2月9日
島原に通じる方の島原街道を、今度こそ愛野を目指して出発しました。
回りくどい言い回しになったのは、諫早に通じる島原街道は2つあるからです。
(図書出版のぶ工房「長崎街道3 肥前長崎路と浜道・多良海道」に掲載の地図を一部加工)
地図の右側のルートがそれで、実際に歩いた軌跡は下の通りです。
愛野まで歩くつもりがとんでもないことになり、なんともへんてこりんな軌跡を描いて諫早に舞い戻っています。そのことについては本文の中で綴っていきます。
島原街道の合流地点を南下するのですが、半造川を渡ったすぐの丘が林の辻(りんのつじ)の古戦場跡です。
坂の右側に「陣の辻古戦場跡碑」が建っています。
伊佐早を治めていた西郷氏が、攻め入ってきた龍造寺氏と最後の決戦を挑んだ場所なので「陣の辻」(じんのつじ)ともいいます。
小栗小学校横を通り住宅地を登っていくと道は一変します。
今回は自分で計画した街道歩きなので、案内してくれる先生はいません。おまけに、このルートには指導標が途中まったくありません。長崎街道や多良海道には行く先々に指導標があったのですが島原街道は歩く人がほとんどいないマイナーな道だと実感しました。
昔の面影を残した雰囲気のいい道です(この辺は)。
倒木が増え、少しずつ道が荒れてきました。
この道は荒れているとは聞いていましたが、私は山歩きを趣味とする元ワンダラーですから、これくらいの悪路はなんてことありません。
ただ、つれ合いは「本当にこの道であっているの?」と不安がっていました。
そうこうしていたら見えました。
これが島原街道であること確定の「一理松跡」の石柱です。
尾根筋に沿ってさらに南下します。
こんなものもありました。
罠にかかったイノシシが私たちを見てさらに興奮し、何度も柵に体当たりをしました。
この辺りのも畑があります。
イノシシの被害があるのでしょう。
木々の間から遠く島原の山が見えています。当時の旅人も望郷の念にかられたはずです。
途中、木が伐採された所を通過
道がコンクリート道に変わりました。
右手に何やら建っています。
「二位尼の碑」の石柱でした。
でも、二位尼の碑の本物はこれです。
二位の尼は平清盛の妻時子のことで、壇ノ浦の合戦の折に安徳天皇を抱いて海に身を投じたといわれる人ですが、落ちのびてこの地で亡くなったという伝説があります。さらにこの先に「安徳天」と刻まれた石碑も残っています。
雲仙のお山
「安徳天」の石柱がありました。
その碑は道から少し登った静かな山の中に建てられていました。
碑が建っている山から来た道を振り返ると
旧島原街道は別名を「殿さん道」とか「殿様道路」といいます。島原のお殿様が参勤交代や長崎監視の折に通っていた道だからです。昭和の初め頃まではこの道は往来に利用されていたそうです。
道の脇の石仏
お花が供えられていました。
今も地元の方が祀っておられるのでしょう。
山道を抜けました。
有喜追分に到着。
ここは島原街道と有喜街道の分岐・合流地点です。籠立場跡でもあり格好の休憩地点だったようです。
山道を抜けたので後は楽勝だと思っていました。
道は平坦になりルンルンです。
橘湾も見えるし
雲仙のお山も見えるし
ところがです
好事魔多し!
歩きやすいと思っていた道が激変しました。
太陽を遮る木がなく日当たりも良好のこの道は、バカ(くっつき虫、植物の種子)が群れをなして行く手に立ちはだかるのでした。
しばらくは我慢していきましたが、半端ないバカの数です。
どうする家康!
全身バカまみれになって進むか、勇気ある撤退をするか。
連れとも相談し、ここは引き返して迂回することにしました。
これまで、藪こきや雪道のラッセルの経験はあるのですが、どこまで続くか分からないバカの道に負けてしまいました。
この後、予定にはなかった有喜街道を下ることに。
宇木城跡
そして大きく迂回し、島原街道の続きに出ました。冒頭の変な軌跡はそういうことです。
再掲
悔しかったので、迂回した後、逆方向から引き返した地点の確認に向かうことにしました。
逆方向から攻める。いいぞ。
攻める。
攻める…
またもやバカの群生に進路を阻まれ、無念の断念。
赤の矢印部分がバカの群生に行く手を阻まれた部分です。距離にして約150m。
黄色が迂回した道です。
青い矢印は、愛野に通じる島原街道の続きでした。
引き返す
逆コースの入り口(本来の街道の出口)に到着
黄色の矢印の道を行けば目的地の愛野ですが、今回の島原街道歩きはここまででした。
バカの大群落に行く手を阻まれ大きく予定が狂いました。
ああ、島原街道の道険し。
この後は車道を歩いて諫早まで帰りました。
島原に通じる方の島原街道を、今度こそ愛野を目指して出発しました。
回りくどい言い回しになったのは、諫早に通じる島原街道は2つあるからです。
(図書出版のぶ工房「長崎街道3 肥前長崎路と浜道・多良海道」に掲載の地図を一部加工)
地図の右側のルートがそれで、実際に歩いた軌跡は下の通りです。
愛野まで歩くつもりがとんでもないことになり、なんともへんてこりんな軌跡を描いて諫早に舞い戻っています。そのことについては本文の中で綴っていきます。
島原街道の合流地点を南下するのですが、半造川を渡ったすぐの丘が林の辻(りんのつじ)の古戦場跡です。
坂の右側に「陣の辻古戦場跡碑」が建っています。
伊佐早を治めていた西郷氏が、攻め入ってきた龍造寺氏と最後の決戦を挑んだ場所なので「陣の辻」(じんのつじ)ともいいます。
小栗小学校横を通り住宅地を登っていくと道は一変します。
今回は自分で計画した街道歩きなので、案内してくれる先生はいません。おまけに、このルートには指導標が途中まったくありません。長崎街道や多良海道には行く先々に指導標があったのですが島原街道は歩く人がほとんどいないマイナーな道だと実感しました。
昔の面影を残した雰囲気のいい道です(この辺は)。
倒木が増え、少しずつ道が荒れてきました。
この道は荒れているとは聞いていましたが、私は山歩きを趣味とする元ワンダラーですから、これくらいの悪路はなんてことありません。
ただ、つれ合いは「本当にこの道であっているの?」と不安がっていました。
そうこうしていたら見えました。
これが島原街道であること確定の「一理松跡」の石柱です。
尾根筋に沿ってさらに南下します。
こんなものもありました。
罠にかかったイノシシが私たちを見てさらに興奮し、何度も柵に体当たりをしました。
この辺りのも畑があります。
イノシシの被害があるのでしょう。
木々の間から遠く島原の山が見えています。当時の旅人も望郷の念にかられたはずです。
途中、木が伐採された所を通過
道がコンクリート道に変わりました。
右手に何やら建っています。
「二位尼の碑」の石柱でした。
でも、二位尼の碑の本物はこれです。
二位の尼は平清盛の妻時子のことで、壇ノ浦の合戦の折に安徳天皇を抱いて海に身を投じたといわれる人ですが、落ちのびてこの地で亡くなったという伝説があります。さらにこの先に「安徳天」と刻まれた石碑も残っています。
雲仙のお山
「安徳天」の石柱がありました。
その碑は道から少し登った静かな山の中に建てられていました。
碑が建っている山から来た道を振り返ると
旧島原街道は別名を「殿さん道」とか「殿様道路」といいます。島原のお殿様が参勤交代や長崎監視の折に通っていた道だからです。昭和の初め頃まではこの道は往来に利用されていたそうです。
道の脇の石仏
お花が供えられていました。
今も地元の方が祀っておられるのでしょう。
山道を抜けました。
有喜追分に到着。
ここは島原街道と有喜街道の分岐・合流地点です。籠立場跡でもあり格好の休憩地点だったようです。
山道を抜けたので後は楽勝だと思っていました。
道は平坦になりルンルンです。
橘湾も見えるし
雲仙のお山も見えるし
ところがです
好事魔多し!
歩きやすいと思っていた道が激変しました。
太陽を遮る木がなく日当たりも良好のこの道は、バカ(くっつき虫、植物の種子)が群れをなして行く手に立ちはだかるのでした。
しばらくは我慢していきましたが、半端ないバカの数です。
どうする家康!
全身バカまみれになって進むか、勇気ある撤退をするか。
連れとも相談し、ここは引き返して迂回することにしました。
これまで、藪こきや雪道のラッセルの経験はあるのですが、どこまで続くか分からないバカの道に負けてしまいました。
この後、予定にはなかった有喜街道を下ることに。
宇木城跡
そして大きく迂回し、島原街道の続きに出ました。冒頭の変な軌跡はそういうことです。
再掲
悔しかったので、迂回した後、逆方向から引き返した地点の確認に向かうことにしました。
逆方向から攻める。いいぞ。
攻める。
攻める…
またもやバカの群生に進路を阻まれ、無念の断念。
赤の矢印部分がバカの群生に行く手を阻まれた部分です。距離にして約150m。
黄色が迂回した道です。
青い矢印は、愛野に通じる島原街道の続きでした。
引き返す
逆コースの入り口(本来の街道の出口)に到着
黄色の矢印の道を行けば目的地の愛野ですが、今回の島原街道歩きはここまででした。
バカの大群落に行く手を阻まれ大きく予定が狂いました。
ああ、島原街道の道険し。
この後は車道を歩いて諫早まで帰りました。
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