TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

旧長崎街道 ~ 大村街道(歴史の道百選)

2014年11月30日 | 街道
同窓会(OB会?)の案内をいただいたとき、「オルレ」という言葉に衝撃を受けました。
「オルレ」って何だろう?知らなかったので、さっそく調べました。

「『オルレ』は韓国・済州島から始まったもので、もともとは済州島の方言で『通りから家に通じる狭い路地』という意味。自然豊かな済州島で、トレッキングする人が徐々に増え、『オルレ』はトレッキングコースの総称として呼ばれるようになった」とのこと。(「九州旅ネット 九州観光情報サイト」引用)

さらに、「済州島と同じように九州には四季の美しい風景があり、トレッキングに適した山岳を五感で感じ九州の魅力を再発見してもらいたい。そのような思いで、九州オレルのコースを整備しました」とあります。

実際に歩いた九州オルレ・久住・やまなみコースは、自然を堪能できるすばらしいコースでした。でも待てよ、このオルレのように、身近な美しい自然を広く紹介する取り組みは、「九州自然歩道」をはじめ、これまでもいろいろとあったはずです。いま、新たに「オルレ」がはやりだしたのは、「冬ソナ」や「Kポップ」等の韓流ブームが背景にあるのではないでしょうか。もっとも「九州自然歩道」が整備されたのは30年以上も前で、最近は利用者も少なく荒れているコースもありますので、トレッキングコースの世代交代なのかもしれません。ただ、コースの名称は変わっても、そこには昔から変わらない美しい自然があります。

さて今回は、トレッキングコースと言ってもいいような昔からある「道」で、「旧長崎街道」についてです。中でも、「大村街道」と呼ばれる諫早市の破籠井(わりごい)から大村市との境までの山間部の道は昔の面影をそのまま残し、「歴史の道百選」にも選ばれれています。











どうですか、時代劇のロケに使えそうなすてきな山道でしょう。でも当時は長崎と小倉を結ぶ重要な道でした。今で言う国道です、しかも超一級の!
鎖国の時代は長崎にのみ西洋の進んだ文明が入ってきていました。それを学んだ各藩の若き英才達は、この長崎街道を胸ときめかせながら歩いたに違いありません。明治になって本明川沿いに鉄道や国道が開発され、そちらが人や物の移動の中心になったため、この「大村街道」はタイムスリップしたかのように、昔のままの姿を現在に残しています。


諫早領と大村領の境の「日野峠」です(今の国道34号線では「鈴田峠」と言います)。写真の大きな石が藩境石で、「弁慶の足形石」とか「鬼の足形石」とも呼ばれています。

この峠付近は黄葉していました。


杉林の中を道は鈴田へと続きます。道の脇には「旧長崎街道」の案内標識が立ててありました。



= おまけの画像 =


「どんばら石」 「どんばら」はこちらの方言で大きなお腹のこと。

このようにならないように節制しなければ…



残念な破籠… 上の「どんばら石」の近くに捨ててありました。


この大村街道の諫早側の地名が「破籠井(わりごい)」です。長崎街道を旅する人が昼食をとったことに由来するそうです。「破籠(わりご)」は古語で、檜の薄い白木で作った弁当箱のことです。昔の弁当箱は捨てても(当時の人が捨てていたかどうかは分かりませんが)自然に還りますが、現代のコンビニ弁当の容器は自然には還りません。「九州オルレ」の歩き方のマナーの中にも「ゴミは持ち帰りましょう」なんて一文が書いてありましたが、アウトドアの常識というより、世の中の常識ですね。


「大渡野番所跡」 出入国を取り締まった役所の跡



今回、この旧長崎街道を歩いたのは4時を回っていました。陽が傾きかけ日没との勝負でしたが、当時の旅人も多くはそんな状況ではなかったかなと想像しました。長崎を発って諫早で宿をとれば余裕の旅ですが、長崎で学んだことを、いち早く藩に報告しなければとの思いから、急ぎ足で大村宿を目指したのではなかったでしょうか。いろんなことに思いを馳せながら歴史の道を歩いてみました。

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