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多聞 きもの手帳 <男の着物日記>

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『「いき」の構造』 その四 「結論」

2006年04月25日 | きもの古書室
『「いき」の構造』という書名を目にしたとき、あるいは実際に読んでいるときでも、脳裏をかすめることがある。
「そもそも「いき」なんてものは定義できないところに価値があるのじゃないか?」 あるいはもっと素朴に
「頭でっかちの学者先生に「いき」なんてわかるのかいな? 自分がでっちあげた怪物相手に戦いを挑んでいるだけなのではないか?」
私も、九鬼の鮮やかな論理に感服しつつその不安を常に抱いていた。

一般に学術的論文における「結論」はその主張の趣旨を簡潔に述べることに意義がある。
しかるに『「いき」の構造』における結論はどうなっているであろうか。私の下手な要約よりも九鬼先生自身に語ってもらおう。

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「いき」は個々の概念契機に分析することは出来るが、逆に、分析された個々の概念契機をもって「いき」の存在を構成することは出来ない。
「媚態」といい、「意気地」といい、「諦め」といい、これらに概念は「いき」の部分ではなくて契機に過ぎない。
それ故に概念契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、超えることのできない間隙がある。
換言すれば、「いき」の論理的言表の潜勢性と現勢性との間には截然たる区別がある。われわれが分析によって得た幾つかの抽象的概念契機を結合して「いき」の存在を構成しうるように考えるのは、すでに意味体験としての「いき」を持っているからである。
(中略)
「いき」の構造の理解をその客観的表現に基礎付けようとするのは、大いなる誤謬である。「いき」はその客観的表現にあっては必ずしも常に自己の有する一切のニュアンスを表しているとは限らない。客観化は種種の制約のもとに成立する。したがって、客観化された「いき」は意識現象としての「いき」の全体をその広さ深さにおいて具現していることは稀である。客観的表現は、「いき」の象徴に過ぎない。
それ故に「いき」の構造は、自然形式または芸術形式のみからは理解できるものではない。その反対に、これらの客観的形式は、個人的もしくは社会的意味体験としての「いき」の意味移入によって始めて生かされ。会得されるのである。
(中略)
「いき」は武士道に理想主義と仏教の非現実性に対して不離の内的関係に立っている。運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。人間の運命に対して曇らざる眼を持ち、魂の自由に向かって悩ましい憧憬を懐く民族ならずしては媚態をして「いき」の様態を取らしむることはできない。「いき」の核心的意味は、その構造がわが民族存在の自己開示として把握されたときに、十全なる会得と理解を得たのである。
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ところで九鬼周造の墓は京都法然院にあるそうだ。(上記写真)
法然院は京都の寺社の中でも好きなところなのだが、今までその意匠のすばらしさだけに気をとられていた。他に文学者谷崎潤一郎、画家福田平八郎、経済学者河上肇、の墓もあるという。今度京都に行く機会があったらぜひ訪ねてみたい。

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