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坂本龍馬を暗殺した犯人は誰か グラバ-の手下3人 田中光顕

2018-12-09 15:55:28 | Weblog

引用させていただきました

nihonshitanbou.blog.fc2.com/blog-entry-173.html?sp - キャッシュ

代表的人物として挙げられるのは、坂本龍馬。龍馬暗殺は1867 ... 坂本龍馬暗殺前、 トーマス・グラバーが関知している、重大暗殺事案がある。 ... 田中光顕が伊藤博文を暗殺した手口は、坂本龍馬の暗殺した手口と全く同じだと言われている。

 

 

坂本龍馬を暗殺した犯人は誰か

もくじ

  1. 極悪人谷干城が坂本龍馬の暗殺犯か
  2. 福岡孝悌が証明した坂本龍馬暗殺の土佐藩犯人説
  3. スパイ岡本健三郎が坂本龍馬を見張っていた
  4. 孝明天皇暗殺の真相

坂本龍馬を暗殺事件の真相は・・・・

以下は、「新説・龍馬暗殺事件の真相を参照しました。」

極悪人谷干城が坂本龍馬の暗殺犯か

極悪人谷干城は坂本龍馬の暗殺犯の可能性が高い

土佐藩の後藤象二郎、岩崎弥太郎、極悪人谷干城はグルであり、「いろは丸事件」で7万両もの賠償金を得た同じ土佐藩の坂本龍馬を暗殺して、その金を三人で横取りした可能性が高い。

その理由は、極悪人谷干城が坂本龍馬殺人事件の第一発見者であるからである。 殺人事件の第一発見者が犯人である可能性は非常に高い。

従来は、極悪人谷干城は、坂本龍馬を尊敬していて、瀕死の中岡慎太郎から事情を聞きだし、暗殺犯を生涯かけて追いかけたと言われている。 これも非常に怪しい。中岡慎太郎から聞いたフリをして自分の犯罪を隠している可能性が高い。

新選組局長・近藤勇を捕えた際には、尋問について薩摩藩と対立しただけでなく、死罪の場合には武士の名誉を重んじて、 切腹にするのが通常であるにも関わらず、斬首・さらし首にした。

その理由は、極悪人谷干城にとって近藤勇の死は、龍馬の敵討ちであったからだと言われている。 しかし、 現在では新選組が坂本龍馬を暗殺した可能性は全くなく、濡れ衣だとされている。

新選組には龍馬暗殺の時間帯は伊東甲子太郎を襲う密議の最中で、主要なメンバーにほぼ完璧なアリバイがあることが後日判明しているのだ。

だとすると、なぜ執拗に極悪人谷干城は、近藤勇を斬首・さらし首にしたのであろうか。 それは、極悪人谷干城自身が坂本龍馬の暗殺犯であるから、それを隠すために、 近藤勇があたかも犯人であるように見せるためであったに違いない。

また、後に見回組の今井信郎が「坂本龍馬を殺した」と言ったのに対し、「お前ごときに坂本龍馬が斬られるものか」と非難したと言われている。 極悪人谷干城自身が坂本龍馬の暗殺犯であるから、思わず「お前ごときに坂本龍馬が斬られるものか」と言った訳だ。

加治将一著「龍馬の黒幕」(祥伝社文庫、386ページ)では、「坂本龍馬を殺した」テロリストは、「谷干城」「田中光顕」「中岡慎太郎」の三人だとしている。

英国の諜報部員(公使)のアーネスト・サトウの日記にも「まったく姓名不詳の三名の男に殺害された」と記されているので、 「坂本龍馬を殺した」テロリストが、「谷干城」「田中光顕」「中岡慎太郎」の三人であることは間違いないと思われる。

「中岡慎太郎」は坂本龍馬の反撃に会って二日後に死んだらしいが、「谷干城」「田中光顕」は生きて、 テロ成功の恩賞として初代内閣の「農商務大臣」と「内閣書記官長」に抜擢された。

「中岡慎太郎」は坂本龍馬の反撃に会って死に、「田中光顕」は「谷干城」の部下であるから、「谷干城」が「坂本龍馬を殺した」テロリストの主犯格であり、現場責任者であった。

「坂本龍馬を殺した」テロリストの主犯格の「谷干城」は、まさしく日本一の極悪人なのである。

いずれにせよ、明治政府と言うのはテロリストが作った政府であったのである。

現在のIS国がテロに成功して明治政府になったようなものなのだ。

坂本龍馬の暗殺事件の年に、極悪人谷干城は薩摩藩のメンバーと会っていた

薩摩と土佐は最後まで新選組犯人説を唱えたといわれるのだが、薩摩と土佐は犯人を新選組だということにしたかったのである。 つまり、真犯人である薩摩や土佐のメンバーの誰かが疑われることを入口から遮断しようとしたと考えられる。

極悪人谷干城は龍馬が暗殺された慶応3年(1867)の5月21日に、まさに板垣退助とともに西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀と会い武力討幕を密約している。

坂本龍馬の考え方は武力討幕ではなく、徳川慶喜を新政府の中に入れるという穏健なものであり、薩摩藩や谷の考え方とは異なっていた。

武力討幕派にとっては、徳川慶喜が絶対拒否するとタカを括っていた大政奉還を承諾したので、 その流れでは坂本龍馬のような穏健派に新政府のリーダーシップを握られてしまうことを懼れて、 薩摩と土佐(後藤象二郎、岩崎弥太郎、極悪人谷干城、板垣退助)は龍馬を排除しようと動いたのである。

薩摩からの坂本龍馬暗殺の了解を得た極悪人谷干城は、その足で近江屋にいる坂本龍馬に会い、 5月21日が33歳の誕生日であった坂本龍馬の誕生会と称して、酒か肴に毒を盛り坂本龍馬を毒殺後、毒殺隠蔽工作を行ったに違いない。

そもそも坂本龍馬が近江屋にいることは、土佐藩の人間しか知らない極秘事項であり、 新選組などの土佐藩以外の人間が知る由もなかった。

坂本龍馬殺人事件の第一発見者である極悪人谷干城は、自分が犯人であることを隠蔽するために、 アリバイがあるとも知らない新選組を犯人だ犯人だと言って喚いたのである。

まさに、極悪人谷干城は、日本史上、最低最悪の男なのである。

坂本龍馬の暗殺に関わった主要人物は、谷干城、田中光顕、福岡孝悌、睦奥宗光

暗殺に関わった主要人物は、谷干城、田中光顕、福岡孝悌、睦奥宗光である。

彼らを操ったのはイギリス公使の外交官アーネスト・サトウであり、直接にはサトウの命令を受けていた吉井幸輔(薩摩)であった。

吉井幸輔は、グラバーの金で坂本龍馬が薩摩を新婚旅行した時に、夫妻を塩浸温泉へ案内したり、 桜島を眺めながら錦江湾を船で浜之市港へ行き、日当山温泉へ案内した。

まあ、吉井幸輔は、グラバーやアーネスト・サトウの手先であり、今で言うCIAエージェントのような売国奴であった。 暗殺された坂本龍馬が織田信長だとすれば、吉井幸輔はキリシタンの明智光秀の立場である。

しかし、明治政府には豊臣秀吉のような立派な人間は皆無で、皆、ゴロツキのようなテロリストばかりであったから、 オツムも弱くキリシタンの侵入を防ぐことができなかった。むしろ、喜んでキリシタンの手先になった。

福岡孝悌が証明した坂本龍馬暗殺の土佐藩犯人説

龍馬暗殺を知っていた福岡孝弟」から、 坂本龍馬暗殺の土佐藩犯人説を追います。

龍馬暗殺を知っていた福岡孝弟

【引用開始】

土佐藩の人間が龍馬を暗殺する──そんなことはあり得ないという人は多いでしょう。 NHKの大河ドラマ『龍馬伝』を観た人はとくにそういうでしょう。

大河ドラマでは、土佐藩の事実上の藩主である山内容堂が龍馬に説得され、 大政奉還の建白書を書くという筋書きになっていますが、事実と異なります。 容堂は龍馬に会っていないし、龍馬など眼中になかったはずです。 大政奉還のアイデアは後藤象二郎によるものと最初から信じて疑っていないのです。

なぜかというと、龍馬が下士のその下の郷士という身分であったからです。 容堂から見ると、人間以下の存在なのです。 まして郷士などは虫けらの類いなのです。 容堂が人間を見る基準を士分以上と考えていたからです。

そういう容堂に薩摩藩筋から「最近の龍馬の動きは度を過ぎている。龍馬は処分すべきだ」という相談があったとすると、 躊躇なく後藤象二郎に対し「龍馬を殺れ!」という命令を出したと思うのです。 後藤としてはこの命令に困惑したと思いますが、主命であって拒否は絶対にできないのです。

薩摩藩にしても土佐藩にしても、大政奉還前後に気になっていたのは、龍馬の驚くべき説得力なのです。 龍馬によって両藩の武力討幕派が次々と説得されつつあったからです。

龍馬はどのような人に対しても会う価値があると考えると、積極的に会おうとし、 新しい日本のあり方を説いて同意を求めるのですが、龍馬の話に心を動かされる人が増えてきたのです。 これは武力討幕派である薩摩藩にとっては深刻な事態といえます。

土佐藩が龍馬暗殺に加担したことを示唆するある人物の行動があります。 福岡孝弟(たかちか)がその人です。 福岡は土佐藩士で、実家の禄高は180石であり、上士の中では中くらいに位置していました。 いいとこの御曹司です。福岡は次男でしたが、兄が病弱のため、家督を継いだのです。

安政2年(1855年)4月、吉田東洋が長浜で少林塾を開くと孝弟は入門し、東洋から学問を学ぶことになります。 このとき、この吉田東洋の私塾には神山左多衛や松岡七助、そして後藤象二郎らが学んでいたのです。

福岡孝弟が龍馬と親交を深めるのは、薩長同盟成立以後のことです。 福岡は慶応3年3月、長崎へ出張したときに龍馬と会談し龍馬の考え方や人となりを知るのです。 その結果、龍馬や中岡慎太郎は土佐藩に必要な人材と判断して、後藤象二郎と独断で2人の脱藩の罪を赦免するのです。

龍馬はそういう福岡孝弟を非常に頼りにしていたのです。龍馬の暗殺日当日のことです。 午後に龍馬は福岡の宿舎を訪ねているのです。 そのとき福岡の宿舎は大和屋といって、近江屋の三軒隣りにあったのです。

しかし、福岡孝弟は土佐藩の重役であり、藩が用意した邸宅を持っていたのです。 大和屋というのは、芸者のいる料亭のようなところだったようです。 どうしてそのようなところに福岡は住んでいたのでしょうか。

龍馬が大和屋を訪ねたとき、福岡は留守だったのです。 これについては、居留守であったという説があるのです。 留守番をしていたおかよ(後に福岡の妻になる)が応対しています。

ところが、それからしばらくして龍馬はもう一度大和屋を訪ねているのです。 しかし、そのときも福岡は帰宅していなかったのです。 最初に居留守を使っていればいないのは当然のことです。 よほど家にきてもらいたかったのでしょう。 そのとき、おかよに対して次のように誘っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    福岡は帰りが遅くなるから、うちに来なさい
     ──磯田道史著『龍馬史』/文藝春秋社刊
―――――――――――――――――――――――――――――

福岡は龍馬と仲がよかったのです。 お互いに家を訪ね、酒を飲みながら、いろいろなことを話し合っています。 それなのに福岡はなぜ龍馬の誘いに乗らなかったのでしょうか。

福岡はおそらく龍馬がいずれ殺されることを知っていたのではないかと思われます。 ちょうどその日に暗殺が実行されることは知らなかったと思いますが、 近いうちに暗殺が実行されることはわかっていたのです。 そのため、危険なので、うっかり龍馬の誘いに乗れなかったのでしょう。

もうひとつ不思議なことがあるのです。福岡は龍馬の葬式に出 なかったのです。これについては龍馬と親交のあった土佐藩の友 人たちは、福岡のことを強く批判しています。

龍馬暗殺に土佐藩はどのようにかかわったのでしょうか。

龍馬暗殺に直接にかかわったのは、新選組と見廻組であるというのが通説です。 しかし、もし新選組と見廻組が犯人であるならなぜ犯行声明をしないのかということです。

当時の新選組は警察で、見廻組は検察に該当します。 建前では彼らは幕府を守るために龍馬を狙っているのではなく、 龍馬が犯罪を犯しているので、追っているのです。 龍馬は寺田屋事件のさい、ピストルで幕府方の役人を何人か殺傷しており、 指名手配犯人なのです。逮捕するのは当然であるし、当時のことですから、 龍馬を殺害したとしてもそれは公務なのです。

したがって、新選組と見廻組がそれをやり遂げたのであれば、堂々と犯行声明をするはずですが、 それをしていない──これは新選組と見廻組の犯行ではないということを示唆しています。 それに加えて、徳川慶喜は「龍馬を捕えてはならない」という指示まで出しているのです。

推理ドラマにおける犯人は、最も怪しくない人が犯人であることが多いですが、龍馬暗殺の場合もそれはいえると思います。 ここまでEJでは、背後に英国と薩摩藩がいて、それにプラス土佐藩と実行犯がいるというところまで、推理してきています。

           ――─  [新視点からの龍馬論/74]

【引用終了】

スパイ岡本健三郎が坂本龍馬を見張っていた

土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺した実際の下手人は、谷干城だとして、 利害関係から見ると同じ土佐藩の岩崎弥太郎と田中光顕に殺された形になる。 商人である坂本龍馬の利権を岩崎弥太郎が奪い、政治家である中岡慎太郎の利権を田中光顕が奪った形であり、 これがその後の武器商人としての三菱財閥の繁栄と田中光顕の特に宮中に強い政治家(宮内大臣などを歴任)になるきっかけになった。

どうも坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺は、土佐藩の内ゲバ(粛清)であったようで、 キリシタン(現在のCIAエージェントに相当)だった藩主の山内容堂とその家老であった後藤象二郎が、 英国公使のパークスや外交官アーネスト・サトウの命令を受けて田中光顕とその上司の谷千城らに 暗殺命令を出した。

仏教徒であった坂本龍馬は、異教徒のキリシタンの日本侵略に断固として反対したらしいが、 キリシタンだった山内容堂とその手下達は、異教徒のキリシタンの手先となって坂本龍馬と言う日本の魂を抹殺し、 異教徒のキリシタンが日本を支配する明治政府を作り、日本の富を異教徒のキリシタンに売り渡すのと引き換えに 自分たちだけが利益を得る売国奴となっていった。

坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺実行の現場責任者は、福岡孝悌と谷干城であった。 後藤象二郎が福岡孝悌と谷干城を呼びつけ、暗殺プランを説明した。 福岡孝悌と谷干城は、睦奥宗光と田中光顕を集め、この四人とで坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺した。 暗殺場所は、京都の土佐藩邸の道を隔てて、まん前にあった近江屋と言う宿であった。

坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺は、刀による斬り合いがあった訳でなく、暗殺日の11月15日が坂本龍馬の誕生日であったため、 坂本龍馬の誕生日祝いと称して、坂本龍馬と中岡慎太郎を毒殺したらしい。

坂本龍馬と中岡慎太郎に毒を盛ったのは、のちに福岡孝悌の女房となった「おかよ夫人」である。 「おかよ夫人」は、当時「山猫」と呼ばれており、福岡孝悌に頼まれて陸援隊のメンバーの接待の酌婦をしていた。 「山猫」は、坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺幇助の手柄により、福岡孝悌の女房であるおかよ夫人になった。

福岡孝悌は、土佐藩の重役であり、大和屋と言う宿舎を持っていた。 大和屋は、近江屋の三軒隣であり、坂本龍馬も暗殺事件当日の午後も何回か大和屋を訪ねている。 しかし、坂本龍馬の暗殺計画を知っている福岡孝悌は、居留守を使っていたらしく、 坂本龍馬は福岡孝悌に会えなかった。

坂本龍馬の暗殺を知っていた福岡孝悌」を参照。

福岡孝悌が居留守を使った大和屋で坂本龍馬に応対したのは「山猫」ことのちの「おかよ夫人」であるが、 坂本龍馬は「山猫」に「福岡は帰りが遅くなるから、うちに来なさい」と誘ったと言う。

当時、坂本龍馬と福岡孝悌は仲がよく、坂本龍馬は福岡孝悌を頼っていたらしい。 しかるに福岡孝悌は、暗殺後の坂本龍馬の葬式に出席せず、仲間の顰蹙を買ったらしい。

朋をも殺す裏切り万歳の風潮の土佐藩の福岡孝悌ではあったが、 流石に自分が殺した坂本龍馬の葬式には出席できなかったようだ。

坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された現場には、岩崎弥太郎はいないかのように見える。 しかし、現場には岩崎弥太郎の代理人がいた。その名は、岡本健三郎である。 岡本健三郎は、岩崎弥太郎と同じ下横目と言うスパイ仲間の同僚であった。

下横目とは土佐藩独特の言葉で「岡っ引き」のような役割で、正統な武士でなく犯罪に詳しい前科者などがなる 超軽い役職で、町に紛れ込んで情報を集め、同心役に通報し、捕り方のときには手伝ったりする。 つまり、せこいスパイの仕事であった。

岡本健三郎は、坂本龍馬暗殺事件の3週間ほど前に、後藤象二郎の使いで坂本龍馬の同行して福井に行き、 坂本龍馬と一緒に前福井藩主・松平春嶽やそのブレーン由利公正に会っている。

スパイ岡本健三郎は、坂本龍馬の動向をスパイ仲間の岩崎弥太郎経由で後藤象二郎に伝えていたに違いない。 近江屋の数軒先にあった貸本屋菊屋の息子峰吉の証言によると、 坂本龍馬暗殺事件の当日も、岡本健三郎は、坂本龍馬を訪ねている。 岡本健三郎は、スパイとして坂本龍馬を監視すると言う重要な役目を果たしていたのだろう。

坂本龍馬暗殺事件は、岡本健三郎が提供する坂本龍馬の情報が功を奏したのだろう。 その結果、武器商人である岩崎弥太郎と三菱財閥の繁栄を招いたとも言える。

スパイ岡本健三郎は、のちにスパイ仲間の岩崎弥太郎の三菱財閥に招かれ、三菱財閥の大番頭となり生涯を終えた。 岩崎弥太郎の代理人であった岡本健三郎こそ、坂本龍馬暗殺事件の陰の主役なのである。 そして、武器商人である三菱財閥の陰の主役でもあった。

龍馬暗殺に残された謎」を参照。

現在寺田屋を称する建物には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされているが、 現在の寺田屋の建物は明治38年に登記されており、専門家の間では以前から再建説が強かった。

京都市は当時の記録等を調査し、幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の建物は当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。

では、明治38年に再建された寺田屋にある刀傷や銃痕は、一体、誰がつけたものなのであろうか。 一般の人間は、坂本龍馬暗殺事件の時についたものだとばかり思っているが、違う。 そう、当時、宮内大臣だった田中光顕が坂本龍馬の暗殺を隠すために付けたのである。

坂本龍馬と中岡慎太郎が毒殺された近江屋には、刀傷などはある筈がない。 あるとすれば、時、宮内大臣だった田中光顕が坂本龍馬の暗殺を隠すために付けたのであろう。 それは、寺田屋にある刀傷や銃痕と同時期であった筈だ。

坂本竜馬暗殺「近江屋事件」詳細」を参照。

坂本龍馬の名前が有名になったのは、明治37年(1904年)4月13日 時事新報(産経新聞)に掲載した「葉山の御夢」という記事であった。 内容は、時の昭憲皇太后が葉山の御用邸に滞在中に見たという夢の話で、 その夜、皇太后の夢枕に突然現れたのは白無垢を着た一人の武士侍は驚くべきことを語り始めた。 「私は、坂本龍馬と申すものでございます。

日露戦争に置いてこの国の海軍を守る覚悟でございます」と枕元で告げたと言う。 翌日、話を聞いた宮内庁の側近は皇太后に坂本龍馬の写真を見せたところ「確かにこの男だった…」と皇太后は証言したと云う・・・・・。

坂本龍馬の名を復活させたのは当時の宮内大臣の田中光顕であった。 明治37年にもなると坂本龍馬の暗殺事件を知っているのは田中光顕だけとなった。 それで、田中光顕は、宮内大臣の立場を利用して、時事新報(産経新聞)と言う御用新聞を使って、 皇太后の夢を創作、龍馬を海軍の守護神に祭り上げたのである。

その目的は、岩崎弥太郎や田中光顕による坂本龍馬の暗殺を隠すためである。 坂本龍馬は当時無名で、死後37年を得て迂遠の一軒で、名前が世間に知れ渡ったとのことである。 勿論、明治38年に登記された現在の寺田屋の建物は、田中光顕が金を出して再建したのだろう。

そして、もっともらしく、再建された寺田屋に、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものを工作したのである。 この工作が何よりも田中光顕が坂本龍馬の暗殺犯である証拠と思われる。

幕末人物メモ ~ 昭憲皇太后 「葉山の御夢」~」を参照。

土佐藩の岩崎弥太郎と田中光顕の坂本龍馬暗殺の狙いは、坂本龍馬が近々紀伊藩から入金予定の7万両の現金であった。 坂本龍馬は、密貿易船いろは丸を紀伊藩の船にぶっつけて沈め、7万両と言う賠償金をせしめた。 この賠償金の計算は岩崎弥太郎が行った。

この金が、そっくり岩崎弥太郎と田中光顕の懐に入ったのである。 英国のグラバーから武器商人としての薫陶を受けていた岩崎弥太郎は、 この坂本龍馬の遺産である7万両の現金を泥棒のように横取りして、 本格的な武器商人としての三菱財閥のスタートを切ったのである。

武器商人が一番おいしいのは戦争である。坂本龍馬は、徳川幕府との戦争に反対した。 これでは、武器商人としての三菱財閥に金が入って来ない。 岩崎弥太郎と発展する三菱財閥は、政治面を田中光顕に任せ、坂本龍馬の暗殺を皮切りに数々の暗殺事件を起こし、 日本が戦争するように仕向けた。

田中光顕は、その御礼に三菱財閥からたっぷり金を吸い取り、多くの美術品を集めたり、 豪勢が別荘を何軒も作って95歳まで人生を堪能した。

武器商人である三菱財閥は、スパイが仕事であった岩崎弥太郎が始めただけあって、 情報収集活動を非常に重要視した。 明治、大正、昭和における以下のような政治家の暗殺事件は、まさに三菱財閥の情報収集能力が最大限に生かされ、 戦争反対の政治家は武器商人の敵としてことごとく抹殺された。

事件名日時場所犯人背景と陰の仕掛け人?
坂本龍馬暗殺事件 1867年12月10日
慶応3年11月15日
京都近江屋 谷干城、田中光顕? 徳川との戦争反対、岩崎弥太郎?
伊藤博文暗殺事件 1909年10月26日 哈爾浜(ハルビン)駅 安重根? 朝鮮併合反対、明石元二郎、田中光顕
原敬首相暗殺事件 1921年11月4日 東京駅 中岡艮一 米英との協調、五百木良三、田中光顕
濱口雄幸首相暗殺事件 1930年11月14日 東京駅 佐郷屋留雄 軍縮、田中光顕
2.26事件 1936年2月26日 半蔵門など 陸軍青年将校 米国との戦争回避、田中光顕

その仕掛け人が、田中光顕であった。 明治、大正、昭和において、田中光顕が金を出して仕掛けた政治家の暗殺事件の度に日本は戦争好きになり、三菱財閥は肥大した。

安倍首相らがやっていることは、この田中光顕の真似をしている訳だ。 だから戦争賛成の安倍首相は、三菱財閥のお友達になれる訳だ。 つまり、戦争をしかけて三菱財閥を儲けさせ、そのお零れを頂こうとしているのだ。

孝明天皇暗殺の真相

vol.40 殺された天皇」から、 孝明天皇暗殺の真相を追います。

長州のテロリストに殺された可能性が高い孝明天皇

【引用開始】

用明天皇・淳仁天皇など暗殺説が唱えられる天皇の中で、最もその真偽をめぐって激しい論争が繰り返されているのは孝明天皇です。

孝明天皇が崩御遊ばしたのは慶應2年(1866)12月25日(西暦1867年1月30日)です。 公式には痘瘡(とうそう)(天然痘)が原因とされましたが、当時から「天皇は殺められたのだ」との噂が広がり、いまでも有力な暗殺説があります。

崩御14日前の12月11日、天皇は風邪に似た症状を発し、13日には症状が悪化して死の床に就きました。

16日、典医(てんい)は孝明天皇の病気は痘瘡であると結論し、看病が続けられました。 その甲斐あってか、やがて回復の兆しを見せ始め、間もなく完治するものと誰もが思っていたのですが、24日の夜になって天皇の容体が急変しました。

孝明天皇は25日、前日までとは打って変わって食事や水分を摂れなくなり、そして高熱に見舞われました。

その後、孝明天皇は激しい嘔吐・下痢・下血を繰り返し、その日の午後十一時頃「九穴(きゅうけつ)より御脱血(ごだっけつ)」という断末魔の苦しみの末、壮絶な崩御を遂げられたのです。 享年35歳という若さでした。

孝明天皇の死には不審な点が多く、当時から孝明天皇の死を第三者による毒殺ではないかという噂がありました。 孝明天皇の存在を嫌う勢力の誰かが、天皇が痘瘡に罹ったことに乗じて、天皇が崩ずる前日、つまり24日の晩に毒を盛った可能性が現在でも指摘されています。

孝明天皇の崩御から間もなく、徳川幕府が崩壊します。孝明天皇は最後まで討幕に反対していました。 討幕はから見ると天皇は討幕の最大の障壁となっていました。討幕を意図する誰かが天皇暗殺を目論んだのではないかと考えられています。

【引用終了】

1867年5月21日の坂本龍馬の暗殺の4月前の1月30日に孝明天皇は暗殺された

慶応3年(1867)の5月21日の坂本龍馬の暗殺の4月前の1867年1月30日に孝明天皇は暗殺されたが、 この時、孝明天皇の右腕であった朝彦親王は、孝明天皇に会おうとしても、 長州のテロリストに妨害されて会えなかったと、朝彦親王の日記に書いてある。

坂本龍馬の暗殺と孝明天皇の暗殺は、セットで考えるべきではないか。 坂本龍馬の暗殺は、土佐藩と薩摩藩の仕業だが、孝明天皇の暗殺は、長州藩の仕業であることに注意したい。

孝明天皇は35歳で亡くなり、坂本龍馬は33歳で亡くなった。こんな壮年は、毒殺でしか殺せないことを暗殺者は知っていた。

金を提供する暗殺者指令者は、グラバーやアーネスト・サトウであるが、金を貰って日本人を殺す売国奴は、 土佐藩の谷干城、田中光顕、福岡孝悌、睦奥宗光らであり、薩摩藩の大久保利通、売国奴の公家の岩倉具視であり、 その媒をしていたのが長州藩のテロリスト達であろう。

薩長土肥と言う連合は、ビン・ラディンやイスラム国も顔負けのテロリスト連合であった。

この延長と言うか伝統を100%引き継いでいるのが、利権しか興味のない霞ヶ関の官僚達であり、山口県田布施町生まれの安倍政権である。

孝明天皇も坂本龍馬と同じように砒素中毒で毒殺された

アーネストサトウの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:1960初版)には、以下のように書かれていると言う。

「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私 (アーネスト・サトウ)に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。

この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。 そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。

反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」と書かれているらしい。

アーネスト・サトウのようなユダヤ系から見ると、孝明天皇のように反ユダヤ派、坂本龍馬のような反キリスト派は、 商売の邪魔な存在としか見えていない訳だ。

今でも大半の日本人は、反ユダヤ派または反キリスト派であるから、アーネスト・サトウのようなユダヤ系から見ると、 大半の日本人は商売の邪魔な存在としか見えておらず、ヤツラ西欧人は原爆を落としても何の痛痒も感じない獣達なのである。

本龍馬の暗殺を隠蔽した田中光顕

極悪人谷干城(1837年生)の後輩が、田中光顕(1843年生)である。

この二人は、坂本龍馬の暗殺現場にいた。

田中光顕は、自分達の坂本龍馬の暗殺を隠蔽するために、 坂本龍馬を美化した文章を残した。

日本の学者や司馬遼太郎らの元ネタは、殆ど田中光顕の文章であるから、 日本の歴史は捏造だらけと言うことになる。

伊藤博文も暗殺した田中光顕

田中光顕は、伊藤博文も暗殺した。

田中光顕は、1909年に伊藤博文により、宮内大臣を解任された。 伊藤博文は、山縣有朋一派である田中光顕が、明治天皇を操って、 朝鮮併合を推進することを恐れた。

伊藤博文により宮内大臣を解任された田中光顕は、 伊藤博文に恨みがあり、解任された2ヶ月後の1909年10月26日に、 ハルビン駅にて伊藤博文を暗殺したと言われている。

田中光顕が伊藤博文を暗殺した手口は、坂本龍馬の暗殺した手口と全く同じだと言われている。

また、金が絡んでいることも坂本龍馬の暗殺した理由と合致する。

坂本龍馬の暗殺事件も伊藤博文の暗殺事件も、結果的に三菱財閥の大きな利益になった。 犯罪と言うのは、犯罪の結果、一番儲けた人間が、一番怪しいと考えるのは常識であろう。

岩崎弥太郎(1835年生)の三菱財閥や田中光顕にとって、山縣有朋の陸軍朝鮮併合や満州進出に反対する伊藤博文は、 戦争を望む三菱財閥にとって利益に反する人間であり、幕府との戦争に反対する坂本龍馬と 全く同じように見えたのであろう。

伊藤博文も暗殺した実行犯は誰か

勿論、田中光顕が伊藤博文を暗殺した実行犯ではない。

伊藤博文を暗殺した実行犯は、一般に「安重根」と言われているが、学校で教えられた歴史はインチキが多いようだから、 色々調べて見ると、「安重根」ではなく「ロシア特務機関」だと言う説がある。

【残念】”安重根”ではなかった!!伊藤博文暗殺の犯人はロシア特務機関!

ここで登場するのが「明石元二郎」と言うスパイを職業とする陸軍軍人である。

「明石元二郎」は、当時、一兆円近い軍資金を使ってスパイ活動をしており、 朝鮮併合論者であり満州侵略論者であり、不戦論者の伊藤博文の暗殺を公言していたらしい。

当然、伊藤博文を暗殺したい田中光顕は、「明石元二郎」に近づいたに違いない。

「明石元二郎」の持つ軍資金と田中光顕が提供する軍資金(三菱財閥が提供?)を持ってすれば、 鬼に金棒でありロシア特務機関だろうと、日本陸軍憲兵隊の手先である朝鮮人であろうと、 ハルビン駅2階の食堂からフランス騎馬隊のカービン銃を使って、伊藤博文を撃つことは簡単である。

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事件名, 日時, 場所, 犯人, 背景と陰の仕掛け人? 坂本龍馬暗殺事件, 1867年12月10日慶応3年11月15日, 京都近江屋, 谷干城、田中光顕? 徳川との戦争反対、岩崎弥太郎? 伊藤博文暗殺事件, 1909年10月26日, 哈爾浜(ハルビン)駅, 安重根? 朝鮮併合 ...

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http://nihonshitanbou.blog.fc2.com/blog-entry-172.html 三菱商事のサイト ... http:// www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/hanzai3/index2.html 伊藤博文も暗殺した ...

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http://blog.goo.ne.jp/mannizawa/e/0829d7df38a1d5d1a894ea54f6f91ec8. さて、 これら3 ... http://www.news-postseven.com/archives/20160909_445891.html ..... http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/hanzai3/index2.html

以上

日本のいちばん醜い日


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