闇に響くノクターン

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圧巻な凶暴性ーー新転位・21の『東京物語』

2009-12-02 23:10:40 | 観劇記
11月29日に、劇団「新転位・21」の第15回公演『東京物語――昭和の家族』を観た。この劇団の公演を観るのは、昨年11月28日の『シャケと軍手』に続いてこれが2回目。

会場は中野光座で、実はこの劇場が区画整理のために来春取り壊されることが決定し、この劇場での公演もこれが最後となることが明らかになったため、当初予定していた演目『イグアナを飼う女』を取りやめ、劇場への別れの意味をこめて、急遽『東京物語』を公演することになったという。
『東京物語』といえば、ほとんどの人は反射的に小津安二郎監督の名作映画『東京物語』(1953年)を思い浮かべるとおもうが、この芝居は、映画『東京物語』の小津安二郎と野田高悟の台詞とシチュエーションをほぼそのままつかい、それを舞台上で再現したもの。物語は、「尾道に暮らす周吉ととみの老夫婦が子供たちの生活ぶりを見ようと上京するが、長男の幸一も長女の志げも自分たちの生活に手一杯で周吉ととみのめんどうを見ることができず、老夫婦は、落ち着くひまもなく尾道に帰る。帰郷した直後、とみは上京の際の疲労が遠因で倒れる。今度は子供たちが急遽帰省し、とみの死を見取る。東京でも尾道でも老夫婦にあたたかく接するのは戦死した次男の嫁・紀子だけであった」という原作そのまんま。演出の山崎哲は、光座での最終公演であるということに加え、小津が見た1950年代の東京を現代に重ね合わせ、東京から人間性が失われていく問題をアクチュアルな問題として再提示することに、現在この作品を上演することの意味を見出そうとしたのだろう。

と、ここまで読むと、読者はなにやら情緒的でロマンティックな舞台を創造されるのではないかとおもうが、それとは逆に、新転位・21の舞台は非常にドライで、時としてはドライを通り越して凶暴になる。小津の演出もドライはドライだが、それとは手触りがまるで違う。それゆえ今回の舞台を見るまで、私は新転位・21がなぜ『東京物語』を上演するのはさっぱりわからなかったのだが、舞台がはじまってその疑問はすぐに氷解した。
周吉(木之内頼仁、映画では笠智衆)、とみ(石川真希、映画では東山千栄子)の演技はリアリズムを目指しているが、それ以外の登場人物のセリフは意図的にすべてセカセカとした棒読みか絶叫ばかりで、動作もすべて機械的(こうした演技の構造は、昨年みた『シャケと軍手』とまったく同じ)。観る者が舞台に同化することを拒む暴力的な構造を明確にしている。しかも今回、出演者たちはプロローグで舞台袖から舞台上に上がると、そのまま舞台の横に陣取り、周吉ととみをめぐるさまざまな出来事の傍観者になってしまう。また大半の出演者たちは一人で何人もの役を演じ分けるのだが、その着替えも、舞台横で観客に見えるように行われる。
こうした舞台の構造をみているうちに、私は反射的に、前週見た『宇田川心中』の舞台を思い浮かべ、コロスをドラマチックに動かして現代歌舞伎を指向した金演出とは対照的に、山崎演出は、人間を使った人形浄瑠璃を目指しているのだなと感じた。
また、さらに舞台を観ているうちに、私はフランスの映画監督ロベール・ブレッソンの演出を思い浮かべ、いつの間にか山崎演出とブレッソン演出を比較していた。
ブレッソンの演出の特徴はいくつかあるが、彼はまず、エモーショナルな感情表現を嫌い、役者にほとんど演技をさせない。そのためプロの俳優ではなく素人を起用することも多い。物語そのものも、死刑囚の脱獄(『抵抗』)、スリの青年の日常(『スリ』)など、およそ感情をもって表現することが困難なものが選ばれることが多い。また映画の手法としては、クローズアップが多用されるのだが、これは、たとえばモノを作っている場面であれば「手」、歩いている場面であれば「足」、モノを見ている場面であれば「眼」がクローズアップされるなどして、役者の演技が拒まれる(スクリーンには動作の連続が映し出される)。それゆえブレッソンの演出を「剥ぎ取り行為」と呼ぶ評論家もいるが、映画と演劇ゆえの違いはあっても、『東京物語』の山崎演出は、そんなブレッソン演出をおもわせるむき出しの舞台づくりなのだ。
自己弁護のように聞こえるかもしれないが、実は、小津作品からブレッソンを連想するのはそれほど突飛なことではない。その有名な例は、ポール・シュレイダーの映画論『映画における超越的形式』(邦訳タイトル『聖なる映画』フィルムアート社、山本喜久男訳)で、このなかでシュレイダーは、小津、ブレッソン、カール・ドライヤーの三人をとりあげ、この三人は主題ではなく、表現形式をとおして聖性を追及していると分析している。つまりこの映画論のなかでシュレイダーが着目しているのは「聖性」と表現形式のかかわりなのだが、抑制されたギリギリのスタイルによって感情などをとおりこした人間の根源を追及するということが、山崎―小津―ブレッソンで共通しているのだ(聖性と暴力性のかかわりはそれ自体おもしろいテーマだが、この記事ではそこまで寄り道する余地がない。とりあえず、たとえばシュレイダーが脚本を書いたスコセッシの『タクシードライバー』がこの問題を追究していることを指摘しておく)。
ところで、山崎演出の新転位・21の前作『シャケと軍手』は、秋田で起こった実娘と少年の殺害事件をテーマにした作品だったため、この作品を観て私は、山崎は犯罪の奥底に潜む暗いものに興味をもち、それを明らかにするために独自の演出を行っているのかと感じたのだが、今回の『東京物語』を観て、それは皮相な見方であることがわかった。つまり山崎は、秋田の犯罪事件の世界と小津の『東京物語』の世界に本質的な違いがあるとはみていないわけで、むしろ、一見日常的な『東京物語』の世界のなかに、罪や非情を強く読み取ろうとしているのではないか。とすれば、そうした罪や非情を正面からとりあげた『シャケと軍手』よりも『東京物語』の方が、山崎が追究しているものが何なのか、わかりやすいとはいえる。
それが明らかになるのが、とみの葬儀のあと、残された周吉にむかって紀子が自分の内面の悪を告白するシーンといえ、このシーンの迫力は圧巻だ。
また、静かな葬式のシーンの最中、光座の外をとおっている車のサイレンの音が劇場内にも高く響いたが(光座は老朽化しているうえに元々が安普請なので、防音が完全ではない。ちなみに、外観も内部も「ボロボロ」に近い)、はじめ違和感を抱いたその音が、しだいに、「いや、われわれの周りで起こっている現実のいろいろな出来事は、外部から完全に遮断されているわけではなく、厳かな葬式の最中にそれとまったく関係のない音が聞こえるのは日常茶飯事ではないか」と考えたとたん、芝居に華を添えるすばらしい効果音におもえてきた。後で劇団の関係者にきいたところ、光座で公演していると芝居の途中に外の音が聞こえるのはしょっちゅうの事で、自分たちはだからこそこの光座をかけがえのない空間だとおもっているのだということであった。いずれにしても、新転位・21の芝居は、舞台が内部完結していない分外に向かって大きく開いており、それらを内に取り込む力が非情に強いのだ。

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さて、公演が終わった後は、これが光座の見納めでもあり、劇団の粋なはからいで、観客、出演者、演出の山崎さん、関係者の無礼講で、劇場内で手作りの別れの宴が開かれた。この小宴で、私は、作家の天○荒太さんを見つけ、天○さんに自己紹介するという願ってもない機会を得た。天○さんの作品を、残念ながら私は『永遠の仔』しか読んでいないのだが、この作品には、人間の心の奥底を覗いたような深い感銘を覚えた。ベストセラーを書き、直木賞まで受賞した作家でありながら、こうした小劇場の公演に足を運ぶというところにも、天○作品の奥行きの一端がうかがえるような気がした。

【参照】
『秋田の実娘・少年殺害事件をテーマにした芝居を観る』(小ブログ、2008/11/29付)