五
十五日の夜明け、警察署から帽子の顎紐をかけた警官が何人もあわてた様子で、出たり入ったりしていた。それが何度も何度も繰返された。空色に車体を塗った自動車も時々横付けにされた。自動車がバタバタと機関の音をさせると、警察のドアーが勢よく開いて、片手で剣をおさえた警官が走って出てきた。自動車は一きわ高い爆音をあげて、そこから直ぐ下り坂になっているところを、雪道の窪みにタイヤを落して、車体をゆすりながら、すべり下りてすぐ見えなくなった。ちょっとすると戻ってきて、別な人を乗せると、また出た。
留置場は一杯になっていた。
先きに入れられた者等は、扉の錠がガチャガチャし出すと、今まで勝手にしゃべり散らしていたのを、ぴたりやめて、そこだけに目を注いで――待った。入ってきたのが、渡、鈴本、斎藤、阪西達だと分ると、思わず一緒に歓声をあげた。警備に当っている巡査が鶏冠(とさか)のように赤くなって、背のびをしながら怒鳴ったが、ちっとも効きめがなかった。一緒にされた十四、五人は皆いつも顔を合わせ、第一線に立って闘争してきたものばかりだった。彼等は、それぞれ自分の相手に、興奮してこの不法行為に就いて、大声で論議をし合った。十七、八人ものその声で、室の中は喧噪(けんそう)した。そして彼等は、皆が一緒になったという事から、それに恃(たの)んで、無茶苦茶な乱暴をしたい衝動にかられた。
斎藤は、いきなり身体をマリのように縮めると、ものもいわずに、板壁に身体全部で打ち当って行った。唇をギュッとかんで、顔を真赤にして力みながら、闘牛のように首を少しまげて、それを繰り返した。
「チェッ!」
駄目だと分ると、今度は馬のように後足で蹴り出した。皆も真似をして、てんでに、板壁をたたいたり、蹴ったりした。石田は(彼だけ)腕ぐみをして、時々独り言をしながら、室の中央を歩いていた。
また扉が開いた。しかし今度は鈴本と渡が呼び出されて行った。「どうしたんだ。」――皆は頭株の二人がいなくなると、変に気抜けしてきた。そして、壁をたたくものが、一人やめ、二人やめ、だんだんやめてしまった。
石田は、壁の隅ッこに両足を投げ出したまま眼をつぶっている龍吉に、気付いた。彼は、小川さんも! と思うと、今度の事はとてつもなく大変な事である気がした。と、同時に、その親しさから、どこか頼りある気持にされた。
「小川さん。」石田は寄って行った。
龍吉は顔をあげた。
「今度のは何んです。」
「ウン、俺にも分らないんだよ。今、渡君にでも聞こうと思ってたんだ。」
「今日やる倒閣――。 」
「そうかとも思ってるんだ――が。そうなら今日一日でいいわけだ――が……。」
皆が二人を取巻いてきた。何等理由もきかせず、犬の子か猫の子を処置するように、引張ってきて、ブチ込んだことに対して憤慨した。龍吉もそれはそうだった。
「ねえ、法律にはこう決めてあるんだよ。日出前、日没後に於ては、生命とか身体とか財産に対して、危害切迫せりと認むる時だ、またはさ、賭博、密淫売(みついんばい)の現行ありと認むる時でなかったら、そこに住んでいる人の意に反してだ――どうだ、いいか――現居住者の意に反して、邸宅に入ることを得ず、ッてあるんだ。それを何んだ、夜中の寝込みを襲って! それに理由もいわずに検束するなんて! 警察はこんな事をするところだよ。」
労働者達は一心に聞いていた。そして、畜生、野郎、と叫んで、足ぶみをした。
龍吉は興奮していた。「所が、どうだ憲法にはこうあるんだ、憲法にだぜ。――日本臣民は、だ、法律によるに非ずして逮捕、監禁、審問、処罰を受くることなし。俺達は、ところがどうだ、ちァあんと正式の法律の手続をふんで、一度だって、その逮捕、監禁、審問を受けたことがあったとでもいうのか。――このゴマカシと嘘八百!」
こういわれて、皆は今の場合――現実に、その不当な仕打のワナにかかって、身もだえをしている場合、それらの事がムシ歯の神経に直接(じか)に触わられるように、全身にこたえて行った。
「おい、そこの扉を皆でブチ割って、理由を聞きに行こうじやないか。」
「やろう!」他の者も興奮して、それに同意した。「ひでえ騒ぎ、たゝき起してやるべえ!」
「駄目、駄目」。龍吉が頭を振った。
「どうしてだい」!?
斎藤は組合などでもよくする癖で、肩でつッかかるように龍吉に向って行った。
「こう入ってしまえば、何をしたって無駄さ。逆に、かえってひでえ目に会うが落ちさ。――万事、俺達の運動は、外で、大衆の支持で! 五人、十人の偉そうな乱暴と狂噪(きょうそう)は何んにもならないんだ。俺達が夢にでも忘れてはならない原則にもどるよ。」
「そ、そんなことで、じっとしてられるか! それこそ偉そうな理窟だ、理窟だ!」
石田は側で、相変らずだなア、と思った。巡査が四人入って来た。
皆はギョッとして、そのままの格好に、じいッとしていた。顔一面ザラザラしたひげの、背の低い、がっしりした身体つきの巡査が、留置場の中をグルグル見廻してから、
「貴様等、ここは警察だ位のことは分ってるんだろうな。何んだこのやかましさは!」
一人々々の肩をグイグイと押しのめした。斎藤のところへ来たとき、彼はひょいと肩を引いた。はずみを食らって、巡査の手と身体が調子よく前にヨロヨロと泳いだ。と、巡査は「この野郎!」と不気味な声でいうと、いきなり、斎藤の身体に自分の身体をすり寄せた。斎藤の身体は空に半円を描いて、龍吉の横の羽目板に「ズスン」と鈍い音をたてて、投げつけられていた。
巡査はせわしく肩で息をして、少しかすれた声で「皆、覚えておけ、少しでも騒いだりすると覚悟が要るんだぞ!」といった。
後から入って来た巡査は、紙を見て、一人々々名前を呼んで、その者だけを廊下に出るようにいった。ブツブツいいながら、呼ばれた者は小さい潜り戸を、蹲みながら出て行った。あとに六人残った。
倒れた斎藤が横になったまま、身体を尺取虫(しやくとりむし)のようにして起き上ろうとしていたところを、先の巡査は靴のまま、続けて二度蹴った。
しばらくして、また別な巡査が入ってきて、中にいる六人に一人ずつ附添って、話も出来ないようにしてしまった。
龍吉は高く取り付けてある小さい窓の下に座った。汚く濁った電燈の光が、皆の輪廓をぼかして、動いているのは影だけででもあるような雰囲気だった。それが五分経ち――十分経って行くうちに、初め黄色ッぽい光だった電燈が、へんに薄れて行くようで――一帯が青白くなり、そしてだんだんするうちに、室の中が深い海底(うみそこ)ででもあるような色に変ってゆくのが分った。どこか一部分だけがズキズキする頭で、龍吉は夜が明けかかっているのだな、と思っていた。夜明けらしい、底に滲みこんでくる寒気が、ジリジリときた。寝足りない短い生あくびが室の隅ッこから、それから飛びとびに起きた。龍吉も顔をしかめたまま、生あくびをした。が、そうしても何かカスのようなものが頭と胸にごみごみと不快に残った。
構内は静かになった。凍え切った静かさだった。時々廊下を靴をはいて、小走りにゆくコツコツという音がした。足音が止んで扉を開ける、それが氷でも砕ける響のように聞えた。ドタドタと足音が乱れて、誰か腕をとられながら、何かいい争うようにして前を通ってゆくのもあった。それが終わると、しかし、もとの夜明けらしいどこか変態的な静けさにかえった。誰か、やっぱり短い生あくびをして、表を通り過ぎて行った。
「ねむてえ。寝せてけないのか。」
ボソボソした調子で、片隅からそういうのが聞えた。
「もう夜明けだ。夜が明けるよ。」
巡査も、寝不足の、はれぼったい、ぼんやりした顔をしていた。
龍吉は板壁に身体を寄りかゝらせて、眼をつぶっていた。身体も神経も妙に疲れきっていた。じっと、そうしていると、船にでも乗っているように、自分の身体が静かに巾大きく、揺れているように感じた。彼は検束された時、いつでもそうする癖をつけていたように、取りとめのないことの空想や、想像や、思い出やに疲れてくると、一度読んだ事のある重要な本の復習や、そこから出てくる問題を頭の中で理論的に筋道をつけて考えることに決めていた。また組合や党などで論争された自分の考えなどについて、もう一度始めから清算してみることにしていた。それを始めた。
龍吉は、この前の研究会の時、マルクスの価値説とオーストリア学派の限界効用説に就いて起った議論を、自分が考え、また読んだことのある本の中から材料を探してきて、もう一度考え直そう、そう思っていた……。
彼はすっかりアワを食っていた。ズボンをはきながら、のめったり、よろめいたり、自分ながらそういう自分に不快になるのを感じさえした。しかし、彼は襖一重隣の室で自分を待っている巡査の、カチャカチャするサアベルの音が幸子の耳に聞える、今にも聞える、そう思って、ハラハラしていた。彼はその音が幸子に聞えれば、幸子の「心」にひゞが入ることを知っていた。
「お父さんはねえ、学校の人と一緒に旅行へ行くんだよ。」
幸子が黒い大きな眼をパッチリ、つぶらに開いて、彼を見上げる。
「おみやに何もってきて?」
彼はグッとこたえた。が「うんうん、いいもの、どっさり。」
と、幸子が襖の方へ、くるりと頭を向けた。彼はいきなり両手で自分の頭を押えた。ピーン、陶器の割れるその音を、彼はたしかにきいた。彼は、アッと、内にこもった叫声をあげて、かけ寄ると、急いで幸子の懐を開けてみた。乾葡萄をつけたような二つの乳房の間に、陶器の皿のような心がついている――見ると、髪の毛のようなひゞが、そこに入っているではないか!
あっ、あっ、あっ、あっ……龍吉は続け様にむせたような叫び声をあげた……。
眼を開けると、室の中はけぶったような青白い夜明けの光が、はっきり入ってきていた。皆は疲労しているような恰好で、大きな頭を胸にうずめたり、身体を半分横にしたり、ぼんやりうつろな眼差しを板壁の中位のところに浮かばしていたり、していた。龍吉は軽くゴツンゴツンと板壁に自分の頭を打ちつけてみた。頭の左側の一部分が、やはり、そこだけズキ、ズキしていた。彼は今うつつに見た夢が、不気味な実感の余韻をいつまでも心に残していることを感じた。
しかし、龍吉は今では自分でもそうと分る程、こういうところにたたき込まれた時のおきまりの感傷的な絶望感から逃れ得ていた。それは誰でもが囚われる――そして、それは或る場合、当人を事実全く気狂いのようにしてしまうかも知れない――堪え難い、ハケ口のない陰鬱な圧迫だった。このためにだけでも、何人もこの運動から身を引いて行った人のあることを龍吉は見て来ていた。龍吉だっても、勿論そこを危い綱渡りのように通ってきた。そして一回、一回不当な残虐な弾圧を受ければ、受けるその度毎に、今までに彼のうちに多分に残されていた末梢神経がドシドシすり減らされて行った。ムシ歯に這い出ている神経のように、ちょっとしたことにでもピリピリくる彼の(軽蔑の意味でのデリケートな)心がだんだん鋼鉄のように鍛えられて行くのを感じた。それは、しかし龍吉にとっては、文字通り「連続した拷問」の生活だった。龍吉のように、「インテリゲンチャ」の過去を持ったものが、この運動に真実に、頭からではなしに、「身体をもって」入り込もうとする時、それはしかし当然の過程として課せられなければならない「訓練」であった。それはまた、そして、単純な道ではあり得なかった。――髪の毛をひッつかんで引きずり廻されるような、ジグザックな、しかも胸突八丁だった。
龍吉は、インテリゲンチャはその階級的中間性の故に、結局中ぶらりんで、農村と工場からの健康な足音に対しては没落することしか出来ないものであり、あるいはその運動に合流して行ったところで、やっぱりそこには、どこか膚合(はであい)の決して合わないところがあり、またその知識の故に、ブルジョワ文化に対しては強いなり、淡いなり、またはこっそりと、未練と色気を抱き勝ちであり、――そして、ひっくるめていって、インテリゲンチャはそういう事を、あまりに強く、度々、意識するために「自己催眠」的に、俺は駄目だ、とし、結局何ごとも出来ないし、しない事になるのを、彼は知っていた。自分が、とどのつまり何んにもしない、という事に一生懸命理窟をつける、そんな事は馬鹿げ切ったことでしかない、と思った。そういう事を本気に、憑かれたように考えることは危険であり、そのために、この時間さえ贅沢にも消費することは、どうしたって正しい事ではない、と思った。彼は、自分達は胸突八丁を一つ、一つの足場を探し、踏みしめ登って行きさえすれば、結局何かを「している」事になるのではないか、そう思うと、青白く考えこんでばかりいる彼等が不思議でならなかった。
頭の中でばかり考え込んでいれば、それは室の中に迷いこんだ小鳥のように、その四つの壁に頭がつッかえるのは分り切ったことではないか。考えるのはもう沢山だ。お前達は「理窟」が小うるさく多すぎる。理窟で家の出来たためしが無いんだ!
龍吉は今では警察に留置されることには、無意識に近くなれた。東京からの同志たちは監獄(今では、たゞ言葉だけ上品に! いいかえられて刑務所)に行ったり、検束されることを、ブルジョワの口吻(こうふん)を借りて「別荘行き」といっていた。いくら無産階級先鋒の闘士だって嬉々として別荘行きはしなかったが、一般人の生活にとっては可なりの重大事件でなければならない監獄行きを、そういえる程の気楽さにまでなれていた。自分達の運動で、いつでもクヨクヨ監獄に拘っていたのでは、クサメーつさえ気儘に出来ないではないか。この運動は道楽なスボーツではないんだ。
――龍吉は妙に、しかし心にしみこんで来る幸子のことを頭から払い落そうとするように、大きくあくびをした。片隅で斎藤が余程長く伸びている髪を、やけに両手の指を熊手のようにして逆にかき上げた。
交代の時間が来て、一人に一人ずつ付いていた巡査が出て行った。時々龍吉の家にくるので知っている須田巡査が、出て行きしなに彼へ、
「ねえ、小川君、実際こんなことがあるとたまらないよ。――非番も何もあったもんでない。身体が参るよ。」――そう言ったのに、変な実感があった。
彼は、人をふんだり、蹴ったりする巡査らしくない親しみを感じ、ひょっとすると、それが彼の素地であるかも知れないものをそこに見た気がして、意外に思った。
「実際、ご苦労さんだ」。
皮肉でなく、そういわさった。
斎藤は「ご苦労――お。」と、ブッ切ら棒に捨科白(すてぜりふ)のように巡査の後に投げつけた。
外の巡査が皆出てしまうと、須田巡査が、
「何か自家(うち)にことづけが無いか。」と、ひくくきいた。
龍吉はちょっと何もいえずに、思わず須田の顔を見た。
「いいや、別に――ありがとう…… 」。
須田は頭でうなずいて出て行った。少し前こごみな官服の円い肩が、妙に貧相に見えた。
「あ――あ、煙草飲みたいなア。」誰かが独言のようにいった。
「もう、夜が明けるぞ……。 」
十五日の夜明け、警察署から帽子の顎紐をかけた警官が何人もあわてた様子で、出たり入ったりしていた。それが何度も何度も繰返された。空色に車体を塗った自動車も時々横付けにされた。自動車がバタバタと機関の音をさせると、警察のドアーが勢よく開いて、片手で剣をおさえた警官が走って出てきた。自動車は一きわ高い爆音をあげて、そこから直ぐ下り坂になっているところを、雪道の窪みにタイヤを落して、車体をゆすりながら、すべり下りてすぐ見えなくなった。ちょっとすると戻ってきて、別な人を乗せると、また出た。
留置場は一杯になっていた。
先きに入れられた者等は、扉の錠がガチャガチャし出すと、今まで勝手にしゃべり散らしていたのを、ぴたりやめて、そこだけに目を注いで――待った。入ってきたのが、渡、鈴本、斎藤、阪西達だと分ると、思わず一緒に歓声をあげた。警備に当っている巡査が鶏冠(とさか)のように赤くなって、背のびをしながら怒鳴ったが、ちっとも効きめがなかった。一緒にされた十四、五人は皆いつも顔を合わせ、第一線に立って闘争してきたものばかりだった。彼等は、それぞれ自分の相手に、興奮してこの不法行為に就いて、大声で論議をし合った。十七、八人ものその声で、室の中は喧噪(けんそう)した。そして彼等は、皆が一緒になったという事から、それに恃(たの)んで、無茶苦茶な乱暴をしたい衝動にかられた。
斎藤は、いきなり身体をマリのように縮めると、ものもいわずに、板壁に身体全部で打ち当って行った。唇をギュッとかんで、顔を真赤にして力みながら、闘牛のように首を少しまげて、それを繰り返した。
「チェッ!」
駄目だと分ると、今度は馬のように後足で蹴り出した。皆も真似をして、てんでに、板壁をたたいたり、蹴ったりした。石田は(彼だけ)腕ぐみをして、時々独り言をしながら、室の中央を歩いていた。
また扉が開いた。しかし今度は鈴本と渡が呼び出されて行った。「どうしたんだ。」――皆は頭株の二人がいなくなると、変に気抜けしてきた。そして、壁をたたくものが、一人やめ、二人やめ、だんだんやめてしまった。
石田は、壁の隅ッこに両足を投げ出したまま眼をつぶっている龍吉に、気付いた。彼は、小川さんも! と思うと、今度の事はとてつもなく大変な事である気がした。と、同時に、その親しさから、どこか頼りある気持にされた。
「小川さん。」石田は寄って行った。
龍吉は顔をあげた。
「今度のは何んです。」
「ウン、俺にも分らないんだよ。今、渡君にでも聞こうと思ってたんだ。」
「今日やる倒閣――。 」
「そうかとも思ってるんだ――が。そうなら今日一日でいいわけだ――が……。」
皆が二人を取巻いてきた。何等理由もきかせず、犬の子か猫の子を処置するように、引張ってきて、ブチ込んだことに対して憤慨した。龍吉もそれはそうだった。
「ねえ、法律にはこう決めてあるんだよ。日出前、日没後に於ては、生命とか身体とか財産に対して、危害切迫せりと認むる時だ、またはさ、賭博、密淫売(みついんばい)の現行ありと認むる時でなかったら、そこに住んでいる人の意に反してだ――どうだ、いいか――現居住者の意に反して、邸宅に入ることを得ず、ッてあるんだ。それを何んだ、夜中の寝込みを襲って! それに理由もいわずに検束するなんて! 警察はこんな事をするところだよ。」
労働者達は一心に聞いていた。そして、畜生、野郎、と叫んで、足ぶみをした。
龍吉は興奮していた。「所が、どうだ憲法にはこうあるんだ、憲法にだぜ。――日本臣民は、だ、法律によるに非ずして逮捕、監禁、審問、処罰を受くることなし。俺達は、ところがどうだ、ちァあんと正式の法律の手続をふんで、一度だって、その逮捕、監禁、審問を受けたことがあったとでもいうのか。――このゴマカシと嘘八百!」
こういわれて、皆は今の場合――現実に、その不当な仕打のワナにかかって、身もだえをしている場合、それらの事がムシ歯の神経に直接(じか)に触わられるように、全身にこたえて行った。
「おい、そこの扉を皆でブチ割って、理由を聞きに行こうじやないか。」
「やろう!」他の者も興奮して、それに同意した。「ひでえ騒ぎ、たゝき起してやるべえ!」
「駄目、駄目」。龍吉が頭を振った。
「どうしてだい」!?
斎藤は組合などでもよくする癖で、肩でつッかかるように龍吉に向って行った。
「こう入ってしまえば、何をしたって無駄さ。逆に、かえってひでえ目に会うが落ちさ。――万事、俺達の運動は、外で、大衆の支持で! 五人、十人の偉そうな乱暴と狂噪(きょうそう)は何んにもならないんだ。俺達が夢にでも忘れてはならない原則にもどるよ。」
「そ、そんなことで、じっとしてられるか! それこそ偉そうな理窟だ、理窟だ!」
石田は側で、相変らずだなア、と思った。巡査が四人入って来た。
皆はギョッとして、そのままの格好に、じいッとしていた。顔一面ザラザラしたひげの、背の低い、がっしりした身体つきの巡査が、留置場の中をグルグル見廻してから、
「貴様等、ここは警察だ位のことは分ってるんだろうな。何んだこのやかましさは!」
一人々々の肩をグイグイと押しのめした。斎藤のところへ来たとき、彼はひょいと肩を引いた。はずみを食らって、巡査の手と身体が調子よく前にヨロヨロと泳いだ。と、巡査は「この野郎!」と不気味な声でいうと、いきなり、斎藤の身体に自分の身体をすり寄せた。斎藤の身体は空に半円を描いて、龍吉の横の羽目板に「ズスン」と鈍い音をたてて、投げつけられていた。
巡査はせわしく肩で息をして、少しかすれた声で「皆、覚えておけ、少しでも騒いだりすると覚悟が要るんだぞ!」といった。
後から入って来た巡査は、紙を見て、一人々々名前を呼んで、その者だけを廊下に出るようにいった。ブツブツいいながら、呼ばれた者は小さい潜り戸を、蹲みながら出て行った。あとに六人残った。
倒れた斎藤が横になったまま、身体を尺取虫(しやくとりむし)のようにして起き上ろうとしていたところを、先の巡査は靴のまま、続けて二度蹴った。
しばらくして、また別な巡査が入ってきて、中にいる六人に一人ずつ附添って、話も出来ないようにしてしまった。
龍吉は高く取り付けてある小さい窓の下に座った。汚く濁った電燈の光が、皆の輪廓をぼかして、動いているのは影だけででもあるような雰囲気だった。それが五分経ち――十分経って行くうちに、初め黄色ッぽい光だった電燈が、へんに薄れて行くようで――一帯が青白くなり、そしてだんだんするうちに、室の中が深い海底(うみそこ)ででもあるような色に変ってゆくのが分った。どこか一部分だけがズキズキする頭で、龍吉は夜が明けかかっているのだな、と思っていた。夜明けらしい、底に滲みこんでくる寒気が、ジリジリときた。寝足りない短い生あくびが室の隅ッこから、それから飛びとびに起きた。龍吉も顔をしかめたまま、生あくびをした。が、そうしても何かカスのようなものが頭と胸にごみごみと不快に残った。
構内は静かになった。凍え切った静かさだった。時々廊下を靴をはいて、小走りにゆくコツコツという音がした。足音が止んで扉を開ける、それが氷でも砕ける響のように聞えた。ドタドタと足音が乱れて、誰か腕をとられながら、何かいい争うようにして前を通ってゆくのもあった。それが終わると、しかし、もとの夜明けらしいどこか変態的な静けさにかえった。誰か、やっぱり短い生あくびをして、表を通り過ぎて行った。
「ねむてえ。寝せてけないのか。」
ボソボソした調子で、片隅からそういうのが聞えた。
「もう夜明けだ。夜が明けるよ。」
巡査も、寝不足の、はれぼったい、ぼんやりした顔をしていた。
龍吉は板壁に身体を寄りかゝらせて、眼をつぶっていた。身体も神経も妙に疲れきっていた。じっと、そうしていると、船にでも乗っているように、自分の身体が静かに巾大きく、揺れているように感じた。彼は検束された時、いつでもそうする癖をつけていたように、取りとめのないことの空想や、想像や、思い出やに疲れてくると、一度読んだ事のある重要な本の復習や、そこから出てくる問題を頭の中で理論的に筋道をつけて考えることに決めていた。また組合や党などで論争された自分の考えなどについて、もう一度始めから清算してみることにしていた。それを始めた。
龍吉は、この前の研究会の時、マルクスの価値説とオーストリア学派の限界効用説に就いて起った議論を、自分が考え、また読んだことのある本の中から材料を探してきて、もう一度考え直そう、そう思っていた……。
彼はすっかりアワを食っていた。ズボンをはきながら、のめったり、よろめいたり、自分ながらそういう自分に不快になるのを感じさえした。しかし、彼は襖一重隣の室で自分を待っている巡査の、カチャカチャするサアベルの音が幸子の耳に聞える、今にも聞える、そう思って、ハラハラしていた。彼はその音が幸子に聞えれば、幸子の「心」にひゞが入ることを知っていた。
「お父さんはねえ、学校の人と一緒に旅行へ行くんだよ。」
幸子が黒い大きな眼をパッチリ、つぶらに開いて、彼を見上げる。
「おみやに何もってきて?」
彼はグッとこたえた。が「うんうん、いいもの、どっさり。」
と、幸子が襖の方へ、くるりと頭を向けた。彼はいきなり両手で自分の頭を押えた。ピーン、陶器の割れるその音を、彼はたしかにきいた。彼は、アッと、内にこもった叫声をあげて、かけ寄ると、急いで幸子の懐を開けてみた。乾葡萄をつけたような二つの乳房の間に、陶器の皿のような心がついている――見ると、髪の毛のようなひゞが、そこに入っているではないか!
あっ、あっ、あっ、あっ……龍吉は続け様にむせたような叫び声をあげた……。
眼を開けると、室の中はけぶったような青白い夜明けの光が、はっきり入ってきていた。皆は疲労しているような恰好で、大きな頭を胸にうずめたり、身体を半分横にしたり、ぼんやりうつろな眼差しを板壁の中位のところに浮かばしていたり、していた。龍吉は軽くゴツンゴツンと板壁に自分の頭を打ちつけてみた。頭の左側の一部分が、やはり、そこだけズキ、ズキしていた。彼は今うつつに見た夢が、不気味な実感の余韻をいつまでも心に残していることを感じた。
しかし、龍吉は今では自分でもそうと分る程、こういうところにたたき込まれた時のおきまりの感傷的な絶望感から逃れ得ていた。それは誰でもが囚われる――そして、それは或る場合、当人を事実全く気狂いのようにしてしまうかも知れない――堪え難い、ハケ口のない陰鬱な圧迫だった。このためにだけでも、何人もこの運動から身を引いて行った人のあることを龍吉は見て来ていた。龍吉だっても、勿論そこを危い綱渡りのように通ってきた。そして一回、一回不当な残虐な弾圧を受ければ、受けるその度毎に、今までに彼のうちに多分に残されていた末梢神経がドシドシすり減らされて行った。ムシ歯に這い出ている神経のように、ちょっとしたことにでもピリピリくる彼の(軽蔑の意味でのデリケートな)心がだんだん鋼鉄のように鍛えられて行くのを感じた。それは、しかし龍吉にとっては、文字通り「連続した拷問」の生活だった。龍吉のように、「インテリゲンチャ」の過去を持ったものが、この運動に真実に、頭からではなしに、「身体をもって」入り込もうとする時、それはしかし当然の過程として課せられなければならない「訓練」であった。それはまた、そして、単純な道ではあり得なかった。――髪の毛をひッつかんで引きずり廻されるような、ジグザックな、しかも胸突八丁だった。
龍吉は、インテリゲンチャはその階級的中間性の故に、結局中ぶらりんで、農村と工場からの健康な足音に対しては没落することしか出来ないものであり、あるいはその運動に合流して行ったところで、やっぱりそこには、どこか膚合(はであい)の決して合わないところがあり、またその知識の故に、ブルジョワ文化に対しては強いなり、淡いなり、またはこっそりと、未練と色気を抱き勝ちであり、――そして、ひっくるめていって、インテリゲンチャはそういう事を、あまりに強く、度々、意識するために「自己催眠」的に、俺は駄目だ、とし、結局何ごとも出来ないし、しない事になるのを、彼は知っていた。自分が、とどのつまり何んにもしない、という事に一生懸命理窟をつける、そんな事は馬鹿げ切ったことでしかない、と思った。そういう事を本気に、憑かれたように考えることは危険であり、そのために、この時間さえ贅沢にも消費することは、どうしたって正しい事ではない、と思った。彼は、自分達は胸突八丁を一つ、一つの足場を探し、踏みしめ登って行きさえすれば、結局何かを「している」事になるのではないか、そう思うと、青白く考えこんでばかりいる彼等が不思議でならなかった。
頭の中でばかり考え込んでいれば、それは室の中に迷いこんだ小鳥のように、その四つの壁に頭がつッかえるのは分り切ったことではないか。考えるのはもう沢山だ。お前達は「理窟」が小うるさく多すぎる。理窟で家の出来たためしが無いんだ!
龍吉は今では警察に留置されることには、無意識に近くなれた。東京からの同志たちは監獄(今では、たゞ言葉だけ上品に! いいかえられて刑務所)に行ったり、検束されることを、ブルジョワの口吻(こうふん)を借りて「別荘行き」といっていた。いくら無産階級先鋒の闘士だって嬉々として別荘行きはしなかったが、一般人の生活にとっては可なりの重大事件でなければならない監獄行きを、そういえる程の気楽さにまでなれていた。自分達の運動で、いつでもクヨクヨ監獄に拘っていたのでは、クサメーつさえ気儘に出来ないではないか。この運動は道楽なスボーツではないんだ。
――龍吉は妙に、しかし心にしみこんで来る幸子のことを頭から払い落そうとするように、大きくあくびをした。片隅で斎藤が余程長く伸びている髪を、やけに両手の指を熊手のようにして逆にかき上げた。
交代の時間が来て、一人に一人ずつ付いていた巡査が出て行った。時々龍吉の家にくるので知っている須田巡査が、出て行きしなに彼へ、
「ねえ、小川君、実際こんなことがあるとたまらないよ。――非番も何もあったもんでない。身体が参るよ。」――そう言ったのに、変な実感があった。
彼は、人をふんだり、蹴ったりする巡査らしくない親しみを感じ、ひょっとすると、それが彼の素地であるかも知れないものをそこに見た気がして、意外に思った。
「実際、ご苦労さんだ」。
皮肉でなく、そういわさった。
斎藤は「ご苦労――お。」と、ブッ切ら棒に捨科白(すてぜりふ)のように巡査の後に投げつけた。
外の巡査が皆出てしまうと、須田巡査が、
「何か自家(うち)にことづけが無いか。」と、ひくくきいた。
龍吉はちょっと何もいえずに、思わず須田の顔を見た。
「いいや、別に――ありがとう…… 」。
須田は頭でうなずいて出て行った。少し前こごみな官服の円い肩が、妙に貧相に見えた。
「あ――あ、煙草飲みたいなア。」誰かが独言のようにいった。
「もう、夜が明けるぞ……。 」
欧米では、警察官には団結権が認められていて、組合も普及しているそうですが、日本は未だに警察官の組合結成が認められていません。多喜二はそのようなことも考えていたのかもしれないと思いました。
”漱石の「金力」批判と近代日本の資本家像ー「それから」を中心にして”(中村泰行氏著:「民主文学」2010年3月号)が取り上げられました。「それから」は何度も読んだつもりだったのですが、中村氏の評論を勉強して、「それから」の読み方を新たに教えられたような感じです。
主人公・代助は兄に生活費・遊興費を依存していたのですが、兄はそうした出費を将来の政略結婚に代助を手駒として利用したかったということは、私はこれまで十分読みきれていませんでした。代助は兄に経済的に依存しながらも、父や兄の金権志向に批判的な見方をしていたのですが、それは漱石の「金力」批判を投影していたと同評論は説いています。こうした漱石の批判精神が、プロレタリア文学へと地下水脈のように日本の文学の流れとして継承されていったのかなと想像しました。
「それから」の中で、警察が幸徳秋水を見張ることに多大なエネルギーを費やしていることが揶揄されていますが、漱石が幸徳秋水について言及していたことは興味深いです。