朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

「ケベク」実在した人物たち サテク妃

2012年07月12日 | 階伯(ケベク)

ドラマ「ケベク」も中盤にさしかかり、ようやく話の展開が面白くなってきた。
次回はケベクと義兄ムングン(ポリョ)の再会に焦点があたりそうで楽しみである。ウィジャとケベクとの再会以上に盛り上がるのでは?テス・ヨンス兄弟との関係も見逃せない。

さて、ちょっと前まで、ケベク「実在した人物たち」シリーズで何人か歴史書の記述を紹介してきたが、そろそろキョギくんについて検討をくわえたいところである。

が、その前にサテク妃をとりあげておこう。

サテク妃もまた間違いなく実在した人物のはずだが、「三国史記」や「三国遺事」にはその名前が見られない。(だいたい、「三国史記」百済本紀には父親の名前があるぐらいで、母親や王妃の名前はほとんど記録されていない)

とするとほかに何かの史料があるのだろうか。

以前もちょっと書いたのだが、英語版WikipedeiaのQueen Seondeok of Silla(善徳女王)の項目にソンファ姫に関連して以下のような記載がある。
ちょっと気になる内容なのだが・・・

Princess Seonhwa, eventually married King Mu of Baekje and became the mother of King Uija of Baekje. Seonhwa's existence is controversial due to the discovery of evidence that points to King Uija's mother as being Queen Sataek, and not Seonhwa as indicated by historical records.

ソンファ王女は百済の武王のもとに嫁ぎ、義慈王の母となった。ソンファの実在性については、義慈王の母が史実上のソンファではなくサテク妃だったことを示す証拠の発見により議論が分かれている(疑問視されている)。

義慈王(ウィジャ)の母親がソンファではなくサテク妃だったとは!?
そして、それはいかなる証拠なのか?

・・・というわけで次回に続く。


カジャム城攻撃は629年の話?

2012年07月04日 | 階伯(ケベク)

カジャム城攻撃はいつの話?の続き

ドラマ「ケベク」第10話におけるカジャム城攻撃の時期がよくわからない、という話を以前のネタで書いたのだが、その後、いくつかのヒントを元に629年ではないか、ということになった。

***

第8話で、カジャム城攻略の前に、新羅が高句麗のナンビ城を攻略するエピソードがある。
ナンビ城というのは、娘臂(じょうひ)城のことらしい。

「三国史記」にはこのようにある。

高句麗本紀
栄留王12年(629)秋8月、新羅のキムユシンが、東部の辺境に侵入し、娘臂(じょうひ)城を破った。

新羅本紀
真平王51年(629)秋8月、王は大将軍の龍春・舒玄と副将軍のキムユシンとを派遣し、高句麗の娘臂(じょうひ)城を攻めた。(中略)〔かくして、娘臂〕城は陥落した。

(ちなみに龍春はヨンチュン(チョンミョンの旦那の弟)だし、舒玄はユシンの父ソヒョンのことである)

ナンビ城を攻略して士気の高まっている新羅を早めに叩いておこう、という意図のもとにカジャム城を攻撃しようという話になるわけで、時期的にはほとんど同じということ。

ちなみに、このナンビ城の戦いは、キムユシンが初めて名をあげることになった戦である。

***

第10話で、カジャム城潜入に失敗し、新羅の捕虜となったウィジャ。
作戦会議を練るペクチェ陣営ではキョギ王子がこのようにのたまう。

国運をかけた戦(いくさ)なのですよ?
昨年同様カジャム城の攻略に失敗すれば、わがペクチェの威信は、またたくまに地に落ちるのです!

百済本紀
武王29年(628)春2月、出兵して新羅の椵岑城を攻めたが、勝てずに帰った。

とういことは、やはりドラマにおけるカジャム城攻撃は629年ということになる。

***

しかし、居酒屋で働くケベクの少年時代を描いたのが626年だったのだから、ケベクが捕虜として捕えられてからわずか3年しか経過していないということになる。14歳だったケベクはまだ17歳前後ということであり、役者さんの年齢差を考えるとどうにも違和感が残る。

しかも、3年後に再会した弟分の顔がわからないか、ウィジャ?

というわけで、やはり「ドラマはドラマ」ということで。ちゃんちゃん。


「ケベク」実在した人物たち キミ

2012年06月24日 | 階伯(ケベク)

キミ(岐味)

さて、ケベク「実在した人物シリーズ」で何人か紹介してきたが、これまではすべて「三国史記」にその名前が記録されている人物たちだった。

ところが、このキミ(岐味)は(見落としているのでなければ)「三国史記」にはその名前がない。
実は「日本書記」にその記述があるのだ。

以前、義慈王と翹岐(ぎょうき)という記事の中でも引用しているのだが、改めて該当の部分を抜き出しておこう。
皇極天皇元年(642年)2月の記録で、百済からやってきた使いが語っている部分である。

今年の正月(むつき)に、国の主(こきし)の母(おも)薨(みう)せぬ。又(また)弟王子(だいおうじ)、児翹岐(ぎょうき)及びその母妹(おもはらから)の女子四人(えはしとよたり)、内佐平(ないさへい)岐味(きみ)、高き名有る人四十余(よそたりあまり)、嶋(せま)に放たれぬ


つまり、キミは、島流しにあって済州島から日本へと渡ってきた翹岐(キョギ)と行動を共にしていたというわけだ。確かに、ドラマ中でもバリバリのサテク派だった。

日本にやってきたキミ(岐味)が、その後どのような余生を送ったのかはまったくわからないが、状況から判断すれば母国に戻ることはなく、日本の地に骨をうずめることになったのだと思う。

さて、問題はキョギくんの方である。


カジャム城攻撃はいつの話?

2012年06月21日 | 階伯(ケベク)

ドラマ「ケベク」では、当初ケベクが誕生する前後の612年の様子を描き、第3話からはその14年後(626年)、少年へと成長したケベクと、その父親ムジンが亡くなるまでを描く。

そして、第7話の終盤からは青年へと成長したケベク、ウィジャ等が登場するのだが、これはいったい何年後という設定だろうか。少年役と青年役の役者さんの年齢差を見る限り10年近く経過しているようにも思えるのだが、ドラマの中でハッキリ言及されていなかったような気がする。(単に見落としただけか?)

ポイントは、ドラマのストーリーによれば、その頃百済で新羅の椵岑(カジャム)城を攻略する計画が持ち上がっていたということである。しかし、史実上、これに該当する記述が見当たらない。

椵岑城に関する記録を「三国史記」から拾ってみると・・・

武王12年(611)冬10月、新羅の椵岑城を包囲し、城主の讃徳を殺し、その城を滅ぼした。

19年(618)、新羅の将軍辺品らが、椵岑城を攻めて、これをとりもどした。〔この戦いで〕奚論が戦死した。

29年(628)春2月、出兵して新羅の椵岑城を攻めたが、勝てずに帰った。

 

これ以降、固有名詞としては椵岑城の名は出てこないのである。(見落としていなければ)

ドラマの設定では626年にはケベクはまだ少年であり、「三国史記」の628年の記述はわずか2年後ということであてはまりそうにない。なによりこのときは新羅に勝てなかったのだ。

ドラマの配役の年齢差から考えて10年近く経過している・・・という仮定をしてみると、636年前後ということになるのだが、いやそれはあり得ないのである。

史実上の重要な事実だが、632年にはウィジャ(義慈王)は太子となっているのだ。

33年(632)春正月、嫡子の義慈を太子とした。

とすると、ドラマに描かれるカジャム城攻撃は632年より前でなければ辻褄が合わない。そうすると、626年から631年の間ということになるのだが、実はもうひとつ重要な事実がある。

631年にはウィジャの息子が人質として日本にやってきているのだ。

『日本書紀』巻二三舒明天皇三年(六三一)三月庚申朔◆三月庚申朔。百濟王義慈入王子豐章爲質。

三月の庚申(かのえさる)の朔(ついたちのひ)に、百済の王(こきし)義慈(ぎじ)、王子(せしむ)豊章(ほうしょう)を入(たてまつ)りて質(むかはり)とす。

(※豊章は豊璋とも記されるが(余豊璋、扶余豊璋) 、日本で成長し、滅亡後の百済復興に一役買った人物である。詳しくは機会があればいずれ。)

外国に行って暮らせるぐらいの年齢とすると、幼くても5、6歳ぐらい?
しかし、そうするとウィジャが息子を生んだのは626年前後となってしまい、ますます話の辻褄が合わないのだ。(うつけの振りをしていた頃にはすでに嫁を娶っていたということになる)

ということで、結局のところ、ドラマのストーリーはあくまでもドラマ上の設定であり、史実との整合性を求めても仕方がないという、いつもどおりの結論に落ち着きそうだ。(異論、異説あれば歓迎します)

*****

続きあり。

カジャム城攻撃は629年?

 


「ケベク」実在した人物たち ソンチュン

2012年06月10日 | 階伯(ケベク)

ソンチュン(成忠)

ご存知ソルォン@善徳女王である。

このソンチュン(成忠)は、歴史的にもかなり重要な役割を果たした人物であって、おそらくドラマの中でも後半の展開に重大なかかわりを持つはずなので、現段階では「三国史記」からの引用は途中までにしてておく。

16年(656)春3月、王は宮廷の家臣と酒色にふけり、快楽におぼれ、酒をやむことなく飲んでいた。佐平の成忠(せいちゅう)がきびしく諫めたので、王は怒って彼を獄舎につないだ。このことがあってから、諫言するものがいなくなった。・・・

 

それにしてもソルォンの役柄は、トンマンの敵ミシル側とはいえ、非常に魅力的なキャラクターだった。
ミシルが亡くなったあと、ソルォンがミシルの位牌に向かって独白する場面がどこかにあったが、あの演技はとても心に響くもので、いまだによく覚えている。


「ケベク」実在した人物たち 3人の将軍

2012年06月09日 | 階伯(ケベク)

チーム「善徳女王」の3名である。
右からキム・ソヒョン、ソヒョンの部下、ワンニュン(花郎の一人)。ちなみに写真左端の唐の使者は、「朱蒙」にも出ていた。漢の将軍・・・だったかな?

 

ユンチュン(允忠)

義慈王2年(642)8月 将軍允忠に1万人の軍隊を率いて新羅の大耶城(慶南陜川郡陜川面)を攻撃させた。〔大耶城の〕城主の品釈(ひんしゃく)は、妻子とともに〔城を〕出て、降服した。允忠は彼らをことごとく殺し、その首を斬って、それらを王都に送った。男女1千余人を捕虜にし、〔彼らを〕国の西部の州・県に分居させた。〔一部の〕軍隊をとどめてその〔大耶〕城を守らせた。王は允忠の功績を賞して、20匹の馬と1千石の穀物〔とを与えた〕。

このブログでも何度か記事を書いている大耶城攻撃を指揮したのが允忠であった。
しつこいようだが、このとき捕えられ殺害された城主(品釈)の妻というのは、キム・チュンチュの娘コタソである。


ウィジク(義直)

7年(647)冬10月、将軍の義直(ぎちょく)が、歩兵と騎兵の3千人を率いて、新羅の茂山(もざん)城下に進出・駐屯し、軍隊を分けて甘勿(かんこつ)・桐岑(とうしん)の二城を攻めた。新羅の将軍の〔金〕ユシンが、自ら兵士を激励し、決死〔の覚悟〕で戦い、〔百済軍を〕大破した。義直は単騎で〔逃げ〕かえった。

8年(648)春3月、義直は新羅西部国境の腰車(ようしゃ)〔城〕など十余城を襲って、奪い取った。

夏4月、〔義直〕は軍を玉門谷(ぎょくもんこく)まで進めたが、新羅の将軍の〔金〕ユシンが、これを迎え撃って再戦し、〔百済軍〕を大敗させた。

ウンサン(殷相)

9年(649)秋8月、王は左将の殷相(いんそう)を派遣し、精鋭な7千人の軍隊を率いて、新羅の石吐(せきと)城など7城を攻め取らせた。新羅の将軍の〔金〕ユシン・陳春(ちんしゅん)・天存(てんそん)・竹旨(ちくし)らが迎え撃ったが破れた。〔彼らは〕ちりぢりになった兵士を集め道薩(どうさつ)城下に陣をしき、再戦して、わが軍が敗北した。

 


「ケベク」実在した人物たち サゴル

2012年06月08日 | 階伯(ケベク)

サゴル(沙乞)

武王28年(627)秋7月、王は将軍の沙乞(さこつ)に命じて、新羅の西部国境の2城を陥れ、男女3百余人を捕虜にさせた。王は新羅が侵した地方をとりかえそうと、大軍を動員して、熊津(ゆうしん)に集めた。〔新〕羅王真平がこのことを聞いて、使者を派遣し、その危急を唐に告げた。王はその情報を得て、〔出兵を〕中止した。

 

サゴル・・・というかムゴル@朱蒙ですな。


「ケベク」実在した人物たち ヨン・ムンジン&ワン・ヒョリン

2012年06月07日 | 階伯(ケベク)

メイン・キャスト以外に史実上実在した人物をピックアップしていく。
特にコメントしない限り、出典はいつものとおり「三国史記」(東洋文庫版)。

武王8年(607)春3月 杵率(しょそつ:第5等官位)の燕文進を隋に派遣し、朝貢させた。また、佐平の王孝隣を派遣し朝貢させるとともに、高句麗を討伐するよう願い出た。煬帝はこれを許し、高句麗の動静をうかがうよう命じた。


ヨン・ムンジン(燕文進)

第8話でキョギと縁談の進んでいた娘をウンゴの策でウィジャの嫁にしようと企てるが、その娘の父親がヨン・ムンジンである。
ちなみに、ここでウンゴが採用した策はいわゆる「薯童謠(ソドンヨ)」なのであるが、このブログをご覧になっている方には釈迦に説法か。


ワン・ヒョリン(王孝隣)

第2話で密偵を調べていた佐平である。「朱蒙」でヤンタクを演じていた役者さん。


うつけの振りをする皇子

2012年05月15日 | 階伯(ケベク)

(ドラマの進み具合からだいぶ遅れてしまったが・・・)

ドラマ「ケベク」第3話では時代が進み、ケベク誕生から14年後の626年を描く。
面前で母親(ソンファ皇后)を亡くし復讐を誓う幼少期とはうって変わり、あまりに軟弱でおバカなキャラクターへと変貌したウィジャ(のちの義慈王)の姿が見られるのだが、これは果たして素の状態なのか、それとも周りを偽る演技なのか・・・(すでにその真意は明らかになっているが)

626年というと史実上599年生まれのウィジャは26-27歳になっているわけで、30前の男があの様子では確かに呆れるほかないというわけである。(もっとも、そうするとケベクが生まれたという設定の612年にはウィジャは12-13歳になっているはずで、ドラマ中の少年(6歳ぐらい?)とはかなり乖離がある。相変わらず、史実との整合性はあまり気にしていない印象だ。)

ところで、うつけの振りをする皇子といえば「日本書記」の中にも知る人ぞ知る有名な皇子がいる。
ウィジャより数十年あとだが同じ7世紀の話である。

『日本書紀』巻二六斉明天皇三年(657)

九月(ながづき)に、有間皇子(ありまのみこ)、性(ひととなり)黠(さと)くして、陽狂(うほりくるひ)すと、云云(しかしいふ)。

有間皇子は、第36代孝徳天皇の皇子である。

乙巳の変(中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿殺害)の後、女帝皇極天皇に代わってその座についたのが孝徳天皇(皇極天皇の弟)。一般に「大化の改新」と呼ばれる一連の改革事業は、この孝徳天皇の治世にスタートしているわけである。

しかし、この孝徳天皇の最期はなんとも惨めであった。難波宮(大阪)に遷都したのだが、飛鳥に戻りたいという皇太子(中大兄皇子)に同調する者が多く、結果的にはほとんど置いてきぼり状態でむなしくこの世を去ったようである。

時の実権は中大兄皇子の一派が握っていたのだろう。そんな中にあって天皇の皇子というポジションにありながらも、有間皇子の立場はいつ殺されるともわからぬ恐怖のどん底にあったらしい。皇位継承の有力候補でもあるため、邪魔者として見られていたのである。

彼が生き延びるためにはすべてを捨てて狂人のふりをするしかなかった・・・まさに、「ケベク」におけるウィジャのようだったのである。
しかし、結局彼は陰謀に巻き込まれ18歳という若さでこの世を去る。

有間皇子といえば、個人的には、昔読んだ「飛鳥昔語り」というマンガの印象が強い。

ロバート・ブラウン著「よいこの東洋史 第2巻 日本史 第2節 飛鳥」銀河出版社 2305年

・・・というフレーズでどれぐらいの人がピピッと来るだろうか・・・?