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映像表現そのものに肉薄しようとする意志~『インランド・エンパイア』(デヴィッド・リンチ監督)

2007年09月09日 04時29分59秒 | 映画雑感
 もちろん『イレイザーヘッド』のころからその傾向はあったが、『マルホランド・ドライブ』から本気で追及をはじめ、『ストレート・ストーリー』のような”分かりやすい”作品を難なく撮って世間を安心させながらも、映像の本質へと向かおうとするデビッド・リンチ監督が、世間が理解を示すわけがないことなどはなから分かっているにもかかわらず自己表現を突き詰めようとした作品である。最先端を切り開こうとしたさくひんなどではない。最先端というのは、比較の中で語られるものだが、デビッド・リンチは「絶対」の水準を目指す。

 ソニーのHDデジタルビデオで2年半かけて断片的に撮影された映像をつなぎ合わせて作るという、ほとんど自主制作の実験映画的な手法で作られている。
 これは「映画監督」にとっては、賭けである。つまり撮影という仕事と自分の生活の切れ目が無くなり、双方が交じり合ってしまうということを意味するのだ。人生はすべて映画を撮ることに向かい、プライベートとパブリックの区別がなくなる。そういう状況の中で、どこまで誠実に人は映画を撮れるのか。
 それを突き詰めているうちに、デビッド・リンチ自身が迷い込んでしまったかのような迷宮に、私たちも連れて行かれることになる。
 映像はいつどこでとったものでもつなげられる。ただ単につなげている場合には、人は勝手になんらかの時系列にそっていると解釈しようとする。しかし映像は時系列にもストーリーにも関係なくつなぎ合わせることが可能なのであり、ほとんどの映画でストーリーがつながっているのは、フィルムメーカーの気まぐれに過ぎない。
 映像からその気まぐれを取り除いたときに残るのは何か?
 
 デビッド・リンチはおそらく映像言語が持つ独特の文法を見出し、それを実践する機材も手法も見出した。しかし、それはもはや言語化不可能なものなんだろう。彼はそれを映像として実践してみせる。彼の実践はどこまでも誠実だ。

 映画を見ている最中、わたしたちはあまりに統合失調症的なイメージの連鎖に辟易する。ときには、『ブレアウィッチ・プロジェクト』的な素人くさい映像さえ入っている。多くは手持ちカメラで手ぶれ酔いしそうで気分が悪くなる。
 ところが、不思議なことに、見た後ではブレのない印象を受ける。2年半かけて撮りためた映像が、全体として何を伝えるのかは監督自身も分からなかったはずだ。ともかくそれを編集していく。それは記憶のシステムをそのまま映像にしていく作業だったかもしれない。映像の根源と人間の根源が交叉する地点を探りながら、撮影と編集が行われる。

 この映像が、結局のところ何を意味しているのかは言語化不可能だ。映像が直接映像として、脳髄を刺激し、全体として印象を作っていくのだ。映像にだけ可能な表現を突き詰めてきたデビッド・リンチの問いは「映像の根源=人間の根源なのか?」ということだろう。この巨大な問の前で、彼の試みはそこにかろうじて届いたかどうかの、細い細い針の一刺しにすぎないだろう。しかし、映像が持つ魔力そのものに肉薄しようとした映像作家は稀有だ。映像表現の本道を行く作家が、さらにストレートに取り組み始めた映画だろう。

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