最近になって『タモリ論』(樋口毅宏著 新潮新書 2013.7.13)、『タモリ伝』(片田直久著 コア新書 2014.4.3)、『タモリと戦後ニッポン』(近藤正高著 講談社現代新書 2015.8.20)を初めとして相次いでタモリの関する著書が出版されている。どれも力作だとは思うが、私がもっとも知りたいと思っていることに何故か言及がない。それは「タモリ」というキャラクターを形成している基本的な信条となるものに関してであり、デンマークの思想家のセーレン・キルケゴールについてである。例えば、タモリが2004年に出版した『新訂版 タモリのTOKYO坂道美学入門』(講談社 2011.10.24)においてタモリはキルケゴールに関して以下のように書いている。
「キルケゴールはその著作の中でこう言っている。人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安であると。精神の不安、自由の不安をキルケゴールはこう説明している。高い断崖の上に立って下を見る時、自分はここから飛び降りると確実に死ぬと予想できる。飛び降りる、降りないかは自分の意志の自由による。だから自由とは不安であると。いっぽう、人間は平地では通常死をも選択できる自由に対する不安はない。崖の上では一歩踏み出すだけで確実に死ねる。これは位置エネルギーを人間が持ったためである。位置エネルギーとは平地では何でもない小石でも、30メートル位のところから落とせば、かなりの破壊力を持つことができる。つまり高さいう位置がすでにエネルギーを持っているということだ。坂道に暮らす人、あるいは上る人、この位置エネルギーを無意識に感じているのであり、そういう人の思想は、自分の自由に対しての不安がいつも存在しているのである。」(p.9)
しかしタモリは1992年4月4日の日本テレビの『講演大王』(日本テレビ放送網株式会社 1993.3.31)という番組において「わたしが各種行事に反対している理由とソ連邦崩壊の関連性」という講演テーマで既にキルケゴールに言及しており、そのプロローグは「人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安である」という、上記と同じキルケゴールの言葉を引用しているのである。
20分間の講演の内容を要約してみよう。
「図A」は人間関係を表している。上に行くほど質が良くなる縦軸は既に決まっている事実を、横軸は時間の流れを表し、因って横軸は流動性が高いのである(が、当然タモリの講演であるから冗談もかなり含まれている)。そして人は自分に関係する様々な「要素」によって自身を成り立たせており、
「図B」のような多くのしがらみの中で生きていくのであるが、「社会性」を求めてこのようなあやふやな「要素」に頼っていると「絶対的な自分(=ゼロの地点)」が分からなくなるというのがタモリの若者に対する不満なのである。
「図C」のようにすべての前提、すべての時間を断ち切った「純粋の自分」を「実存のゼロ地点」とし、このゼロの地点を追及するべきだとタモリは説くのである。
「これを通り過ぎると、自然のものの見方とかいろいろ変わってくるんです。/たとえばある人は、そういうゼロ地点の時に、ふと目の前を見るとヤツデの葉っぱが揺れてた - これを、『自然が私に示した最初の対話』というふうに表現する人もいるわけです。」(p.23)
因って「図D」のように様々な「要素」で拡散しがちになる「自分」を堪えてゼロ地点に向かうことで決定的な「要因」を追及するべきだと説くことになる。
「つまり外から規定するんじゃなくて、自分からなにかを規定し、決定し、意義づけ、存在していかなきゃいけないのが人間であり、それが自由であるとするならば、それは不安だ、ということになるんですね。なんにでもなっていいと言ったら、人間は不安になるはずです。つまりこういう、外のものから取り払われた純粋な自分というものは、不安の存在であると言っている。これは私、一理あると思いますね。自由とは不安であると。」(p.25)
不安を解消するために人は様々な「要素」を取り込むために、逆に「不自由」を求めだし、「なになにである」という規定の仕方に満足できないと、「なになにではない」というネガティブな規定も始めて、ついには差別を生むことにもなる。
講演テーマに沿って説明すると、クリスマスイブやバレンタインなどの「各種行事」はみんながやっているから自分もやるという程度のものであり、ゼロ地点を経験しなければならない18歳から22歳までの大事な時期に、そのようなあってもなくてもいいようなもので時間を潰すなというのが横軸の問題であり、ソ連邦が崩壊したようには日本は崩壊しないという保証はなく、家庭や会社のような「単位」が離婚や倒産として崩壊するように日本という「単位」が崩壊する可能性は十分にある以上、縦軸も保証されてはおらず、因って横軸と縦軸が無くなっても残るものはゼロ地点だけなのであり、当然、40歳や50歳でゼロ地点を目指すことは困難なので、まだしがらみを気にしないでいられる若者こそが「実存のゼロ地点」を目指し、「純粋の自分」というものを認識しておくべきというのがタモリの主張なのである。
タモリの芸風に関して、一流のエンターテイナーと称賛される一方、「香具師」や「似非インテリ」という意見もあり毀誉褒貶相半ばするのであるが、「実存のゼロ地点」を通った男だからこそ人物像が捉えきれないのであろう。私が知る限る、もっとも分かりやすいキルケゴール解釈である。
「時間を引きずって、人間は生きている」 タモリ