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映画の本流に翻弄されて~『長江哀歌』(ジャ・ジャンクー監督)

2007年10月17日 03時26分05秒 | 映画雑感
 ほとんどの人の生き様は到底かっこよさなどとは無縁で、時代の流れにただただ翻弄されながら流れていく。そんな中国のダムに沈む街を見据えたドキュメンタリー的なフィクショナルな映画である。

 16年間音信不通の妻と娘を探しに来た50がらみの男と、2年ぶりに夫を探しに来た女の物語だ。物語とはいってもさしてドラマティックな展開があるわけでもなく、ジャンクー的な映画時間が悠々として流れていくだけだ。

 これは、果たして溝口健二かはたまたアッバス・キアロスタミか、それともアンゲロプーロスか、といった歴史的に最上の映画群を想起させずにはいられない映画的な時間。これまで生き急ぐ若者たちの姿をフィルムに焼き付けてきたジャンクー監督が、じっくりと取り組んだ年増の男女の姿が印象的だ。デジタル撮影でこれだけの質感がでるというのは驚きである。
 彼らの人生は、自分がほおり出しているようなところも垣間見せるものの、どこまでもままならないものだということを執拗に、しかし静かに示している。
 映画の中で、いかにもありえない現象がいくつか起こり、あやうく失笑を誘いそうになりながら、ギリギリの品位を保っているのは、それらのできごとが中国の現実の前に屈するからに他ならない。どこにも身なりのいい人間は織らず、きれいな部屋に住めるわけでもなく、これから水没する建物を破壊する仕事で日銭を稼ぐ男たちにしろ、一晩1元ほどで宿を貸すじいさんも、美しくなどないはずだ。全身真っ黒に汚れがつき、薄汚い身なりなのである。しかし、このフィルムの中で彼らは決して、「汚さ」として現れることはない。あくまでも、美しさとして現れるのである。
 映画が、どんなに残酷な現実も、「美しく」描き出してしまう、残酷さ。人びとはこの映画に酔いしれ、この映画を賞賛する。賞賛されればされるほど、中国の地方の現実は忘れられるか、下手をすると称揚されてしまう。現実の残酷さが、才能ある監督によって美しさへと変質してしまうという映画の残酷さをジャンクー監督の良心はとがめただろう。住民の生活をそっちのけで2億元の予算を投じて建てられた橋が点灯される瞬間を美しく描いてしまえる自分の撮影技術を恨みもしただろう。しかしジャンクーは最後の最後で映画の美に踏みとどまる。映画作家の倫理として、出来うる限りの美的センスを発揮して、本気の美しさで風景や人物を捕らえるほかに、どうすればいいというのだ。残酷さが醜い世界の残酷な出来事として描かれるのではなく、美しさとして描かれるほかには、現実の残酷さを世界に発信する方法はない。

 何重にもひねくれた意図がこの映画のコンセプトに深みを与えただろう。われわれは彼が提示するひねくれた美しさに陶酔しつつ、そのひねりの原因を思わざるを得ないよう映画ができている。そこには映画を見る快楽があるのだが、快楽をむさぼっている場合ではない。
 しかし、このような現実はどこの国の監督も体験してきたところだ。
 ジャ・ジャンクーはこの映画で、映画の残酷さ、監督の過酷さを体験しただろう。この種の経験は、才能のない人間にはできないものだ。
 長江の本流のごとく、映画の本流に流れ着いたジャ・ジャンクーはこれからどんな映画を作ってくれるのだろう? ますます期待が大きくなったことはいうまでもない。



 

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