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セクシュアリティ・科学・社会・映画

『中国の植物学者の娘たち』(ダイ・シージエ監督)

2007年12月23日 14時56分34秒 | 映画雑感
 レズビアンものです。

 そこはかとなく「ブロークバックマウンテン」のレズビアンバージョンですが、「ブロークバック」ほどいろいろ練りこまれていないし、事実をもとにしたという分、生っぽいです。
 どこか空想の世界をみているような「ブロークバック」と、目の前で現実として展開する「中国の植物学者」。
 一般的な映画のできとして見ると、やっぱり「ブロークバック」なんだろうけど、こちらはこちらで捨てがたい。

 親と子の関係、愛をまっとうすることの不幸、ある社会環境においては最大の不幸がある種の幸福に見えてしまうような反転などなど、いろいろ考えられる映画です。

 しかし、『ブロークバック・マウンテン』のアン・リーにしろ、この映画のダイ・シージエにしろ、同性愛者ではない人たちが撮った作品に、興味深いクィア・フィルムが続々とでてきていますね。『真夜中のやじさんきたさん』もそうでした。
 いや、本当は、どこまでクィアといっていいのかわからないんですよね。
 同性愛者にとって、同性愛差別の問題は、それが強固である間は切実な問題であり、ゆるくなってくると問題ではなくなるわけです。
 この映画は、中国ではおそらく上映されないのだろうけど(ロケもできなかったため、ベトナムロケなのだそうです)、中国のLGBTが見たら切実なものなんだろう。と思う一方で、ゆるーい今の日本の状況から見ると、そこまでして愛をまっとうできる関係性にある種の羨望も見てしまうわけです。日本のゲイは過剰流動性に身をさらしているので、「この人がダメなら別の人で」と簡単に思えてしまう。そうなると、ある人と付き合うということ自体、永続性を求めるよりも、その場その場の「居心地の良さ」や「ノリの共有」を目指すことになります。ある人との関係は、すぐにマンネリ化して、「間が持たなく」なりますので、その時点でジ・エンド。さ、次を探しましょう、と。
 その点、この映画では関係性の永続性を目指すことが、彼女たちの行動選択の基準になります。ほかに代わりになる人などいないという諦念の上に成り立つ心理です。その行動選択が、激烈な結果を生めば生むほど、私たちはその恋愛の関係が強固であることを目の当たりにして、うっかり「彼女たちは幸せだ」と口走ってしまう。
 私たちは、なにがしかの逆風が吹く環境の中で、その逆風を真に受けるのではなく、適宜かわしながら適宜攻撃をすることをもって、クィアと称してきました。その意味では、あまりにまともに逆風を受け止めようとしているように見える映画が作られてきている。ところが、実は、こうした物語を語りだしている本人たちにはその種の逆風は吹いていないわけです。逆風がないところから語りだすがゆえに、妙な屈折を経た上での、クィア的な感受性を発揮する必要もない。ゲイ・ピープルの側も逆風が適度にやわらいでいるからこそ、そこに素直に共感できてしまうということが起こっているのかもしれません。
 そうだとすると、こうしたストレート・ピープルが生み出すゲイ映画は、社会の中にゲイ・ピープルを受け入れる下準備が整いつつあることを示しているのでしょう。
 それが、あの中国においていつ完成するのかは分かりませんが、しかし問題意識を共有できる有能なストレート・ピープルを味方につけていくことが、ゲイ・ピープルにとって損になることはありません。
 この映画を見て、大いに泣き、大いに怒り、大いに叫びましょう。

 と同時に、そういう時代にゲイ・ピープルがなにを語れるのか、というのも興味あります。フランソワ・オゾン監督の新作や橋口亮輔監督の新作が、どうなっているのか、興味あるところですね。



 
 

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