諫早の家の近所に木の生い茂った丘があります。
標高は20mに満たないのですが、なんとなく鎮守の杜といった雰囲気を醸し出している丘なのでずうっと気になっていました。
こんな感じです
この場所から反対の左側を見るとそこにも丘が
その丘には興味があったのですが、丘の近くには住宅が建ち並んでいて、よその敷地に入って行くみたいだったので一度も近寄ったことはありませんでした。
先日、職場の同僚がそこを知っていて、
「子どもの頃よく遊びに行っていた」
「頂上に祠があった」
「あの頃は『茶うす』と言っていた」
の情報をくれました。
さらに、その数日後に、「頂上に行く道はまだ残っていましたよ」と手書きの地図を書いてくれたのです。
瞬間的にスイッチが入り、その日の夕方さっそく行ってみました。
「ちゃうす」への入り口
すぐに「茶臼山」の標識!
さらに進むと
かなりの竹が倒れたままで寂れた感じがします。なんとなく恐い…
確かに祠がありました。
首が傷んだ石仏(廃仏毀釈の名残?)
この不動明王は新しいようです
標識あり
諫江八十八ヶ所霊場の一つに選ばれた地でした。
諫江八十八ヶ所霊場は四国八十八ヶ所に習って諫早領内に八十八体の弘法大師が祀ってあります。
祠の中の弘法大師像
実はここはゼンリンの地図には「墓地」、上の大師を祭っている祠は「納骨堂」と記されていますが、それは間違いのようです。
「諫江八十八ヶ所」のキーワードで検索をかけたらこの地の歴史が分かりました。
ここ茶臼山は西郷氏が伊佐早を治めていた頃の砦跡で、龍造寺に変わってからもしばらくは砦として使われていたといいます。
そういえば「西郷神」の文字も
これは鳥居の額のようです。西郷神(社)があったのでしょうか。
さらにネットで調べていたら、「新道弘法山から見た茶臼山」というタイトルの写真がありました。角度からして撮影場所の「新道弘法山」こそが左手に見えていたもう一つの丘ということになります。
さっそく出かけました。
祠
ここも諫江八十八ヶ所の一つで、弘法大師が祀ってありました。
ここからの眺めが、ネットで見た写真と同じです。
向こうのこんもりした丘が茶臼山です。
ここが「新道弘法山」ということになりますが、それを示す標識が何もありません。
ただ、ここも諫江八十八ヶ所の一つだったので、そこから調べてこの地が「新道弘法山」と呼ばれていたことが分かりました。
ここが茶臼山と同じく「砦」という記述は今のところ見つけられませんでしたが、ここも茶臼山と同じく伊佐早の南からの攻めに備えての砦ではなかったかと想像します。
名もなき丘には茶臼山、新道弘法山という名前がありました。
乱世がおわり平和な江戸以降は砦の役目を終え、領内安穏・子孫繁栄を静かに祈る「諫江八十八ヶ所」の霊場になったようです。
標高は20mに満たないのですが、なんとなく鎮守の杜といった雰囲気を醸し出している丘なのでずうっと気になっていました。
こんな感じです
この場所から反対の左側を見るとそこにも丘が
その丘には興味があったのですが、丘の近くには住宅が建ち並んでいて、よその敷地に入って行くみたいだったので一度も近寄ったことはありませんでした。
先日、職場の同僚がそこを知っていて、
「子どもの頃よく遊びに行っていた」
「頂上に祠があった」
「あの頃は『茶うす』と言っていた」
の情報をくれました。
さらに、その数日後に、「頂上に行く道はまだ残っていましたよ」と手書きの地図を書いてくれたのです。
瞬間的にスイッチが入り、その日の夕方さっそく行ってみました。
「ちゃうす」への入り口
すぐに「茶臼山」の標識!
さらに進むと
かなりの竹が倒れたままで寂れた感じがします。なんとなく恐い…
確かに祠がありました。
首が傷んだ石仏(廃仏毀釈の名残?)
この不動明王は新しいようです
標識あり
諫江八十八ヶ所霊場の一つに選ばれた地でした。
諫江八十八ヶ所霊場は四国八十八ヶ所に習って諫早領内に八十八体の弘法大師が祀ってあります。
祠の中の弘法大師像
実はここはゼンリンの地図には「墓地」、上の大師を祭っている祠は「納骨堂」と記されていますが、それは間違いのようです。
「諫江八十八ヶ所」のキーワードで検索をかけたらこの地の歴史が分かりました。
ここ茶臼山は西郷氏が伊佐早を治めていた頃の砦跡で、龍造寺に変わってからもしばらくは砦として使われていたといいます。
そういえば「西郷神」の文字も
これは鳥居の額のようです。西郷神(社)があったのでしょうか。
さらにネットで調べていたら、「新道弘法山から見た茶臼山」というタイトルの写真がありました。角度からして撮影場所の「新道弘法山」こそが左手に見えていたもう一つの丘ということになります。
さっそく出かけました。
祠
ここも諫江八十八ヶ所の一つで、弘法大師が祀ってありました。
ここからの眺めが、ネットで見た写真と同じです。
向こうのこんもりした丘が茶臼山です。
ここが「新道弘法山」ということになりますが、それを示す標識が何もありません。
ただ、ここも諫江八十八ヶ所の一つだったので、そこから調べてこの地が「新道弘法山」と呼ばれていたことが分かりました。
ここが茶臼山と同じく「砦」という記述は今のところ見つけられませんでしたが、ここも茶臼山と同じく伊佐早の南からの攻めに備えての砦ではなかったかと想像します。
名もなき丘には茶臼山、新道弘法山という名前がありました。
乱世がおわり平和な江戸以降は砦の役目を終え、領内安穏・子孫繁栄を静かに祈る「諫江八十八ヶ所」の霊場になったようです。
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