

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深山 霞の「霞的心」  「愛と死の記録」の背景に見えるもの

2013-02-12 19:57:18 | インポート

和恵と幸雄が最初に会話を交わす場所は、「荒神橋」という。 路面電車がこの橋の上を走っている。この橋は八月六日の日、まさしく神が荒ぶり、多くの被爆者が渡っり逃げ惑った橋である。地獄から逃げ出すために。 二人の背景には、牡蠣ぶねが見える。その向こうに、丸に十の字の看板をつけたビルが見える。 この会社は嘗ては陸軍の軍服を扱い、富を築き戦後は警察予備隊の制服でのし上がった会社である。今は傘下にスーパーを持つ。

 和恵が勤めていた「十字屋楽器店」は二店舗あって、駅前店が「的場」 本道り店が本道り商店街に有った。

 画面に出てくるお客さんの女学生は、胸の校章から察するに当時、「広島女子商業高等学校」と呼ばれた学校の生徒さん達である。 この学校の生徒たちが中心に、「折り鶴の会」が結成され、原爆の子の像は当時常に清掃され、八月六日の式典を行っていた。

二組のカップルがオートバイでドライブする場面は、かつて広島から「軍港呉」へ物資を輸送したルートである。その為に建設された国道31号線と、国鉄「呉線」は並行して走り、背景は能美島である。隣接する島が海軍兵学校がある江田島である。昭和41年当時は、江田島には陸からは行けなかった。早鞆ノ瀬戸に橋が架かったのは昭和50年代である。軍港「呉」を過ぎ、音戸の瀬戸を跨ぐ橋を渡り、倉橋島のドライブ先の海岸に腰を下ろし、和恵と幸雄が会話する。

「わし小さい頃船に乗った記憶がある」と幸雄が語る。 原爆孤児の、収容先は当時三ヶ所あった。広島駅裏にあった、「広島修道院」、広島城の堀端の「新生学園」、瀬戸内海に浮かぶ「似島学園」の三ヶ所である。

思うにいたいけな少年幸雄は、「似島学園」に収容されたのであろう。今日では「宇品港」から学園の専用船が運行されている。原爆孤児は6500人にのぼり、内2000人が、これらの施設に収容されていた。がしかし、窮屈な施設暮らしを嫌って、脱走を繰り返したそうだ。

二人の背景の海の沖を、嘗て「戦艦大和」が特攻出撃していったのだ。

「愛と死の記録」の映画は、このように一場面一場面が「戦争と原爆」の事実の上に描かれていることに驚かされる。

幸雄のモデルが実在した事はあまり知られていない。 「中本総合印刷」にその青年は実在したのだ。 二十三歳で他界した実在の人物と、昭和37年の新聞記事のあと追い自殺がこの映画の背骨として存在する。

昭和37年広島大学病院のベットで、中国新聞の記事であと追い自殺の記事を読んだ翌年、昭和38年9月、検査入院をした。その時のことを思い出したのでここに記しておく。

一人の女性が救急車で運ばれてきた。 農薬による「自殺」であった。この女性もあと追い自殺であった事をお思い出した。 そしてまた、この事件と前後して、一人の被爆者が、屋上から飛び降り自殺した。 窓の外を何か白いものが落ちていった。 自殺であった。 その夜、自殺した被爆者を追って、一人の女性が大学病院内の庭木に首をつり後追い自殺した。

 この一ヶ月は私にとって不思議な一ヶ月であった。

女性から初めて交際を申し込まれたのもこの月であった。 

この月がきっかけで本を読み始め、出張先での夜は本ばかり読んでいた。月に十冊は読んだ記憶がある。部屋の床が、本の重みで抜けたのは、昭和42年だ。より分けて古本屋に売ったら、当時の金額で一万円を超えていた。そのお金は一晩で呑み代に消えた。散財したものである。

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