「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

「一九二八年三月十五日」第6章

2010-04-01 16:19:56 | 小林多喜二「一九二八年三月十五日」を読む

 龍吉と一緒の室にいた斎藤が便所に行く途中、廊下の突き当りの留置場の前で、
 「おい。」――その留置場の中にいる誰かに呼ばれた、と思った。
 斎藤は足をとどめた。
 「おい。」――声が渡だった。小さい窓へ、内から顔をあてているのが、そういえば渡だった。
 「渡か、俺だ。――何んだ、独りか?」
 「独りだ。皆元気か。」いつもの、高くない底のある声だった。
 「元気だ。――うむ、独りか。」独り、というのが斎藤の胸に来た。
 少し遅れて附いてきた巡査が寄ってきたので、
 「元気でいれ。」といって、歩き出した。
 歩きながら、何故か、これは危いぞ、と思った。室に帰ってから、斎藤はその事を龍吉にいった。龍吉はだまったまま、それがいつもの癖である下唇をかんだ。
 石田は、渡とは便所で会った。言葉を交すことは出来なかったが、がっしり落付いた、いつもの鋼(はがね)のように固い、しっかりした彼の表情を見た。
 「おい、バンクロフトって知ってるか。」石田が斎藤にきいた。
 「バンクロフト? 知らない。コンムュニストか?」
 「活動役者だよ。」
 「そんな、ぜいたくもの覚えてるかい。」
 石田は渡に会ったとき、ひょいと「暗黒街」という活動写真で見た、巨賊に扮したバンクロフトを思い出した。渡――バンクロフト、それが不思議なほど、ピッタリー緒に石田の頭に焼付いた。

 渡は、自分が独房に入れられたとき、(最初組合に踏込まれたときと同じように、) 自分等が主になってやっている非合法的な運動が発覚した、と思った。瞬間、やっぱり顔から血がスウと引けてゆくのが自分でも分った。彼にとっては、しかし、それはそれっきりの事だった。すぐいつもの彼に帰っていた。そしてとくに独房にどっかり座ったとき、遠い旅行から久し振りで自家に帰って来た人のような、広々とくつろいだ気持を覚えた。――渡でも誰でも、朝眼をぱっちり開ける、と待っていたとばかりに、運動が彼をひッつかんでしまう。ビラを持って走り廻る。工場の仲間や市内の支部を廻って、報告を聞き、相談をし、指令を与える。中央からのレポートがくる。それが一々その地の情勢に応じて、色々の形で実行に移されなければならない。委員会が開かれる。石投げのような喧嘩腰の討論が続く。謄写版(とうしゃばん)。組合員の教育、演説会、――準備、ビラ、奔走、演説、検束……彼等の身体は廻転機にでも引っかかったように、引きずり廻される。それは一日の例外もなしに、打(ぶ)ッ続けに、どこまで行っても限りのない循環小数のように続く。――もう沢山だ! そういいたくなる位だ。そしてそのあらゆる間、絶え間なく彼等の心は、張り切り得る最高の限度に常に張り切ッていなければならなかった。しかし「別荘」はその気持に中休みを入れさせてくれる効果を持っている。だから「別荘行き」には皮肉な意味を除けば、ブルジョワの使う「休息」そういう言葉通りの意味も含まっていた。しかし誰もこの後の方の事を口には出していわなかった。そんなことをいえば、一言のもとに非戦闘的だとされることを皆はこっそり知っていたからだった。
 渡は、足を二本前に投げ出して、それを股から膝、脛、足首――それから次には逆に――揉んだり、首や肩を自分の掌刀でたたいたり、深呼吸するように大きく、ゆっくりあくびをしたりした。ふと、渡は、自分は今までゆっくりあくびさえした事のなかった事を思い出した。そして独りで可笑(おか)しくなって、笑い出した。
 四、五日前から鈴本の歌っていたのを聞きながら、いつの間にか覚えた、「夜でも昼でも牢屋は暗い。」の歌を小声で、楽しむように、一つ一つ味いながら、うたって、小さい独房の中を歩いてみた。渡の頭には何も残っていない。そういってよかった。しかし時々今日全国的に開かれる反動内閣倒閣演説会が出来なくなった事と、自分達の運動がちょっとの間でも中断される残念さがジリジリ帰ってきた。が正直にいって――また不思議に、今、渡には、それらの事は眠りに落ちようとする間際に、ひょい、ひょいと連絡もなく、淡く浮んだり、消えたりする不気味なもののようでしかなかった。
 渡は口笛を吹いて歩きながら、板壁を指でたたいてみたり、さすってみたりした。彼は実になごやかな気持だった。監獄に入れられて沈んだり憂鬱になったりする、そういう気持はちっとも渡は知らなかった。彼には始めから、そんな事には縁がなかった。女学生のようにデリケートな、上品な神経などは持合わせていなかった。しかしもっと重大な事は、自分達は正しい歴史的な使命を勇敢にやっているからこそ、監獄にたたき込まれるんだ、という事が、渡の場合、苦しい、苦しいから跳ね返す、跳ね返さずにはいられないその気持と理窟なしに一致していた。彼は、自分の主義主張がコブのように自分の気儘な行動をしばりつけているような窮屈さや、それに対する絶えない良心の苛責などは嘗て感じなかった。渡は、自分ではちっとも、何も犠牲を払っているとは思っていないし、社会的正義のために俺はしているんだぞ、とも思っていない。生(き)のままの「憎い、憎い!」そう思う彼の感情から、少しの無理もなくやっていた。これは彼の底からの気持といってよかった。それに彼はがんばりの意志を持っていた。裏も表もなく、ムキ出しにされていた彼の、その「がんばり」はある時には大黒柱のように頼りにされたが、別な場合には他の組合員の狂犬のような反感をムラムラッとひき起すこともなくはなかった。色々な点で渡と似ていた工藤は、しかし彼のようにいつでも一本調子に「意思」をムキ出しにはしなかった。だから彼は渡のそばにいなければならない「エンゲルス」だ、と皆にひやかし半分にいわれていた。――渡には「二つの気持」ということがなかった。一つの気持がすることを、他の気持が思いかえしたり、思いめぐらしてクヨクヨすることが決してなかった。この事が外から見て、あるいは「鋼(はがね)のような意志」に見えたかも知れなかった。彼はいつでもズバズバとやってのけていた。
 彼は前へすぐ下る髪を、頭を振って、うるさげに払いあげながら、一人いる留置場を歩き廻った。彼の長くない、太い足は柔道をやる人のように外に曲っていた。それで彼の上体はかえって土台のしっかりしたものに乗っている、という感じを与えた。彼は一歩々々踵(かかと)に力を入れて、ゆっくり歩く癖があった。彼の靴は一番先きに、踵の外側だけが、癖の悪い人に使われた墨のように斜めに減った。彼は歩きながら同志の者だちはどうしているだろう、と思った。誰かこういう弾圧に恐怖を抱くものがあっては、その事が一番彼の考えを占めた。もしも長びくようだったら、それがもっと工合悪くなる、彼はそれに対する策略を考えてみた。
 壁には爪や、鉛筆のようなもので、色々な落書がしてあった。退屈になると、渡は丹念にそれを拾い、拾い読んだ。どこにも書かれる男と女の生殖器が大きく二つも三つもあった。
 「俺は泥棒ですよ、ハイ。」「ここの署長は剣難死亡の相あり――骨相家。」「火事、火事、火事、火、火。(これが未来派のような字体で。)」「不良青年とは、もっとも人生を真剣に渡る人のことでなくして何んぞや。呵々(かか)。」「社会主義者よ、何んとかしてくれ。」「お前が社会主義者になれ。」
 男と女の生殖器を向い合わせて書いてある下に「人生の悲喜劇は一本に始って、一本に終るか。鳴呼(ああ)。」
 「私は飯が食えないんです。」「署長よ。御身の令嬢には有名な虫が喰ッついている。」「何んでえ、こったらところ。誰がおっかながるものか。」「労働者よ、強くなれ。」「ここに入ってくるあらゆる人に告ぐ。落書はみっともないから止しにしよう。」「糞でも喰え。」「不当にも自由を束縛されたものにとって、落書は唯だ一つののびのびと解放された楽天地だ。ここに入ってくるあらゆる人に告ぐ、大いに落書をし給え。」「労働者がこの頃生意気になりました。」「この野郎、もう一度いってみろ、たたき殺してやるぞ。労働者。」「巡査さん、山田町の吉田キヨという人妻は、男を三人持っていて、サック持参で一日置きに廻って歩いてるそうだ。探査を望む。」「お前もその一人か。」「妻と子あり、飢えている。俺はこの社会を憎む。」「ウン、大いに憎め。」「働け。」「働け? 働いて楽になる世の中だか考えてからいえ、馬鹿野郎。」「社会主義万歳。」……。
 渡はいつでも入ってくる度に、何か書いてゆくことにしていた。今までに、決めて何度もそうしていた。
 「俺はとうとう巡査の厄介になったよ。悲しい男。」「巡査の嬶(かかあ)で、生活苦のために一回三円で淫売をしているものが、小樽に八人いる。穴知り生。」
 渡はそう書かれている次の空いている壁に、爪で深く傷をつけながら丹念に落書を始めた。熱中すると、知らないうちに余程の時間を消すことが出来た。それは画でも書いているような気持で出来る愉快な仕事だった。成るべく長く書こうと思った。彼は肩先きに力を入れて仕事にとりかかった。熱中したときの癖で、いつの間にか彼は舌を横に出して、一生懸命一字々々刻んで行った。
 おい皆聞け!
 この留置場は俺達貧乏人だけをやッつけるためにあるものなんだ。
 警察とは、城のような塀で囲んだ大きな庭をもっている金持が、金をたんまりつかませて傭っておく番犬のようなものなんだ。
 金持が一度だって、警察に引張られて来た事があるか。
 だが、いや全く、だが、俺たちはクヨクヨしてる暇に力を合わせて、ろくでもない金持と手先きの官憲と、そしてこの碌でもない政治を打ッ壊すことをしなけれはならないのだ。
 クヨクヨしたって涙を損するだけだ。
 メソメソしたんじゃいつまで経ったって、俺だちはやっつけられるだけだ。
 おい、兄弟!
 第一番先(まっさ)きに手を握ろう。しつかり手を握ることだ。
 警察の生くらサーベルで俺だちの団結が、たたき切れると思ったら、たたき切ってみろ!
 俺だち労働者は、働いて、働いて、前へつんのめる位働いて、しかも貧乏している。こんなベラ棒なことがあるか。
 働くものの世界――労働者と百姓の世界。利子で食い、人の頭をはねて遊んで食う金持をタタキのめしてしまった世界。
 俺だちはその社会を建てるのだ。
 おい、手を出せ。
 しっかり握ろう。
 おい、お前も! おい、お前もだ!
 皆、皆!

 かなり長い時間それにかかった。渡は読み返してみて満足を感じた。口笛を吹きながら、コールテンのズボンに手をつッこんで、離れてみたり、近寄ってみたりした。
 夜が明けていた。電燈が消えるとしかし、眼が慣れない間、室の中が急に暗くなった。壁の落書も見えなくなった。青白い、明け方の光が窓の四角に区切られて、下の方へ三、四十度の角度で入ってきていた。渡は急に大きく放屁(ほうひ)した。それから歩きながらも、カを入れて、何度も続けて放屁した。渡は痔(じ)が悪かったので、屁はいくらでも出た。そしてそれが自分でも嫌になるほど、しつこく臭かった。「えッ糞、えッ糞!」渡はその度に片足をちょっと浮かして放屁した。
 八時頃かも知れなかった。入口の鍵がガチャガチャ鳴った。戸が開いて、腰に剣を吊していない巡査が指先の分れている靴下に草履(ぞうり)を引っかけて入ってきた。
 「出るんだ。」
 「動物園の獣じゃないよ。」
 「馬鹿。」
 「帰してくれるのかい、有難いなあ。」
 「取調べだよ。」
 そういったが、急に「臭い、臭い!」と、廊下に飛び出てしまった。
 渡はそれと分ると、大きな声を出して笑い出した。おかしくて、おかしくてたまらなかった。身体を一杯にくねらして、笑いこけてしまった。こんな事が何故こうおかしいのか分らなかったが、おかしくて、おかしくて、たまらなかった。

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