「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

毒ガス戦の視角からとらえた「党生活者」の世界 〈目次〉

2014-12-29 18:17:51 | 「党生活者」論 序曲

第一部        舞台-倉田工業の虚と実

1地下鉄サリン事件が呼び出したもの

2 党生活者が描いた「倉田工業」

3「倉田工業」を蔵原惟人はどう受けとめたか

4 「党生活者」のモデル工場についての証言、検証・研究の歩み

5 毒ガス戦のなかの「藤倉工業」

6 「党生活者」の舞台、「藤倉工業」の現在

 

第二部          時代 上海事変

1「党生活者」のモチーフ

2党生活者・小林多喜二

3最初の結実

4反帝同盟、台湾「霧社事件」と毒ガス戦 

5もう一つの「党生活者」物語

第三部     多喜二「党生活者」は何を描いたか 

1〈文学〉が〈戦争〉を描く意味―多喜二「党生活者」と旧日本軍の生物化学戦準備

2〈あらすじ〉

3〈生活〉

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・蔵原惟人「生活組織としての芸術と無産階級」が提起した課題

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4〈党〉

5〈群像〉

6「党生活者」に描かれた、毒ガス戦準備と闘う反戦労働者たち

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7 工場を描くー工場細胞

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●登場人物

太田

佐々木

伊藤

須山

下宿のおばちゃん

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●前衛を描く 山本懸藏 渡辺政之輔

「東倶知安行」、「一九二八・三・一五」、「工場細胞」・「オルグ」、「暴風警戒報」

(1)「三・一五」 登場人物モデルと喪われた末尾の原稿

 登場人物のモデルとなった人々について、ノートには以下の通り記されている。

「小川龍吉―古川友一。渡―渡辺利右衛門。鈴本―鈴木。阪西―大西、斎藤―鮒田、高橋、石田―X(理想的な人物に伊藤信二)、佐多―寺田行雄」なお、「理想的な人物に」は「渡―渡辺」とも線で結ばれているという。

 特に、龍吉のモデルである古川と、佐多のモデルである寺田とは多喜二は深く関係していた。

 また、多喜二の原稿ではタイトルは「一九二八・三・一五」となっているが、『戦旗』の編集者・立野信之が「一九二八年三月十五日」と改題し、以降そのままになっているほか、「付記」を削除して発表され、その部分の原稿は喪われた。ただし、原稿帳にその下書きが残されていたので全集解題には採録されている。

 蔵原惟人は「プロレタリア文芸の画期的作品―小林多喜二の「一九二八年三月十五日」」都新聞 (1928.12.17)で、「本年度に現れた創作の中で最も注目に値するものの一つとして私は小林多喜二の小説「一九二八年三月十五日」を挙げる。

と絶賛。献呈を受けた志賀直哉も、1931年(昭和6)8月7日付返書で「一つの事件の色々な人の場合をよく集め、よく書いてあると思います」と評価した。

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●女性活動家たち ローザ

●宮本百合子「乳房」―タミノの形象の背景にあるもの―激浪のなかを生きた"をんな"たち

ふじ子

第四部          方法

1 志賀直哉 リアリズム

2 葉山嘉樹

3黒島伝治

4 ゴリキー

5ショーロホフ 静かなるドン

6一週間

蔵原惟人「プロレタリア・レアリズムへの道」「一九三〇年の第2回大会で、作家同盟は『文学のボルシェビキ化』を決議した。そして『前衛の目をもって書く』ことを目標としてやって来た。

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●多喜二「蟹工船」ルポ・モンタージュ的手法

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三一年七月、多喜二は無署名で「『政治的明確性』の把握の問題に寄せて」という論文を『プロレタリア文学』(第1巻9号)に掲載した。

       鹿地亘

●ソ連における社会主義リアリズムの提唱

 1932年4月、ソ連で共産党中央委員会によってプロレトクリト、ラップその他の文化団体は解散を命じられ、同時に「社会主義建設に参加しようとする意向をもつすべての作家を単一なソヴェート作家同盟に統一する」ことが要求された。社会主義リアリズムは、「唯物弁証法的創作方法」という作家の世界観がすなわち創作方法であるとし、作品が形骸化していたラップに対する批判として、「創作上の創意を発揮する可能性、および形式・スタイル・ジャンルの多様な選択の可能性を完全に保証する」芸術の方法として提起

●〈私〉とは

●多喜二の長編作について触れた宮本顕治の二つの言葉 

●宮本顕治「小林多喜二の回想」(『前衛』1947/5)

=「『党生活者』を書いたころ、小林はトルストイの『戦争と平和』を読んでいたことが知られている。」

「世界文学の高い峰からみて”綴り方“程度であっては駄目だ。私たちはそう言って、日本のプロレタリア文学のなかからも、世界文学の頂につらなるようなものを生まなくてはと語り合った。」「新しい時代の『戦争と平和」は、困難な時代の課題に直面して、良心的に発展的にそれを乗り越えて力闘する生活の地盤から生まれるものでなくてはならなかった。」

 ●手塚英孝が多喜二の長編について触れた文章は、多喜二の大きなトランク」( 『新人会』no.3 1972)に=かれはこうした生活のなかで、長編「転形期の人々」の続稿を考え、「党生活者」時代の大きな長編を考えていました。

 は、ということとイコールの意味ではない。

1932年の時間を1931年満州事変という戦時下での生活擁護、反戦・革命の国際主義の活動とそれをめぐる弾圧と分裂・敗北主義との闘争ということになるのだろうかと思う。

 ●宮本顕治「一つの感想」(『多喜二と百合子』 1961/3)=「このごろ感じている問題の一つだが、小林多喜二や宮本百合子がすぐれた文学者であったが、同時に彼らが日本共産党員であった意義について、すくなくとも日本共産党はもっとふかく考えふかめる必要がある。(略)小林多喜二も宮本百合子も共産党中央委員会の有力なはたらき手であった。小林多喜二は地下にあった日本共産党の働き手として文学運動だけではなく、芸術・文化全体の指導的な活動家であった。宮本百合子は再建まもない党の中央委員候補であり、第六回党大会では健康上などの事情から辞退したが、党の統制委員に推された。少なくとも日本共産党は、この二人の文学者の生活のこうした側面に新しく深い注意を向ける必要がある。(略)彼らが日本共産党員として生き死んだ意義をも重視して明らかにすることが、過去と未来にたいする新しい責任であると考える。」

宮本顕治は、 といいながらも、せいぜい芸術・文化分野の活動家としているだけだ。ところが貴司山治が編集した戦前のナウカ版『多喜二全集』の略歴では、赤旗の編集委員となっているし、反帝同盟執行委員であり、共産青年同盟員でもあるとしている。

第五部          戦争観

 ・日本近代文学と戦争―「十五年戦争」期の文学を通じて」をテーマとしたシンポジウムが二〇一〇年十一月、愛知県立大学で開催された。この論文集『日本近代文学と戦争』(三弥井書店 二〇一二)が今春に刊行され、ノーマ・フィールド(米国・シカゴ大学教授)の「「党生活者」はなにを訴えてきたのだろうか」が収録された▼ノーマは、島村輝「「党生活者」序論」(『「文学」としての小林多喜二』(『国文学解釈と鑑賞』別冊・至文堂所収)での、前篇で多喜二は時の権力によってその生命を絶たれ、作品は中絶させられたが、もし多喜二が生きて「党生活者」の中篇、後篇を書くことができたら、《笠原に対する扱いや感覚が、やがて根本的に批判》されたのではないかとの指摘に共感を示した。▼ここにこそ多喜二が、「党生活者」への改題を編集者に宛てた手紙のなかで、「この作品で私は『カニ工船』や『工場細胞』などのような私の今迄の行き方とちがった冒険的試みをやってみました。」(八月二日付)、「今までのプロレタリア小説の型から抜け出ようと、努力してみた作品です。今迄の私の一系列の作品から見ても、私はこの作品の成果を特に注目しています。単なる失敗をおそれずに書いたものです」(八月下旬)と、その狙いがあることを明らかにした。

▼ノーマは、この前の節で、平野謙VS中野重治などの「ハウスキーパー論争」を概括し、

イ)「論争は《ハウスキーパー問題》の核心に迫ることはできなかった。簡単にいってしまえば、……彼らは笠原の扱いを評する際、多喜二の作品群はおろか、「党生活者」の全体を考慮しようとしなかった。擁護する側、中野重治についても、ほぼ同じことがいえよう」としたうえで、(ロ)「ハウスキーパー論争からは戦争(丶 丶)がぬけていた。もともと一つの作品の両面であったものが切り離されてしまったのであれば、それをつなぎあわせる努力なしには、「党生活者」が私たちに向けた問いかけに応えることはできない」。

(ハ)多喜二が「生命をかけた運動についての根本的問いかけ」であり、「そこには当面の闘いだけでなく、党の未来、平和が勝ち取られたときの党のありかたも延長線にあったのではないか」

と、これまでの歪んだ読みを修正する、目からウロコが落ちるような貴重な指摘をしている。

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●「満州事変」は多喜二にとってどういう意味があったのか。

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  多喜二は「右翼的偏向の諸問題」「続右翼的偏向の諸問題」などの評論を連続して執筆し、文学・文化運動の階級的発展の指導に献身するとともに、自分自身も小説「地区の人々」、「転形期の人々(断稿)」などの執筆に果敢にとりくんだ。

 

●中国の政治情勢の変転をあらまし理解しておくことが必要である。では、この時期に日本は、中国との関係でどのような行動をとってきたのか。その中心点をあげると、次のとおりです。

 小林多喜二、「戦争と文学」(完三二年)

石原莞爾と満州事変:「満州事変から日中戦争」を読む

 西沢舜一

伊豆利彦

大田 努

津田 孝

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●多喜二の日本革命の展望ーふじ子に残された27テーゼ

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27テーゼ

31テーゼ草案

32テーゼ

 

8・1反戦デー

「七月二十六日の経験」

 

●小樽高商での震災義捐英語劇での多喜二

「銀行のはなし」

「ある老体操教師」

「蟹工船

「工場細胞」

「戦争から帰ってきた職工 ―8・1(反戦)デー近づく」

●反戦文学に高い峰を築いた黒島伝治

〈運動〉エンゲルスの『ドイツ農民戦争』の翻訳 北海道農民運動のかがやき

        天皇制

        労農同盟

    極東反戦会議

 

第六部     党生活者・多喜二と天皇、弾圧の手先・スパイ三船たち

●権力-暴力装置 警察・軍隊

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多喜二入党をめぐって

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資金供与

作家同盟

コップ結成と展開

青年同盟

アジ・プロ

赤旗

反帝同盟

 

生江健二予審調査

蔵原惟人予審終結決定

・笹森

・松村

・三船

 

 

第七部     論争史

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ハウスキーパー

大泉兼蔵 予審調書

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林房雄

平野謙

 

第八部     資料

多喜二三一年出獄からの年譜

毒ガス

池田寿夫

今村恒夫

原発

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蟹工船ブーム

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国際化

 

まとめ

 


11月13日(木)のつぶやき

2014-11-14 01:11:11 | 「党生活者」論 序曲

◎「党生活者」登場の人々の像...

2014-11-13 23:52:04 | 「党生活者」論 序曲

◎人々の像...
佐々木安治の場合・・・・・志賀直哉「佐々木の場合」からの影響、「安子」の組合の仲間佐々木、「転形期の人々」の佐々木。佐々木は小樽高商の「学連」に属し、軍事教練反対運動に参画した経験がある。「地区の人々」の〈佐々木芳之助〉は、N鉄工所に勤める19歳の職工とともにビラ貼りなどをし、「地区魂」をもう一度見せてやる、と運動する。

伊藤ヨシの場合・・・・・「プロレタリアの修身」の伊藤。「安子」月形村の娘(山上ヨシ)。「転形期の人々」の「断稿」では、大村龍吉一家の妹ヨシ。「母たち」の伊藤、「沼尻村」の要吉の妹・ヨシエ。

「疵」初出:『帝国大学新聞』1931(昭和6)年11月23日発行第408号(挿絵/鈴木賢二)=〈中山のお母さん〉が話した談話である。中山の娘は、左翼運動の〈レポーター〉=連絡係をやっては警察に検挙されていた。そのたびに母は、頭を下げて娘を引き取っていた。スパイが家に来るとお茶を出し、連絡のつかない娘の居場所を逆にうかがっていた。ある日突然娘が帰宅し、2人は銭湯へ出かけた。そのとき、母は娘の身体のいたるところにある紫色のキズを眼にして衝撃を受ける。娘は、このキズが警察でやられたものであること、だからスパイにお茶を飲ませてやることなんて間違いだと笑いながら言った。娘は今、刑務所へ入っている。中山の母は、今でも娘の身体のキズが忘れられない。

母の場合 佐々木の「母」、伊藤の「母」・・・・・「母たち」初出:『改造』1931(昭和6)年11月号=京で左翼活動をしている〈お前〉=伊藤に宛てた、運動に理解ある故郷の姉からの私信というかたちをとっている。私信の概要は、〈故里〉で起きた1930年「十二月一日事件」の際に検挙された活動家の母たちの様子である。
 この事件では、伊藤の妹も検挙された。息子や娘が連れ去られ、家宅捜査を受けたとき、ある母は息子よりも落ち着いて特高に対応し、ある母は半狂乱になった。
その後、伊藤の母も含め、検挙された子供たちを持つ母たちが集まり、互いをねぎらった。しかしその際、伊藤の母は、上田の母と大川の妻に、伊藤たちが息子や夫を運動に引きずり込んだと非難されてしまう。運動の理解者である山崎の母や窪田が、上田や大川などの生活を改善するために伊藤たちが先頭に立っているのだと説得するが、聞き入れられなかった。
まもなく公判が始まり、母たちは法廷へ駆けつけた。
山崎の息子は、公判で転向の意を述べ、運動の協力者であった母は愕然とする。一方、伊藤の妹と上田は非転向だった。そのため上田の母は取り乱してしまった。この手紙は、監獄では労働者出身のものが頑張っているのに、外では労働者とインテリの立場が反対になっていることなどの問題に対し、運動の進んでいる東京にいる〈お前〉の考えを訊ねる言葉で結ばれている。

須山の場合 「村の事件」の須田。

笠原の場合

・ヒゲの場合

・太田の場合


ブルーバードをさがしてー人物像編

2014-11-02 07:23:53 | 「党生活者」論 序曲

「党生活者」に描かれた、毒ガス戦準備と闘う反戦活動家たち

 小説「党生活者」は、32年春にプロレタリア文化運動に下された天皇制権力による大弾圧をのがれたものの警察に追われる潜伏生活に追い込まれた小林多喜二が『中央公論』編集部に送ったもので、同誌編集部は当時の検閲事情から掲載を見合わせ、多喜二が33年2月に虐殺された後になってようやく前編9章を「転換時代」の仮題で前半(1章~4章)を4月号に、後半(5章~9章)を5月号に発表したものである。

 後半の最後には(前編おわり)とし、「一九三二・八・二五」と日付が記されている。後編の存在は、いまも確認されていない。

 発表された『中央公論』4月号掲載分の前半は、警察権力に追われても生活擁護・反戦活動を展開する佐々木安治を主人公に、彼が指導する民間軍需工場〈倉田工業〉での闘争を描いている。

 舞台となっている倉田工業は毒ガスマスク、パラシュート、飛行船の表皮を製造している。描かれた時代は、1932年春から。

 1931年9月の満州事変以来、拡大されてきた中国への侵略戦争は工場から若い労働者を出征させた結果、軍需品製造の需要が急増し臨時工の大量雇用でまかなうほどになった。

 一方、〈平和〉が訪れると急減し臨時工は解雇された。この民間軍需工場・倉田工業も臨時に労働者600名の大量採用をした。

 本来100名規模の施設に700名がひしめいても対応できず、深夜業を含めた長時間、危険な労働を強制した。ここに労働者の不安定な雇用への不安と過酷な過密労働への不満が生み出された現実をリアルに描いている。

 また後半は、上級機関指導者「ヒゲ」の黙秘の闘い、ヒロイン笠原と伊藤ヨシとその母、佐々木の母を登場させ、反戦運動に献身する佐々木の革命的人間像とその人間関係をとりまくドラマを描き感動の場面を形象化している。

 当時のプロレタリア文学運動の指導的評論家である蔵原惟人は、戦後民主的言論が自由になった54年6月発行の新潮文庫版『蟹工船・党生活者』の「解説」で、「作中の「倉田工業」は作者がかつて関係をもっていた藤倉電線をモデルにしたものであるが、彼はそれをすでに「満州事変が発展していたこの時代の「国策」化された工場の一つの典型として描いている。ここにも小林がつねにその時代の最も中心的な課題に自分の作品の主題を結び付けようとする努力が見られる」と評している。

                   ◇

倉田工業は戦争が始まってからは、それまでの電線を作るのをやめ、防毒マスクとパラシュートと飛行船の側を作り始めた。最近その仕事が一段落し、600人の臨時工のうち400人を解雇するらしかった。

 倉田工業が防毒マスク、パラシュートや飛行船の表面の皮などを作る軍需品工場なので、戦争の時期にそこに党や労働組合などの組織の重要であると考えた。佐々木たちは戦争が始まってから、軍需品工場(主に金属と化学)と交通産業(軍隊と軍器の輸送をする)へ、組織化の重心を置いて仕事を進め、倉田工業に佐々木や須山、太田、伊藤などが入り込んだのだった。佐々木たちはみんな臨時工だったので、半月もしないうちにクビになる。その間に少しでも組織の根を作らなくてはならなかった。そのためには本工を獲得することが必要だった。そうすれば佐々木たちが解雇されても、残っているメンバーと外部との緊密な連携ができるならば、少しの支障もなく反戦・生活擁護闘争を継続することが出来るからである。

 闘いは緊迫の度を増し、ビラは継続に発行する工場新聞に発展した。その名は倉田工業が防毒マスクの製造工場ということで『マスク』と名付けられた。佐々木はその編集を引き受け、刷り上げた『マスク』を朝早くに伊藤ヨシに渡し、それを受け取った工場内の活動家須山らが労働者たちに配布したのである。会社の方も刻々と対策を練った。工場では「600人を最初の約束通りに仕事に一定の区切りが来たら、やめて貰うことになっていたが、今度方針を変えて成績の優秀なものと認めたものを200人ほど本工に繰り入れることになったから、各自一生懸命仕事をしてほしい」との噂を工場中にまき散らした。明らかにその〈噂〉は、首切りの瞬間まで反抗の組織化されることを妨害するためだった。その一方で、本工に編入するかもしれないというエサで一生懸命働かせ、モット搾りとろうという魂胆であることは明らかだった。会社側はいよいよ最後の攻勢に出た。伊藤と一緒に働いているパラシュートの女工が、今朝入った『マスク』の第3号を読んでいると、新しく工場に入った男子工が、いきなりそれをふんだくり、その女工を殴りつけた。それを見ていた伊藤はどうも様子が変だと思った。女工は、オヤジ(工場長)にこそ用心しても、同じく働く仲間には気を許す。それでうっかり警戒しなかったのであった。その男を調べてみた。するとその男子工はこの地区の青年団の一員で在郷軍人でもあり、戦争が始まってから特別に雇われて入ってきたことがわかった。伊藤ヨシがその男に注意していると、第1工場にも第3工場にも仲間がいるらしい。時間中でも仕事台を離れて、他の工場に出かけていたが、オヤジはそれをみても黙って許していたのである。それに大衆党系〈僚友会〉の清川、熱田らの連中と往き来しているらしいことが分かった。工場内に軍籍関係者で在郷軍人の分会をつくろうという動きが出ていることもわかった。〈僚友会〉がそれに助力していることは確かだった。ただそういうことは会社が表だってやったのでは効果が薄いので、労働者のなかから自発的に出てきたようにカモフラージュしていることもハッキリしていた。

 佐々木達は今や正面の資本・特高側、労働運動の右翼、在郷軍人の会の三方から、敵と対峙していた。敵の攻撃は巧妙だった。

 今までのようにただ「忠君愛国」の幼稚な感情にうったえるのではなく、「今度の戦争は以前の戦争のように結局は三井とか三菱が、占領した処に大工場をたてるためにやられているのではなくて、無産者の活路のためにやられているのだ。満州をとったら大資本家を排除して、我々だけで王国をたてる。内地の失業者はドシドシ満州に出かけてゆく、そうして日本から失業者を一人もいなくしよう。ロシアには失業者が一人もいないが、我々もそれと同じようにならなければならぬ。だから、今度の戦争はプロレタリアの戦争で、我々もおよばずながら、その与えられた部署部署で懸命に働かなくてはない」と左翼的な言葉を使って侵略戦争を「社会主義的」な言葉で美化し、動員しようとしているのだった。

 

 月末が近づき、首切りをやるらしかった。臨時工が主なので、首切りが発表されてからでは団結力が落ちる。この2~3日に事をきめなくてはならなかった。佐々木たちはビラやニュースで、戦争に反対しなければならない事をアッピールしてきたが、労働者たちが一度その首切りのことで立ち上がったら、それはレーニンの言い草ではないが、なぜ戦争に反抗しなければならないかを「お伽(とぎ)話のような速さで」教える。殊に軍器を作っている工場であるだけ、ハッキリと意識的な闘争が出来るのだーまず事を起こさなくてはならぬ。佐々木は最後の肚(はら)をきめた。それは伊藤や須山の影響下のメンバー、新しい細胞に各職場を分担させて一斉に「馘首反対」の職場の集会を持たせる事だった。

 

 「前編」の結びの9章はこう描かれている。

 ――倉田工業の屋上は、新築中の第3工場で、昼休みになると皆はそこへ上がっていって、はじめて日の光りを身体一杯にうけて寝そべったり、話し込んだり、ふさげ廻ったり、バレーボールをやったりしていた。その日はコンクリートの床に初夏の光が眩しいほど照り返っていた。須山は自分のまわりに仲間を配置して、いざという時の検束の妨害をさせる準備をしておいた。

 昼休みが終わる丁度15分前、須田大声をあげて、ビラを力一杯、そして続けざまに投げ上げた。―「大量馘首反対!」「ストライキに反対せ!」……その叫びは、労働者たちの喚声でかき消された。赤と黄色のビラは陽をうけて舞った。ビラがまかれると、みんなはハッとしたように立ちどまったが、次にはワァーッと云って、ビラの撒かれたところへ殺到した。すると、そのうちの何十人もの人々が、拾い上げたビラをてんでに高く撒きあげた。それで最初一カ所に撒かれたビラは、またたく間に600人の従業員の頭の上に拡がってしまった。―あらかじめ屋上の所々に立ち番をしていた守衛は、「こら、こら!ビラを拾っちゃいかん!」と声を限りに叫んで割り込んできたが、さてだれが撒いたのか見当がつかなくなってしまった。見ると、誰でも、かれでもビラを撒いているのだ。

  

多喜二の命がけの闘争に対し、戦争を推進する勢力は問答無用の暴力でその存在を亡きものにしたばかりか、その著作の抹殺を図った。

そればかりか、政府のテロルの前に恐怖した文学運動の右翼的潮流は、多喜二の文学世界を、不当な女性への態度をしめした作としてゆがめ、その存在を無視した。

 そして、特高によって共産党中央委員になりおおしたスパイM、松村(本名飯塚延盈)は10月銀行ギャング事件を引き起こさせ、その罪を共産党指導部になすりつけて逃亡した。

これを理由に共産党の組織的な壊滅作戦を発動させたのである。

この結果10月末から12月下旬にかけて、共産党員の検挙が頻々と相次ぎ、検挙者は1500人を超えたのである。

こうしたこともあって、作家同盟指導部内部にも右翼的偏向の潮流が強まっていった。

 多喜二は「右翼的偏向の諸問題」「続右翼的偏向の諸問題」などの評論を連続して執筆し、文学・文化運動の階級的発展の指導に献身するとともに、自分自身も小説「地区の人々」、「転形期の人々(断稿)」などの執筆に果敢にとりくんだ。

 

       

中国の政治情勢の変転をあらまし理解しておくことが必要である。では、この時期に日本は、中国との関係でどのような行動をとってきたのか。その中心点をあげると、次のとおりです。

中国侵略の最初の中心部隊となった関東軍は、日本が日露戦争のあとロシアから遼東半島南部の租借地を取り上げてこれを「関東州」と呼んで日本の支配下におき、1919年ここに天皇に直結した軍隊として「関東軍」をおき、関東州の防衛とロシアから譲り受けた南満州鉄道の保護にあたらせた。この関東軍は、発足当時の公式の任務を越えて、満州(中国の東北部)から華北(北京、天津をふくむ中国の北部)、モンゴル内蒙古)にまで政治・軍事工作の手をのばし、中国にたいする侵略を拡大する中心部隊となった。

(二)「北伐」を口実に山東出兵。蒋介石の国民政府軍の軍事クーデターのあと、「北伐」再開を宣言して、揚子江をこえて華北への進撃を開始したとき、日本は、在留する日本人の安全のための「自衛」措置だと称して、ただちに山東省の青島(ちんたお)に関東軍の一部を派遣した(山東出兵・27年5月)。これは、中国に租借地や権益をもつ「外国勢力」のなかでも突出した行動であった。日本軍の山東省出兵は一回にとどまらず、翌28年4月、5月と3回にわたってくりかえされ。とくに第三次の出兵では、総攻撃で山東省の首都済南市をほとんど壊滅させた。この乱暴な軍事行動は、中国の人民のあいだに「排日」の気運を一気にひろげ、日本軍の暴虐ぶりは世界でも有名なものとなった。

(三)生命線論を国策に満州とモンゴル(内蒙古)は、日本が早くから侵略の第一の対象地域としてねらっていた地域だった。  第一次山東出兵のさなかの1927年6月〜7月に、田中義一首相(陸軍大将)の主宰で「東方会議」が開かれ、「対支〔中国〕政策綱領」が指示されたが、ここでは、“「満蒙」地方は日本の国防上も国民的生存の上でも重大な利害関係のある地方だから、この地方における日本の「既得権益」「特殊権益」を確保するためには、必要な場合、軍事行動も辞さない覚悟をする必要がある”と、強調した。日本政府は、中国の領土である「満蒙」(満州とモンゴル)を日本の支配下におくことを、公然と日本の国策とするにいたったのだった。

(四)満州支配をねらって当時、満州の軍閥の一人で力をもっていた張作霖(ちょうさくりん)を日本は最初味方につけて満州に支配の手をひろげるつもりで、いろいろ工作したものの張作霖がそう簡単には日本の言いなりにならないことがわかると、一転して関東軍は秘密工作で張作霖を消すことにし、1928年6月張が乗っていた列車が通る線路に爆弾をしかけ爆殺してまった(この真相が明らかになったのは、戦後)。しかし、父のあとを継いだ張学良が、国民党政権の一翼をになう立場をとったので、爆殺によって満州の実権をにぎるという関東軍の思惑は成功しなかった。

 中国人民の抗議と怒りが日本のこの帝国主義的行動に集中したのは、あまりにも当然のことで、日本の侵略行動は、その他の「外国勢力」が「不平等条約」によって租借地などの「権益」をもっていたこととはまったく比較にならない中国の主権と独立にたいする野蛮な攻撃だったのである。

   日本の中国侵略が公然と侵略戦争の形で展開したのが、1931年に始まった満州事変でした。31(昭和6)年9月18日午後10時20分ごろ、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で、満鉄の線路が爆破された。関東軍はこれを中国側のしわざだとして、ただちに満鉄沿線都市を占領した。しかし実際は、関東軍がみずから爆破したものだった(柳条湖事件)。これが満州事変の始まりである。この満州事変は、日本政府の方針とは無関係に日本陸軍の出先の部隊である関東軍がおこした戦争だった。政府と軍部中央は不拡大方針を取ったが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大して全満州を占領した。満州事変は、まさに謀略で世界をあざむきながら全満州を占領したという戦争であった。        

 柳条湖事件と呼ばれる線路爆破事件が、関東軍のしわざであることは、軍の中央部はもちろん、政府のあいだでも、秘密のことではなかった。

 そして1937年、いよいよ日中全面戦争が本格的に始められたのだった。

●登場人物

太田

佐々木

伊藤

須山

下宿のおばちゃん

 宮本 顕治党生活者」の中から(多喜二と百合子 4(7) 1956-10 )

ヒゲ

 桑原 正二「滝子其他」と「党生活者」の滝子と伊藤の造型について( 日本文学 / 日本文学協会 編 16(2) 1967-02 p.1~10)

 宇佐美 千恵子党生活者」と母( 多喜二と百合子 (通号 8) 1955-01 p.547~549)

右遠 俊郎「党生活者」私論--ふたたび「私」の功罪について(民主文学 / 日本民主主義文学会 編 (64) (通号 114) 1971-03-00 p.138~150)

北村 隆志「党生活者」の弁証法--「私」と「物語」をめぐって( 民主文学 / 日本民主主義文学会 編 (496) (通号 546) 2007-02 p.90~102)

浦西 和彦小林多喜二「党生活者」のヨシ (名作の中のおんな101人)( 國文學 : 解釈と教材の研究 / 學燈社 [編] 25(4) 1980-03 p.p110~111)

吉本 隆明党生活者・小林多喜二--低劣な人間認識を暴露した党生活記録( 国文学 : 解釈と鑑賞 / 至文堂 編 26(6) 1961-05)

津田 孝「党生活者」論と愛情の問題 (小林多喜二没後40周年記念(特集))( 民主文学 / 日本民主主義文学会 編 (87) (通号 137) 1973-02-00 p.50~64)

篠原 昌彦1930年代における反ファシズム文学論--『党生活者』をケース・スタディとして

苫小牧駒澤大学紀要 / 苫小牧駒澤大学 編 (11) 2004-03 p.1~14)

大田 努「党生活者」を読みなおす--いわゆる「笠原問題」に触れつつ (特集 小林多喜二没後七十五年)(

 民主文学 / 日本民主主義文学会 編 (508) (通号 558) 2008-02 p.85~97)