「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

「蟹工船」をめぐめ検閲と文学――1920年代の攻防

2012-02-23 06:25:11 | 多喜二研究の手引き
昨年一月、東京・千代田図書館の主催で、 「発禁本の境界」展が行われた。
また、そのイベントにあわせて、連続講演会が開催された。
現在、その講演がネットが公開されている。



『蟹工船』は、戦前期の発禁本として高名なもののひとつですが、いくつかの版が重ねられており、それぞれ内容に変更が加えられています。

 そのそれぞれについて、当局がどのように判断したか――発売頒布禁止の処分か削除の処分か、中には処分対象にならなかった版もある――を確認し、処分されたものが、どこに現存しているかを探すことになるということです。
 
もともと『蟹工船』の初出は、雑誌の『戦旗』誌上に昭和4年(1929)5月号と6月号の2回に分けて掲載され、そのうちの6月号の分が雑誌を取り締まる新聞紙法に基づく発売頒布禁止処分を受けています。
この初出については、『定本小林多喜二全集』第4巻についている手塚英孝さんによる「解題』中に、「検閲への配慮から全編にわたって、字句の伏字がかなりおこなわれた」と紹介されています。

 その後、雑誌の出版社の戦旗社から、昭和4年9月に本の形で初めての出版が行われました。
それを含め、戦前期において、6つの出版社から11の版が、単行本の形や、他の作品との合冊の形や、全集の中に1編として収録される形で、刊行が重ねられました。それらを概観できるように作成したのが、お手元の一覧表です。
(画像をクリックすると大きな図が出ます)

  『蟹工船』が発禁本となる過程は、いわばホップ、ステップ、ジャンプの三段跳びのようであったようです。
 
一覧表の最初、版⑴が本の形で出版された最初なのですが、これは「一九二八年三月十五日」「蟹工船」の作品2編を収録したもので、禁止になります。

その理由は「一九二八年三月十五日」が悪いからだということで、ですから、そもそもの当初は、禁止のターゲットが「蟹工船」ではなかったということなのです。

 次に版⑶を見てください。版⑴がホップだとすると、今度はステップに移ります。

版⑶は、版⑴の改訂版という位置づけですが、すぐに発売頒布禁止の処分を受けたことが当時の内務省刊行の目録に載っているので確認できます。

版⑶の内務省検閲原本が米国議会図書館に現存しており、今まで国内では見ることができなかったものです。
 その現物上に検閲担当官が残している書き込みを見ると、最終的に2月15日付で発売頒布禁止処分を受けているのですが、これはもともと2か所の削除を行えば出版できるという、削除処分の扱いであったにもかかわらず、出版社が指示どおりにしないので、結局、禁止処分となったという経過が明記されています。

 その書き込みのある表紙の写真が下図です。

その左側の(2)のところに手書きで「昭和五年二月十五日付決裁(削除命令ヲ遵奉セザルヲ以テ禁止)」とあります。
そして右の(1)の部分には、「削除処分モノ/第二十一頁「天皇陛下」ナル文字及ビ第一二三頁「献上品」ナル文字ト次頁ノ附随文字削除/昭和五年二月八日決裁」の手書きと担当者認押印が見られます。


 すなわち、21ページと123ページ以下の一部分を削除すればパスできるとされたものが、その指示を聞かなかったので結局、禁止になったことが分かります。

この経過はこれまでの関係文献には出ていない、初出の事実を示すものだと思います。

 それからちょっと謎めいているのですが、一覧表に版⑵とある出版物があって、内務省の検閲を受けないままに流布されたらしいものが存在していたことを示しています。この版⑵の「後記」には、雑誌『戦旗』での検閲事情が次のように述べられています。

――初版「蟹工船」は「蟹工船」と「一九二八年・三月一五日」の二篇をその内容としてゐた。共に「戦旗」誌上に発表されたものである。改訂版を発行するに当つて「一九二八年・三月一五日」はその全部を削除するの止むなきに至った。「三月一五日」そのものが、現在の検関制度治下では発売頒布を禁ぜられるものとなっている。兎も角、我々は「蟹工船」の再版を急いでゐる。簡単に右の事情を、読者諸君の前に明らかにして置くと共に、我々の真意がかゝる障害に逡巡して終るものではないことを附言する。――

 改訂版は、本来、出版法の条文に従えば、内務省に届け出なくてはならないのですが、これは届け出ないままに刊行したのでしょうね。

そして一覧表の版⑷に行きますと、これには検閲の痕跡がないというか、該当ページの一部分にあらかじめ×××の伏せ字を用いて出版されています。問題部分をあらかじめ伏せ字にすることによって、刊行時はそのままパスできたものと考えられます。
 次のジャンプに当たるのが、昭和7年(1932)刊行の版⑺の小林多喜二全集と、昭和8年(1933)刊行の版⑼の改造文庫版の禁止です。

 当時の取締当局側の月刊誌『出版警察報』に記載されている処分理由を引用しますと、「本書は「蟹工船」及「不在地主」の2編を含み、是等の小説は嚮(さき)に出版せられたる際不問に付せられたるものにして、且つ特に不穏なる箇所は多く伏宇を用ひて居るが、尚階級闘争を煽動し、且つ不敬に亘る点及昭和7年4月11日の記事差止事項に該当する記事あるを以て現下の社会情勢に鑑み今回新たに禁止処分に付せられたるものである」とあります。

 そしてジャンプの最終到達点が、昭和15年の左翼出版物一括禁止ということで、「蟹工船」という作品を収録している単行本や全集類で、それぞれの刊行時点では問題とされなかったものが、遡及して禁止の対象になったという経過です。
版⑻と版⑽がそれに該当します。

 さらに、戦時末期になって、版⑵、版⑹、版⑾が、地元警察署とのやり取りの結果、図書館において閲覧禁止の扱いとなったことにより、「蟹工船」という作品を含むすべての本が、公的には読者の眼前から抹殺されてしまったということになります。
なお、版⑷は、内務省納本(副本)が帝国図書館に交付された後、前述した乙部扱いとなって書庫に入れられ、初めから利用者が閲覧請求できない状態となっていました。

以上引用は下記より

http://www.kanda-zatsugaku.com/110218/0218.html#15
平成23年2月18日 神田雑学大学定例講座N0544

また、

紅野謙介『検閲と文学――1920年代の攻防』(河出ブックス、2009年)もこの問題を考えるうえで、貴重な視点を提示している。

1926年から27年にかけての日本文学に即して、出版の検閲をめぐる歴史を検証である。

「あ紅野とがき」によれば、発売・頒布の歴史や新聞の発行停止などの言論統制はそれ以前にもあったし、小林多喜二が虐殺された1930年代から敗戦までの時期のほうが、むしろ厳しかったという。
しかし、1920年代はマスメディアや出版界にとって大きな変化の時期でもあり、新聞雑誌の大量部数の発行など、文学をめぐる出版状況も大きく変わった。
1925年に公布された治安維持法と普通選挙法のもとで、検閲制度と文学者・出版社の間でどのような葛藤が生じていたのか、その複雑な様相を描いている。

本書の広告文に、「検閲が苛酷さを増してゆくファシズム前夜、文学者・編集者や見えない権力といかに闘ったか」とある。
しかし、読み終わってみて、“闘った”というような分かりやすい二項対立ではなかったことに、かえって納得させられる。

出版社・編集者にとっては、出版したものが全面的な発売停止や部分削除の処分を受ければ、自分たちの生活が立ちゆかなくなる。当然ながら、現場では発売以前に当局(内務省)のチェックを受ける「内閲」といった慣習もあったというし、編集者や著者自身が、検閲をかわすためのギリギリのラインを読んで出版物の内容を自主規制するといったことは、日常的に行われていただろう。

また、内務省の高級官僚で出版検閲をめぐる最高責任者であった松村義一と、志賀直哉・武者小路実篤といった作家は親戚関係でもあり、検閲において取り締まる側と取り締まられる側の距離は遠くなかったことにも本書は触れている。

著者自身が述べるように、本書には文学テクストの解釈や分析はほとんどなく、多くの資料の紹介や引用を通して、文学者や出版人たちが立っていた当時の言説の場を、いわば「かつての集団時代劇や実録もののような展開」を意識して描き出している。
実証を実証だけに終わらせるのではなく、また単純なナショナリズム批判に落とし込むのでもなく、文学の政治・経済的な文化基盤を考えることを目指している。

かつての改造社『文藝』の編集者として、苛酷な言論統制のもとで活躍した高杉一郎氏(2008年没)の肉声が「あとがき」で紹介されているのが興味深い。
「言論統制というものが全くなかったとは言えない時代に、そのコントロールに従いながら、いい仕事をしたということは、非常な誇り」であると氏は語っている。
その“誇り”とはなんだろうか。現実に稼動している検閲を想定しつつ、その基準を内面化することなく、自分の信じる表現を最大限実現させることを目指して、検閲官と交渉し続けること。
そこに、時代の制約の中で信念を通した出版人の姿があるという。

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