朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

陝父とはヒョッポのこと

2011年07月27日 | 朱蒙

陜父とは、ご存知ヒョッポのことである。

つまり、「桓檀古記」の記述は、朱蒙の家臣であったヒョッポが後に日本(倭国)に渡り、九州は阿蘇山に自ら国をたてて王となり、後には朝鮮半島に逆上陸して半島南部(任那)を併合したと言っているわけである。ビックリではないか。

日本の歴史学界ではまずまともに取りあげられることもないだろうこの話。果たして信憑性はあるのか。ことが2000年も前の話だけに、バカバカしいの一言で片付けられてしまいそうだが、個人的にはまったくない話でもないと思う。

朱蒙亡きあとのヒョッポについては、以前「風の国」を検証する その1のところでも言及しているのだが、ユリ王のもとで大輔(テボ)を務めていたものの、狩りに出て5日間も戻ってこなかったユリ王に小言を言ったところ、逆ギレしたユリ王に罷免され、結局高句麗を離れることになるわけである。(これは「三国史記」に実際に書かれている記述)

注目すべきは、高句麗を離れた際に南韓へ去っていたとの記述があることで、これは「桓檀古記」の記述にぴったりつながる。

もう一度、「桓檀古記」の冒頭を引用しておこう。

陝父は、南韓に奔走して、馬韓の山中に隠り住居する。将、革を知り、浿水(清川江)を下り、海に出て狗邪韓国に至り、加羅海の北岸に居する。

ちなみに、この中に出てくる「狗邪韓国」は、邪馬台国への行程が問題となる「魏志倭人伝」の記述の中にも出てくる。
Wikipediaによれば「3世紀中ごろ、朝鮮半島南部に存在した倭国の領土」であり、「伽耶(かや)や加羅との関連性が指摘されている」ということらしい。現在の韓国で言うところの金海市がその候補地であり、金海市といえばかつての金官伽耶、つまりキム・ユシン一族の故郷でもあるわけだ。

ヒョッポが本当に日本にやってきたかどうかというのは確かめようもないが、かつて大陸から朝鮮半島を経て日本に稲作や鉄を持ち込んだ人々がいたことは、歴史上、紛れもない事実である。モパルモから鉄器の技術を学んだヒョッポが、もしかしたら日本に来たのかもしれないと想像することは、ドラマ「朱蒙」のファンにとってはなかなか愉快なものである。

さて、もう少しこの話を続けよう。
次は、朝鮮半島内に作られた分国の多羅韓国、つまり多羅国についてである。