闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

奥泉光『シューマンの指』を読む

2010-09-24 21:35:04 | テクストの快楽
ポーランド出発を前に、今日と明日はもろもろの準備のため、アルバイトを休みにしてもらった。だからゆっくり寝ていられるはずなのだが、今朝は5時頃に目が覚めてしまった。旅行に出る前から時差ボケだろうか。
ともかく、横になっていても眠れそうにないので、起き出して、読みかけの本を読み終えてしまうことにした。それがまた、とても刺激的でおもしろかったので、今日はその感想を記しておくことにする(ちなみに今は、ヴェデルニコフが演奏するシューマンのアルバムを聴いている)。

      ☆     ☆     ☆

さて、今朝読了したのは奥泉光の『シューマンの指』(講談社、2010年)。作曲家シューマンに魅せられた高校生たちの物語だ。
作品全体は、ピアニストを目指し、音大の途中でその道を断念し医師となった「私」の回想録として進行する。話の中心となるのは、「私」に強烈な影響を及ぼした2歳年下の天才ピアニスト永嶺修人(まさと)のシューマンへの向き合い方。作品全体の大枠は推理小説的構造で、「もしピアノの前にホロヴィッツが座ったとしてもあれほど驚かなかった」という叙述を皮切りにして、「私」と修人の高校時代を振り返るという形式で話がすすんでいく。
しかしともかく圧巻なのは、その修人のシューマン論だ。前置きはこのくらいにして、さっそく核心にはいろう。
「シューマンは、変ないい方だけど、彼自身が一つの楽器なんだ。分かるかな?音楽は、彼の躯というか、意識とか心とか魂なんかもぜんぶ含んだ、シューマンという人のなかで鳴っている。だから、彼がピアノを弾いたとしても、それはシューマンのなかで鳴っている音楽の、ほんの一部分でしかないんだ。」(同書127頁)
これは登場人物・永嶺修人のシューマン論というより作者・奥泉光本人のシューマン論だろう。修人の言葉にもう少し耳を傾けてみよう。
「シューマンがピアノを弾くーーそのとき、シューマンは実際に出ている音、つまりピアノから出ている音だけじゃなくて、もっとたくさんの音を聴いている、というか演奏している。極端にいうと、宇宙全体の音を聴いて、それを演奏している。そういう意味でいうと、ピアノから出る音は大したものじゃない。だから、シューマンは指が駄目になったとき、そんなに悲しまなかった。だって、ピアノを弾く弾かないに関係なく、音楽はそこにあるんだからね。」(同書128頁)
ゆえに、修人流に考えれば、シューマンを弾くときに、どういう音をならすかは必ずしも大きな問題ではない。いやそもそも、演奏という行為自体、「宇宙全体の音」の前では問題たりえない。したがって、シューマンを深く理解し、それを具象化できる最高度のテクニックをもちながら、修人は演奏という行為を拒む。
一方、そうした修人と修人のシューマン論に深く共感を覚えながらも、平凡なピアニストでしかない「私」は、音大の試験に受かるために、シューマンを演奏せざるを得ない。
「なるほど演奏は「音楽」を台無しにするかもしれない。しかしだからといって、それで「音楽」が消えるわけではない。「音楽」は傷つきもしない。そうなのだ。「音楽」はもう在るのだ。氷床の底の蒼い氷の結晶のように。暗黒の宇宙に散り輝く光の渦のように。動かし難い形で存在しているそれは、私の演奏くらいで駄目になるものではない。私はミスをするだろう。技術が足りないところも多々あるだろう。だが、それがなんだというのだ。私はただひたすらに「音楽」を信じ、余計事を考えずに光の結晶であるところの「音楽」に向かって進んでいけばいいのだ。「音楽」に半歩でも近づけるように。」(同書238-9頁)
ともかく、この作品では、こうしたシューマン論、シューマン演奏論が強いインパクトをもって迫ってくる。
作品のなかで、「私」はシューマンの「交響的練習曲」を演奏して音大にうかる。そして天才・永嶺修人は自分たけのシューマンの世界を守るために、指を失い、演奏を断念する道を選ぶ。
そうしたなかで、「私」がたまたま耳にした修人の「幻想曲」の演奏は、演奏者と曲が一体化したエクスタシーの瞬間として作品のなかにある。

作品は、最後にドンデン返しを繰り返しながら意外な結末を迎える。最初私は、このとってつけたような結末に強い違和感を覚えたが、次に、その結末すらももしかしたら幻想かもしれないと考えることで、作品そのもののリアリティが逆に浮き上がってくるのを感じた。つまり、作品世界も結末も幻想に過ぎないのかもしれないが、逆に、作品のなかで描かれている修人の「幻想曲」の演奏の印象は、不思議なほどリアルで、私自身、その場に居合わせてその演奏を聴いてしまったような気がするのだ。それは奥泉光が、音楽の聞き手が耳にすることのできない「宇宙全体の音」に迫っているからではないだろうか。

ちなみに、この作品の文体には最初強い違和感を覚えたが、読み終えて、それも「シューマン的文体」なのかとおもったりしている。