「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二虐殺前後を考察 『社会文学』第37号 特集〈転向点・1933―文学・歴史・社会の観点から〉

2013-03-08 23:31:51 | 多喜二のあゆみー歿後
『社会文学』第三七号 特集〈転向点・1933―文学・歴史・社会の観点から〉
・小特集〈「3・11」以後の社会と文学―文明史的転換に立って〉 (13年2月刊 )
 



[特集 転向点・1933―文学・歴史・社会の観点から]




〈反戦〉と〈抗日〉の運動の昂揚―作家同盟と丁玲の試み―

尾西 康充



宗主国文芸の転回―朴魯植と日韓俳句人脈―

中根 隆行



メキシコシティから望むフラチャニの丘




  ―アリス・リューレ=ゲアステル『本組み/急変、あるいはハンナと自由あるプラハ小説』について―

田丸 理砂



一九三三年の児童文学・覚書―「集団主義童話」をめぐって―

宮川 健郎



スローガンとプロレタリア川柳―鶴彬と川柳の一九三〇年代―

楜沢  健




一九三三年の位相―百合子作品にみるプロレタリア文学運動と〈大衆〉―

神村 和美



一九三〇~三三年の住谷悦治日記―ある知識人の精神の断面―

本庄  豊



日本浪漫派の倫理―亀井勝一郎とシェストフ的不安―

梶尾 文武



[エッセイ]




プロレタリア文学運動の崩壊―貴司山治日記とその周辺から―

伊藤  純



一九三三年前夜―映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』の現場から―

山 邦紀



一九三三年の宮澤賢治

城戸 朱理



[小特集 「3・11」以後の社会と文学――文明史的転換点に立って]




あやまちは何度もくりかえすからあやまちなのだ

川村  湊



被害と加害を架橋する―小田実『HIROSHIMA』の想像力―

川口 隆行



〈反詩〉の果て?―原発震災下で黒田喜夫を読み直す―

鵜飼  哲



事態に向き合うために

中谷いずみ



[自由論文]




湯浅克衛「先駆移民」論―満州開拓イデオロギーの挫折―

安  志那



森崎和江作品にみる聞き書きと詩―「まっくら」と「狐」の関連から―

茶園 梨加



大西巨人『神聖喜劇』における「無責任の体系」批判の射程




  ―丸山眞男との比較から―

橋本あゆみ



大江健三郎『水死』論―漱石『こころ』の受容をめぐって―

鈴木 恵美



[書評]




高橋修著『主題としての〈終り〉―文学の構想力』

山口 直孝




岡村知子著『太宰治の表現と思想』

西山 一樹



山本昭宏著『核エネルギー言説の戦後史1945―1960




  ―「被曝の記憶」と「原子力の夢」』

村上 陽子



小森陽一編著『3・11を生きのびる―憲法が息づく日本へ』




  『泥沼はどこだ―言葉を疑い、言葉でたたかう』




  『沖縄とヤマト―「縁の糸」をつなぎ直すために』

小山 国治

昭和19年東條暗殺計画―NHKアーカイブ 「秘録・高松宮日記の昭和史 H8/6/23放送

2010-04-24 09:23:47 | 多喜二のあゆみー歿後
NHKアーカイブ 「秘録・高松宮日記の昭和史 H8/6/23放送

高松宮妃が高松宮の死後その日記の公開を決定した。かなり宮内庁の反対もあったようだが、昭和の歴史の重要な証拠の一つとして発表された。以下、番組から。

昭和16年12月8日真珠湾攻撃、「ハワイ」奇襲成功 暗号電報、外国の電報が日記には多数書き記される。当時宮は軍令部に勤務。1週間前の御前会議で真珠湾は決定しており、これを宮は知っていた。前日に宮邸で晩餐会が開催予定だったが「後世の歴史家の誹りを受けるだろう」という昭和天皇の言葉でひっそりと晩餐会が開かれたことが記されている。真珠湾攻撃の前夜、高松宮はあまり寝ていないかった。

10年前の新婚旅行では高松宮夫妻は最終訪問地アメリカで日米友好を訴えた。渡米前に宮にもたらされた昭和天皇の手紙
「私はかねてから英米との協調によって世界平和を確保せんと考えております。私の微志を察して渡米の暁には尚一層外交上のために努力をなさることを切望致します。長きご旅行のことゆえお体をお大切に帰国されることを望みます。妃殿下によろしく。昭和6年3月8日
裕仁 高松宮様」

昭和6年9月 満州事変
昭和8年 国際連盟脱退
昭和9年1月17日 
「私は戦争をどうしても日本のためにも道徳の上からも進んでやるべしとは思えない。死力を尽くしても避くべきであると信ずる。」

昭和12年6月2日
「米国の東洋における関心は支那以外にはない。日本の大陸政策が米国を刺激せざるをえざる以上日米開戦の機会はないと言い得る。しかし今日の陸軍の状況においてこれを信ずるのは容易ではない。」

昭和12年7月7日 日中戦争勃発
同年7月14日
「陸軍の統制は今尚極めて不十分なるを組織の上より感ず。北支事件も発砲は支那が先か知らねど発砲せしむるごとき演習をなすことにも十二分の欠点あり。あるいは支那兵営に突撃の教練をなしたり、あるいは内地と同様にしかも現地にて演習するは不謹慎なり。」

昭和15年11月11日 紀元2600年奉祝会
奉祝会にて「臣 宣仁」と昭和天皇に奉じる高松宮。天皇を中心とする国民総動員の中で、昭和天皇と高松宮は兄弟から君子と臣下になった。

昭和16年以降は軍事日誌のようになる

昭和17年6月5日 ミッドウェー海軍が激突、壊滅的敗北を知り、昭和天皇へ手紙を書く。
「海軍は機関兵力を失ったので、この戦いはだめだ。一日も早く終戦をお考え頂きたい。
兄宮へ」

昭和17年8月7日 米軍ガタルカナル上陸開始
「ソロモン海戦の大本営発表は実にデタラメでけしからぬ話なり。今度の様なのは実に甚だしく内外ともに日本の発表の信じられぬことを裏書することになる。敵の攻略企図も上陸もいわずにまるで「ネツゾウ」記事なり。あとの報道にも差し支える。」(放送画面では朝日新聞の日本軍大勝の記事。ただし「朝日」の「朝」の部分は見せず。)

同年10月25日 近衛文麿が高松宮邸を訪問。宮に「陛下にはまずいことがお耳に入っているのだろうか。お耳に入れるように。」と。そこで高松宮の娘婿の細川護貞によって昭和天皇への筋道を作り、近衛文麿や高松宮が和平交渉推進グループとなった。

昭和19年6月15日 米軍サイパン上陸開始

同年6月22日
高松宮は御所に上り、サイパンを死守するか戦争を終結するかと提言するも、昭和天皇は内閣など責任あるものの意見しか聞かなかった。
「サイパンを失うことの重大に関し一言申しあぐ。あとつけ足りに皇族をどうしてご相談相手になさるおぼしめしなきや、伺いしところ(昭和)「政治には責任あったから出来ぬ」(高松)「統率の方も責任あるべし」結局お頼りになる者なしとのことでしょうか。(昭和)「それは語弊あり」相変わらずにて落胆す。」

同年6月24日 サイパンの放棄を大本営が上奏。
天皇は裁可せず25日元帥会議を開き意見を求めた。結論はサイパンの放棄だったが、この時点でも和平を言い出さず戦争継続の軍部を抑えない昭和天皇と高松宮の間で激論が交わされた。

同年6月26日
「元帥上奏御決定のことなれば「ひっくり返すことなし」とのお話あり。「ひっくり返すにあらず」サイパン確保と言い、実行せざることに問題あり云々からヒツコイとのことであった。」

同年7月7日 サイパン陥落 日本の敗戦は確定的となるも東條首相は終戦の方向には踏み出さず内閣改造と大本営の強化で戦局の危機を乗り切ろうとしたため、反東條の声が一斉にあがった。

この頃東條暗殺の話を高松宮と細川護貞は交わした。降伏といったら軍部から狙われるから言えないというが、東條は誰が言っても聞かない。東條を殺す以外に方法はない。しかし相手の方が情報網が発達しているのでそんなことを言ったらこちらがやられる、と宮は言った。やられる前にやるしかないが、陛下の親任している人物を自分がやるわけにはいかない。

同年7月18日 東條内閣総辞職

昭和19年9月16日 海軍少将高木惣吉が高松宮のもとを訪れる
高木は、宮は和平を説くが国民は玉砕を叫んでいると言った。宮は「そんな玉砕なんて出来ぬことをいっても駄目なり。七生報国の生きて護国の任を果たす心が国民になくてはならぬ。死ぬなんて生易しい時はすでに通り過ぎてる。悠久な日本を守るために和平も考えてよい。考えねばならぬ。」 これについて高木メモではこう記す。「条件は簡単だ。国体の護持これだけだ。」つまり天皇の存続が問題だった。

昭和20年1月26日 京都近衛文麿の別邸陽明文庫で内談したが内容は不明。
前日近衛文麿は米内光政、岡田啓介らと退位した天皇を京都に住まわせることを協議した。
連合軍が陛下の責任を追及した時は、先例に倣い陛下を仁和寺にお連れし、出家を願ってはいかがかと考える。裕仁法皇として迎える計画だった。一年前には高松宮はご退位は歴史にもたびたびあることでお上がそのお気持ちならすぐ出来ると思うと言っていた。

昭和20年6月6日 最高戦争指導会議は陸軍の主張する本土決戦、徹底抗戦を決定。
8日の御前会議も同様の決定。

昭和20年6月21日 細川日記(細川護貞)
「合理的なる理由をもって戦争を終結しようとする努力は、常に陸軍の精神論のために阻まれる。したがって我々も非合理的なる方法(天皇による和平)によらなければならない。」

同年8月10日 御前会議
国体に変化がない限りポツダム宣言を受託との聖断をくだす。

同年8月12日
国体は連合国の管理下。連合国側からは国は国民の自由意志にゆだねられるとの回答。

天皇は皇族を呼び意思を統一して対処することを呼びかける。
「陛下より今回のご決心をお示しあり。皆、国体護持に御思し召しに沿って勤める旨、梨本宮よりお答えし各自の意見などそれぞれ申し上げ17時頃散会。夜、三笠宮来たり。阿南(あなみ)大将の考え方、お上のお考えと大いに異なるから鈴木総理の意見を聞かんとのこと。明朝来ることに約束す。」
問題は阿南陸将をどう抑えるかだった。

同年8月13日、三笠宮と鈴木貫太郎首相が高松宮邸を訪れる。
「三笠宮、鈴木総理大臣来り。阿南大将の考えにつき語る。総理大臣は、最後は思し召しによって総てをする点につきては阿南を疑わずと。」

同年8月14日 最後の御前会議
阿南陸将は降伏反対を述べる。天皇は皆のものは私の意見に賛成してほしいと前置きし、
ポツダム宣言の無条件受諾を聖断。

8月15日以降も徹底抗戦の動きが陸海軍の中にあった。
皇族軍人は聖断の趣旨を伝えるため現地へ向かい、高松宮は厚木の海軍航空隊を説得。マッカーサー元帥の命令を陛下は受けるしかないが良いのかという質問に、そういうことはない、陛下と元帥との関係が一時的にどうなろうと将来はそういうことはないと説明する。

同年8月28日 連合軍専攻部隊厚木飛行場へ

同年9月3日
「マッカーサーは天岩戸開きの手力男命の処をつとめるものだという見方あり。こうした考え方でゆくと大きく国体護持もできるかもしれぬ。マッカーサーは確かに人物も大なりという見方をする者多し。米国の燃料で日本の自動車を走らせて不思議に思わぬならば、手力男命でも猿田彦でもよいわけである。」

同年9月11日 GHQ東條ら戦争指導者39人を戦争犯罪容疑者として逮捕。
アメリカの世論は天皇の責任を厳しく追及していた。高松宮は外務省の役人を訪ね天皇を法廷で喚問させる、または訴追の対象にしてはいけないとの話をする。

同年9月27日 天皇、マッカーサーを訪問。40分会談。
天皇は戦争遂行に責任を負うものとして自らを連合国の採決にゆだねると言ったと、後にマッカーサーは回想している。しかし会見記録は公開されていない。高松宮日記より「御前10時、陛下にはマッカーサー元帥ご訪問。マッカーサーは室内にて出迎え握手、welcome云々とて出迎えして肩をかかえるようにしてご案内。並んで腰掛、一度立って伍撮影。それから訳15分、マッカーサーは一人で語る。マ「戦争の破壊力は極めて大となれり。今後の戦争は勝敗何れとも甚だしき損害を受くべし」「陛下は実によい時機に戦を止められた。」昭「戦争にならぬ様に努めてたが及ばなかった」マ「一人の力ではどうともならぬ事がある」昭「自分も国民も十分に戦敗を認め知っておる」マ「陛下は一番日本国国民をご存知の方である。今後お考えのこと、重大なるご心配あれば、極秘裏に伝えられたい。マッカーサー一人で十分考えて協力する。」昭「今後、かかる機会をたびたび持ちたい。」予定は室内でマッカーサーは見送るはずなりしも、自然に玄関までお見送りに出てきた。」
この日記から開戦には反対だったが軍の動きを止められなかったとする天皇にマッカーサーが理解を示したことがわかる。

海外でどのように報道されているか高松宮は収集していたため会見前に数年間日本が占領され、天皇がマッカーサーのもとにあることを知っていた。マッカーサーと天皇の会見2日前に天皇がアメリカプレスと行った会見の回答文書(幣原外務大臣が作成)が見つかった。この文書では日米開戦の責任について「陛下は東條大将が宣戦の詔書を使用せるごとくこれが使用せらることは予期しておられませんでした。」と天皇の予期に反して戦争が行われ、東條に責任ありという日本側の見解をアメリカ側に伝えていた。しかしこれで国体が守られるのか高松宮の不安は消えなかった。

昭和20年10月25日
「蜂が窓から入って手にとまる。弱っている。払い落として踏み殺す。これが蝶ならほったらかしておくものを、刺すほど力なき蜂でも刺されるという観念は恐怖心を起こさせて、力なき蜂は殺される。米国は武装国家として戦勝国として残る以上、実力を持たなければ蜂の運命を辿る。蝶となるか蜂となるか。」占領下の皇室や日本の脆弱さを憂うもの。

高松宮は戦後の皇室改革案を検討
皇室の持つ土地の一般解放、皇太子の留学と米国の教育を受けさせること。
皇居の移転について秩父宮への手紙
「陛下が江戸城にお住まいのことがよくないと思います。是非城でない御所にお移りのことと思います。これも考えに入れて東京から京都に遷都あそばしたらと思います。」

同年12月2日 GHQは59人の戦犯容疑者を追加逮捕の命令。
梨本宮も含まれる。4日後、天皇の側近だった近衛文麿にも逮捕命令。

同年12月16日 近衛服毒自殺。

同年12月17日 高木が高松宮を訪れた。
宮はGHQが皇室解体を目指しているのではと心配し、天皇退位による危機打開策を語る。
高木メモより
「いつかなる順序で御譲位なるがよろしいか。御譲位になってしまえば向こうは利用価値がないから個人としての御上を追及する危険もあるし、さればと言って漫然と過ごせば向こうから戦争責任を追及されてそれから御譲位を迫られては猶更具合が悪い。ここに難しいところがある。しかし国をこの事態に陥れられたことについて、御上は皇祖皇宗に対してこのままではおすましになれぬ。ご責任があるからこれはどうしても御退位にならなければならぬ。ただその時期と方法とが難しい。」

連合国には戦争の責任の追及の声が高かったがマッカーサーは天皇制を維持しながら民主化を進める方法を固めていった。マッカーサーは戦前の天皇制の改革に着手。

同年12月15日 国家神道を禁ずる。

昭和21年1月1日
天皇は現人神(あらひとがみ)、現御神(あきつみかみ)ではないという人間宣言を発表。高松宮は人間天皇を思いやりにあふれ、繊細で生真面目だという談話を発表。

同年21年1月1日
「寝正月のつもりで夕食してすぐ寝る。これで少しは元気を出したいものだ。詔書発布。誠に結構なるものだった。」
また日記では「現御神」より「神」ではないと明快に言うべきだったとする。

オーティス・ケーリ GHQ民間情報教育局
6回ほど高松宮と会う。宮に皇室改革案を提言。
焼け野原の日本を励ますのは天皇だと。

宮中では新しい天皇像を作る。
アメリカの雑誌「LIFE」に天皇一家の団欒の写真を掲載。題は「裕仁家の日曜日」。最後のページにはリンカーンの前で天皇が英字新聞を読む写真が出た。

同年21年2月27日 フェラーズからのメッセージが届く
今後の天皇の処遇について
「陛下が唯一の現実の指導適格者と認めるからもっと積極的になさるが良い。マッカーサーは陛下を認めてやっていくつもりでいる。」
天皇の退位は必要ない、アメリカは天皇を裁くつもりがないことをマッカーサーは宮に伝えたのだ。が、まだ各国から東京裁判には検事が派遣され予断が許されない。極東軍事裁判を控え高松宮邸では晩餐会が開かれGHQの高官が招かれた。宮内庁が人選を行い、陛下が平和を愛する人だということをアピールした。

同年5月3日 東京裁判開廷
A級戦犯28名が起訴。昭和天皇の名はなし。

同年11月3日 天皇を国民統合の象徴とする新憲法が公布。
東京裁判の最中、天皇は退位についてGHQに打診したが受け入れられなかった。

同年11月12日 東京裁判の判決が下された。
天皇は退位せずとの決意をマッカーサーに伝えたという。

日記は昭和22年をもって終わっている。

多喜二年譜1993-2004

2008-12-14 00:30:08 | 多喜二のあゆみー歿後
1993(平成5) 年
新装版『小林多喜二全集』(新日本出版社)補遺=「ある病気のお話」、「良き教師―「総合プロレタリア芸術講座」推薦文」、「「文化聯盟」の結成に就て」、書簡補遺 石本武明宛6通

・小川重明「中野重治の書簡―多喜二全集との関わりから」(『菜の花通信』1月)
・大田努「未発掘の『赤旗』短編小説のこと」
(『民主文学』2月号)


1994(平成6)年
『小林多喜二名作ライブラリー』(全5巻)第1巻「一九二八年三月十五日・東倶知安行」第2巻「蟹工船・不在地主」第3巻「工場細胞・安子」第4巻「党生活者・地区の人々」(新日本出版社 11月)


1995(平成7)年
「今日はなんの日-小林多喜二の命日」(2/20 司会・みのもんた)
「戦後50年シリーズ 戦争と小林多喜二」(5/19 北海道文化放送 スーパータイム北海道)

9月 「転形期の人々」冒頭原稿が布野栄一氏から小樽文学館に寄贈される。


1996(平成8) 年
8月、小樽文学館が雨宮庸蔵宛1929/8/30)(11/29)ハガキ2通70万円で購入・公開。


1997(平成9) 年
1997年(平成9)130万円で古書店頭に出されていた小林多喜二の自筆書簡の購入を、小樽文学館が全国に呼びかけたところ、約500人から合計約300万円が寄せられた。

『作家の自伝(51)小林多喜二 年譜/党生活者抄』(解説 小笠原克 日本図書センター 97年)


1998(平成10) 年
小笠原克「板垣鷹穂と小林多喜二―一通の手紙」(『資料と研究』山梨県立文学館 1月)

・小笠原克『小林多喜二とその周圏』 (翰林書房 98/1)


1999(平成11) 年
多喜二石膏デスマスク、小林三吾から小樽文学館へ寄託


2001(平成13) 年
・『草稿とテキスト』(1/1/20)=島村輝「〈シンポジウム〉メディアとしての草稿とテキスト」

・松澤信祐「多喜二を匿った人々―七沢温泉福元館をめぐって」(『文教大学国文』第30号 3月)

・『読本 秋田と小林多喜二―秋田県多喜二祭の記録』(「秋田と小林多喜二」刊行会)=大田努「小林多喜二の全著作はどのように復元されたか」松田解子「多喜二の人間と文学から学んだもの」

多喜二水彩画3点が小樽文学館へ寄贈・「小樽論一」展で公開。

6/20 三吾から岡本唐貴絵「同志小林多喜二の死面」小樽文学館へ寄贈


2002(平成14)年
2月16日、小林三吾脳梗塞にて死去。92歳

・『小林多喜二の人と文学』=布野栄一(翰林書房 02年)

・亀井秀雄「小林多喜二「遺体写真」撤去について」(『市立小樽文学館館報』第26号 12/25)


2003(平成15) 年
・『民主文学』(03.2) 特集 小林多喜二没後70年・生誕百年=松田解子「小林多喜二との出会いと生き方から何を学んだか」

・小林多喜二没後70周年・生誕100年記念の集い

宮代栄一「小林多喜二未発表書簡 志賀直哉に就職依頼も」(『朝日新聞』(9/8夕刊)

『国文学』(03/12月号)=松澤信祐「多喜二と大熊信行―大熊信行宛書簡を中心に―」翻刻・解題

「小樽商大図書館蔵書書き込み」
※生誕100・没後70周年記念シンポジウム(白樺文学館多喜二ライブラリー主催 03/11/30 朝日ホール)

・倉田 稔『小林多喜二伝』 (論創社 03)


2004(平成16) 年
※2004 多喜二・百合子研究会 活動再開

・『多喜二・百合子研究会会報』復刊(1/20 169号)

・白樺文学館多喜二ライブラリー編『生誕100・没後70周年記念シンポジウム記録集』=(資料1・小林多喜二「大熊信行宛書簡」2通/ 紅野敏郎「志賀直哉と小林多喜二の接点-直哉の多喜二宛書簡などを中心に」/松澤信祐「多喜二と近代作家との接点-芥川、志賀を視野において」/伊豆利彦「戦後の直哉の心に生きつづける多喜二の像-『灰色の月』前後-」/『中央公論』(1924年1月号)掲載 志賀直哉「雨蛙」への多喜二書き込みなど」(東銀座出版社 2月)

・『大館市先人顕彰祭全記録集』=澤田章子「多喜二が愛した女たち」(大館市先人顕彰祭実行委員会編 2月)

「小牧近江宛ハガキ」

「工場細胞」自筆原稿
・04多喜二国際シンポジウム(8)

・島村輝監修『小林多喜二国際シンポジウムPartⅡ報告集』(編集白樺文学館多喜二ライブラリー 発売東銀座出版社)
05「中国小林多喜二国際シンポジウム」(11月12~13日 中国・河北省 河北大学主催)

○張如意監修『いま中国によみがえる小林多喜二の文学―中国小林多喜二国際シンポジウム論文集』(編集 白樺文学館多喜二ライブラリー 発売東銀座出版社)

多喜二年譜1983-1993

2008-12-14 00:25:58 | 多喜二のあゆみー歿後
1983年(昭和58)年 
・坂本肇「蟹工船英訳本をめぐって」(『赤旗』1/8付)
・『民主文学』(83.02) 小林多喜二没後50周年記念特集=津田 孝「手塚英孝の残したもの――小林多喜二の研究と調査を中心に」

大垣肇「蟹工船」2幕9場 小林多喜二没後50周年記念 演出・村山知義 演出補松下朗(東京芸術座公演no.56 1983/9.10-15、読売ホール)

・小樽文学館多喜二生誕80年没後50年記念特別展「多喜二の青春―その彷徨と発見」(10/21~11/27)手紙25点、原稿類20点、資料写真100点、油絵1点、ノート10点、雑誌15点、自作本15点など。「石本武明宛書簡6通」初公開は、小樽商業学校時代のもので初公開。

10/22 講演 小林多喜二の弟・三吾

10/8赤旗まりつ「小林多喜二没後50周年記念展」約300点の出品。
多喜二旧蔵の志賀直哉『荒絹』(春陽堂 1921)、札幌のコレクターが小樽文学館へ寄贈。(5/18『北海道新聞』)

夏衍「記念小林多喜二」(『日本文学』 第1期、吉林人民出版社出版)

スペイン語訳『蟹工船』/初訳の翻訳家を訪ねて/新藤通弘(中南米研究者)

※1983年キューバで出版、5000部完売( 2008年11月15日,「赤旗」)

 小林多喜二の『蟹工船』のスペイン語初訳は、1983年にキューバのウラカン社から出版された。『不在地主』も収められている(ともにリディア・ペレデイラ訳)。米国のフランク・モトフジ訳の英語版(『加工船(Factory Ship)』1973年、ワシントン大学出版)からの重訳。訳本には、原本の書名、発行所も、著作権取得の表示もない。米国の経済封鎖で米国とキューバの間には著作権協定がないからだ。リディアは、1939年にハバナ市生まれ、革命前、ハバナ・ビジネス・アカデミーで英語を学び、革命勝利後の60年9月、フィデル・カストロ首相(当時)が最初に国連総会に出席し、演説した際、代表団の通訳の一人として同行した。同年12月、キューバ諸国民友好協会(ICAP)の創立にも参加した。73年からキューバ国立出版公社で翻訳に従事し、94年に定年退職するまでの21年間、15冊の翻訳を出版している。その中には、『日本短編小説集』、ジョン・リードの『反乱するメキシコ』、『マルコムX演説集』、ローゼンバーグ夫妻の『歴史は私たちの名誉を回復するであろう』(日本語題名『愛は死をこえて―ローゼンバーグの手紙』)などがある。現在は、ハバナ市歴史家事務所の雑誌『OPUSアバナ』に編集委員として参加している。



1984 (昭和59) 年
・林治広「『蟹工船』的感染力従何而来-談談小林多喜二小説的美的価値」(『日本文学』吉林人民出版社) 
・大田努「小林多喜二未発表書簡」(『民主文学』 2月号)
・坂本肇「プロレタリア文学の国際連帯―多喜二英訳本をめぐって」(『赤旗』3/13付)

・澤地久枝『別れの余韻』(文春文庫 10月) 多喜二忌の女


1985 (昭和60) 年
宮本顕治『回想の人々』(新日本出版社 11月)


1986 (昭和61) 年
小林周「多喜二遺品のことなど」(『民主文学』12月号)


1987 (昭和62) 年
貫名美隆エスペラント語訳『一九二八年三月十五日』(関西エスペラント連盟)
イ・グィウォン ハングル訳『蟹工船』(「一九二八年三月十五日」「蟹工船」「党生活者」 翻訳(釜山・チング出版)


1988 (昭和63) 年
・「「文化聯盟」の結成に就いて(全集未収録文献)」解題・小林茂夫(『民主文学』 2月号)
松田解子「小林多喜二との思い出」(『文化評論』4月号)小林多喜二没後55周年の夕べの講演
・西条きん「小林多喜二「ある改札係」の自筆原稿をめぐって」(『波動』15号 7月)


1989(昭和64・平成元) 年
第1回杉並・多喜二祭(石井大三郎実行委員長)
『藤川健夫戯曲集4』(青雲書房、 89.10)=火を継ぐもの-小林多喜二


1990(平成2) 年
・琴坂守尚・小林多喜二祭実行委員会資料編集委員会『磯野小争議小樽港湾争議』(不二出版 90年)宣伝ビラ130枚収録
・復刻版『海上生活者新聞』(小林多喜二祭実行委員会)未発表多喜二自筆原稿(弁証法、客観的状勢) 「断稿」として全集収録。
・『小林多喜二全集第1巻』(新日本出版社92.12) 新装版29点の新資料を収録。
小樽文学館「転形期の人々―小林多喜二とその時代」展(7/21~9/9)「転形期の人々」「地区の人々」自筆原稿一般初公開
嶋田正策「『クラルテ』の思い出」(『本郷だより』18号 不二出版)
※多喜二・百合子研究会『会報』休刊
・三浦綾子『母』(角川書店 92年)付小林セキ年譜


1991(平成3) 年
大田努「手塚英孝の小林多喜二論」(『民主文学』12月号)

多喜二年譜1973-1982

2008-12-14 00:23:41 | 多喜二のあゆみー歿後
1973(昭和48)年
・『民主文学』(73.2)小林多喜二没後40周年記念(特集)=風間 六三「小樽にて―小林多喜二の思い―』
・小林多喜二著/フランク・モトフジ訳『蟹工船・不在地主』(ワシントン大学出版部 73年)
Motofuji、Frank."Translator's Introduction." In Kobayashi Takiji、"The Factory Ship" and "The Absentee Landlord." Seattle、 Washington: University of Washington Pre ss、 1973.

津上忠『早春の賦――小林多喜二 』プロローグとエピローグのある9場(未来社 73/3)
映画『小林多喜二』(今井正監督、シナリオ・勝山俊介 多喜二プロ製作 74年2月)
11月20日、貴司山治、脳梗塞で死去。74歳。


1975(昭和50)
9/20 姉・佐藤チマ死去。

1977年 (昭和52) 年
「ユリイ嬢にあらわれたストリンドベルクの思想とその態度」(『民主文学』(2月号 解説・箭内 登「小林多喜二の未発表書簡と評論について」)
「口語歌人よ、マルクス主義を!!」(多喜二・百合子研究会『会報』6月号翻刻・解説)
・『文化評論』(77/3)土井大助「若き日の小林多喜二―「三太郎の日記」の著者にあてた新発見「ストリンドベリイ論」その他」
土井大助「若き日の小林多喜二」『文化評論』(3月号)

3/16 多喜二の母・セキ遺品から多喜二新資料みつかる(『赤旗』3/16付 5版) 手塚英孝が『写真集』編集中に2年前に亡くなった多喜二の姉チマのもとに残された母の遺品のなかから発見した。香典帖、アジビラ、雑誌300点など、計700点。共産党小樽地区委員会で保管。のち、大部分を小樽文学館へ寄託。
・手塚英孝編『写真集-小林多喜二-文学とその生涯』(新日本出版社) 
8月、小樽文学館開館プレイベント「小樽文学展」(小樽・丸井デパート4階 )


1978年(昭和53)年
「島田正策『自画像』によせて」(『民主文学』3月号 翻刻・解説)
市立小樽文学館は、1978年(昭53)11月3日に開館した。
・伊豆利彦『日本近代文学研究』(新日本出版社 2月)
・祖父江昭二・解説=「『プロレタリア文化』・『コップ』別巻(戦旗復刻版刊行会)
「覚書四」死去した伊藤ふじ子が所蔵していた多喜二旧蔵1932年5月号『新潮』の表紙に書き込まれていた文が発見される。

8月24日、中野重治は胆嚢癌(たんのうがん)のため死去。77歳。


1980年(昭和55)年
・『小林多喜二初版復刻全集・小林多喜二文学館』(全16巻) 解説監修・蔵原惟人/小田切進 解題・手塚英孝 「伏字・削除復元表」 小田切進(ほるぷ社 4月)
・勝本清一郎「「一九二八年三月十五日」の復元本文について」(『近代文学ノート4』みすず書房 10月)
・『宮本顕治文芸評論選集第1巻』宮本顕治「あとがき」(新日本出版 11月)


1981(昭和56)年
・森熊猛編・伊藤ふじ子遺句集『寒椿』(81年)
12/1 手塚英孝死去。75歳。


1982(昭和57) 年
・小林多喜二著/文浩若訳『防雪林』(山西人民出版社 82)
・武田暹『中津川俊六全集 下巻』(立風書房 10月)
『小林多喜二全集』(全7巻 新日本出版社) 定本版刊行以後判明した新収録文献30数点収録。校訂・解題は手塚英孝氏の仕事を引きつぐ。月報に津田孝の全巻通し解説。

「種子は蒔かれた―小林多喜二は語る」(『小林多喜二全集 第5巻』月報5 11月)
・『手塚英孝著作集第2巻』(新日本出版社 12月)

多喜二年譜―1963-1972

2008-12-14 00:21:26 | 多喜二のあゆみー歿後
1963(昭和38)年
・『言語と文芸』.(63.10)= 伊藤信吉、恩田逸夫、北川冬彦、分銅惇作(座談会)「宮沢賢治と小林多喜二をめぐって」
・楼適夷は「重読『一九二八年三月十五日』―記念小林多喜二殉難三十周年』(『文芸報』63年3月)


1964年(昭和39)年
・小樽商科大学同窓会誌『緑丘』小林多喜二特集(小樽商科大学同窓会緑丘会大阪支部)
「こう変わっているのだ」『位置』(4月号 翻刻・解題大炊絶)


1965(昭和40)年
中野重治、北京・魯迅博物館で魯迅ら「為横死之小林遺族募金啓」(★)を発見。


1966(昭和41)年
大炊絶「翻刻・『今は昔』『詩の公式』(小林多喜二)」(『位置』 11月)


1968(昭和43)年
土井大助「『蟹工船』の原稿みつかる」『赤旗』2/7付
3月 川並秀雄保存の「転形期の人々 断稿」「地区の人々」原稿が発見された。
・浦西和彦「葉山喜樹宛小林多喜二島木健作未発表書簡」(『国文学』(関西大学 3月)
全集編纂委員会編『定本小林多喜二全集』(新書判 全15巻 解題・注手塚英孝)は、青木書店版につづく戦後2番目の多喜二全集として完結。1968年1月から刊行され、69年12月全15巻を刊行し、完結した。第15巻が「多喜二研究」に充てられた。志賀直哉、推薦の言葉を寄せる。補遺・「龍介と乞食」、8刷までに評論「無鉄砲過ぎる期待だろうか?」、書簡5通を追加。
尾崎一雄「あの日この日」(『群像』)多喜二の志賀直哉訪問の時期を特定。
・山下秀之助「『新樹』『クラルテ』『原始林』―小林多喜二のこと」(『文化評論』 4月号)


1970(昭和45)年
・『小林多喜二読本』(啓隆閣 70年)=小林多喜二とのこと(島田正策) 「クラルテ」時代(武田暹) 小林多喜二小伝(手塚英孝) 年譜(手塚英孝) 主要参考文献目録(小林茂夫)

・手塚英孝『小林多喜二』(新日本出版社 初版71定稿73年)
・手塚英孝「<寄託資料紹介>葉山嘉樹の書簡と小林多喜二「蟹工船」の原稿」(『日本近代文学館』 9月)


1972(昭和47)年
・蒔田栄一「小林多喜二と英文学」(『英学史研究』4月)
布野栄一「資料翻刻及び解題ーーある病気のお話」(『国語国文研究』第50号 北海道大学国文学会 10月)

11/15 妹・幸田ツギ死去。

多喜二年譜1946-1961

2008-12-14 00:17:55 | 多喜二のあゆみー歿後
1946(昭和21) 年
1月1日 昭和天皇の「人間宣言」

1月4日 GHQによる軍国主義者などの公職追放令

2月、小樽で「多喜二追悼の夕べ」 多喜二水彩画出品(『北海道新聞』46/2/20付)
宮本百合子「今日の生命」『文学時標』第4号46/3/1)
・平野謙「ひとつの反措定」『新生活』(4~5月号)
・『一九二八年三月十五日・党生活者』(新興出版社 5月 解説・壺井繁治)「党生活者」は、『中央公論』の校正刷りを底本とした初の復元テキスト。

・『新日本文学』(46年7月号)中野重治「批評の人間性」

・小田切秀雄「小林多喜二問題―『党生活者』をめぐって―」(10月)

・江口渙『作家小林多喜二の死』(書房ロゴス)

・日本共産党北海道地方委員会宣伝部編『小林多喜二著作集』(全3巻 創建社書房 46.3)

1947年 (昭和22) 年
民衆書房『党生活者』 ※1933年全集刊行委員会作成の紙型による。

2月、小林多喜二記念の集い(早稲田大学)
手塚英孝は、共産党本部勤務員を辞職し、『小林多喜二全集』編纂に専心することになる。
6/19『アカハタ』で、小林多喜二全集刊行委員会が「防雪林」のノート原稿を発見したことを紹介。『社会評論』(ナウカ社 11・12月合併号、48/1月号に分載)
・伊藤整「小林多喜二の思い出」(『風雪』10月号)
・宮本顕治「小林多喜二の回想」(『前衛』16号)
・手塚英孝「小林多喜二の原稿帳」(『新日本文学』10月号)

1948(昭和23) 年
「監獄部屋」(『労働評論』1月号)
・蔵原惟人、中野重治編『小林多喜二研究』(解放社)年譜・作品年表・参考資料(小田切 進)
・岩郷義雄「小林多喜二の最期を回想して」(『民主評論』 48年2月)
小説「雪の夜」(『文学時標』48年4月発行第2号)1927年1月2日~21日執筆のまま、原稿帳に残され未発表のままとされた作。
・『小林多喜二全集 第2巻』(新日本文学会編 日本評論社発売 9月)から刊行。全11巻、伝記、研究、別冊2巻の予定で刊行されたが、第9巻(1949年6月)で中断された。

・手塚英孝「小林多喜二の文学―防雪林について」(『文学』8月号)
勝本清一郎の手で、もとの第一銀行本店の地下室の貸し金庫に保存されていた「一九二八年三月十五日」の原稿は、20年後の1948年第二巻の底本となった。


「ある改札係」『芸術』(8月号 解説窪川鶴次郎) この原稿は戦争中の1944年に、軍部の圧迫で改造社が解散させられたとき、原稿類の焼却の場に偶然いきあわせた西条憲六に発見され、宮城県石巻市の同家に保存されていたもの。同原稿には、「懸賞短編小説原稿」と記入があり、作者紹介が添えられていた。しかし執筆年月日などはなく、詳細は明らかではない。

川並秀雄編『小林多喜二作品集』(大雅堂)


1949(昭和24)年
第3回 多喜二祭(神田 共立講堂)
※壺井栄「袖ふりあう」(『群像』11巻9号 昭和三一.九.一)に記録あり。

『小林多喜二全集』(新日本文学会) 刊行が順調に進み8冊を出したところで、版元が変わる。当時のアメリカ軍占領軍が、日本の「民主化政策」から、日本をアジアの゛反共の砦゛にするという政策へと転換し、日本共産党員のレッドパージが出版界にも波及し、日本評論社編集局長が追放されたことによる。全集刊行は一時中断した。
初公開「その出発を出発した女」
・立野 信之「小林多喜二―その時代と人間の影像」(『文芸』11、12月号)


1950年 (昭和25) 年
・『新日本文学』(50/2) 座談会小林セキ、小林三吾、江口渙ほか「小林多喜二の死とその前後」

1951年
(昭和26)年
※51年6月 「多喜二・百合子研究会」結成。
手塚 英孝「小林多喜二未発表書簡-16通-」(『新日本文学』6月号)
ヴラスタ・ヒルスカ(プラーグ大学日本語科主任教授)訳 『蟹工船』(チェコ語、人民図書館)


1952(昭和27)年
没後20周年『多喜二と百合子』の刊行 
8月、富士書房から日本評論社版を底本に『小林多喜二全集』(全9巻)再刊。
・『小林多喜二全集』(文庫判全12巻 青木書店 12月)第9巻までは日本評論社版全集の再刊。第9巻に「闘争宣言」を新しく収載。10巻に日記、小説補遺、11巻に書簡集。12巻に詩、(小品、小説補遺、評論補遺)の3巻を加え、全集完結。編纂、解題者は日本評論社版と同じ。


1953年 (昭和28)年
多喜二32年8月22日付「小林家のものへ」(32/12/12京橋局消印)発見(中野重治「新しく発見された多喜二の通信」)
※映画=多喜二原作 山村聡監督「蟹工船」(独立プロ 1953 9/20 北星系公開)
手塚英孝「未発表 小林多喜二より志賀直哉への手紙」(『文庫』 岩波書店12月号)


1954年 (昭和29)年
2月 手塚英孝「多喜二全集の完成」
・多喜二・百合子研究会『年刊多喜二・百合子研究第1集』(河出書房 54年)
青木書店版『小林多喜二全集』。第9巻までは日本評論社版全集の再刊。新たに3巻を加える。


1955年 (昭和30)年
・『日本文学アルバム小林多喜二』(筑摩書房 55年)
・多喜二・百合子研究会『年刊多喜二・百合子研究第2集』(河出書房 55年)= 初期改作過程に示唆されるもの(小原元) 「転形期の人々」についての断片的感想(壷井繁治) 「一九二八年三月十五日」の描写について(金達寿) 「党生活者」をめぐっての感想(西野辰吉) 一つの疑問(佐藤静夫) 多喜二を越え百合子を越え(中島健蔵)


1958(昭和33)年
小林多喜二没後25周年
2月、手塚英孝は、評伝『小林多喜二』(筑摩書房)を刊行。
多喜二没後25周年NHKラジオ番組「多喜二を偲ぶ」。
・『小林多喜二読本』(多喜二・百合子研究会.三一書房、三一新書)= 付:小林多喜二研究主要文献目録
・『多喜二と百合子』(58.7) 小林 セキ 他「小林多喜二をしのぶ」
・布野栄一「小林多喜二の遺稿断片 「防雪林」(改作)/「一九二八年村月十五日」(九章の一部及び十章エピローグ」)資料小考」(『文学』第26巻9号 岩波書店 10月)
『小林多喜二全集 第1巻』(かすが書房)
楼適夷「傑出的革命作家和戦士」(『人民日報』)


1959(昭和34)年
・『小林多喜二全集 第1巻』(世界名作文庫)(全5巻 小林多喜二全集編集委員会.青木書店 59)文庫判全集の合本。著作年譜、「防雪林」ノート断稿、書簡1通を追加。

※一九〇五年の第一次ロシア革命の挿話を映画化したセルゲイ・エイゼンシュテインの名作映画(一九二五年)『戦艦ポチョムキン』(日本には1926年に一度横浜税関にまで到着しながら、当時の天皇制映画検閲によって輸入そのものを禁止され、ソビエト本国に送り返された)は、1959年2月の非劇場自主上映開始。

1960(昭和35)年
・『多喜二と百合子』(10月号) 卞立 強「小林多喜二論」
10月、小林セキ日本共産党に入党。


1961(昭和36)年
※小林セキ死去(5/10)。88歳。
小樽商科大学図書館で、多喜二が書き込みをしたクロポトキン『青年に訴る』第十章翻訳・書き込みが発見される。

多喜二年譜1936-1945

2008-12-14 00:12:53 | 多喜二のあゆみー歿後
1936 (昭和11) 年
斎藤次郎編『小林多喜二日記補遺』(ナウカ社4月) ※日記は、個人的部分がかなり省略されている。「人を殺す犬」を全集補遺として収載。

★文芸懇話会(松本学主宰) 物故文学者慰霊祭で多喜二を排除する。

2月 北条民雄「いのちの初夜」

『人民文庫』創刊 
2月26日 皇道派青年将校が挙兵し、斉藤実内大臣、高橋是蔵相らを殺害(2.26事件)東京で戒厳令布告

・『文学案内』(36年2月)中野重治「『党生活者』の中から」

志賀直哉の創作集『萬暦赤繪』に「小林多喜二への手紙」を収録。

・『小林多喜二日記』(ナウカ社 36年)= 日記1926年-1928年初. 小林多喜二書簡集(補遺) 斎藤次郎への手紙、雨宮庸蔵への手紙、佐藤績への手紙、 小説「人を殺す犬」

・『文学評論』(36/4) 手塚の手紙が窪川によって公表される。

「小林多喜二日記」(『中央公論』3月号)
『小林多喜二日記』(ナウカ社)

・5月 普及版『小林多喜二全集』(第3巻 ナウカ社) =×生活者、地区の人々、沼尻村、転形期の人々、一九二八年三月十五日」


1937(昭和12)年
7月7日 蘆溝橋事件から 日中全面戦争突入

4月 志賀直哉「暗夜行路(終章)」


8月 伊藤整「幽鬼の街」

年末、中野重治、宮本百合子、戸坂潤らは内務省から執筆禁止処分受ける。

9月25日 『蟹工船・不在地主』(新潮文庫)30版。

1938(昭和13) 年
月3日 岡田嘉子、杉本良吉とソ連へ亡命

3月石川達三「生きている兵隊」(「中央公論」発禁)

『小林多喜二短編集』(蟹工船、工場細胞、オルグ、沼尻村)国立芸術文学出版所
(レニングラード 38年)

・長尾桃郎編『小林多喜二随想集』(書物展望社 38年)

8月 火野葦平「麦と兵隊」4月、国家総動員法。

文士の従軍さかん1939(昭和14)年7月、国民徴用令。

※11月29日「唯研事件」(「唯物論研究会関係者治安維持法違反被告事件」)。29日早朝、雑誌『唯物論研究』改め『学芸』にかかわる主要メンバーが一斉検挙されたことに始まる弾圧。このときとその前後に検挙されたのは、岡邦雄、戸坂潤、永田広志、森宏一(本名、杉原圭三)、伊藤至郎、伊豆公夫(赤羽寿)、武田武志(沼田秀郷)、服部之総、信夫清三郎、古在由重ら30余人、映画「母べえ」のモデルとなった新島繁(野上巌)もその一人。「唯研事件」は、40年1月の第2次一斉検挙(本多修郎、今野武雄、岩崎昶ら12人)、さらに2、3千部発行されていた雑誌の購読者にまで数年にわたって追及がつづき、検挙者は総数100人余ともいわれ、完全にはつかまれていない。唯物論研究会は、30年代のはじめに科学的社会主義にもとづく文化運動がはげしく弾圧・解体されていったとき、唯物論の学問的研究のための幅広い研究団体をめざし32年10月に結成された。発起人には長谷川如是閑、三枝博音、羽仁五郎、舩山信一、大塚金之助、住谷悦治ら40人が名を連ねた。月刊誌『唯物論研究』を発行、『唯物論全書』を出版、研究・講演会をひらくなどしたが、弾圧が必至となった38年2月、会の解散を決議、雑誌名を『学芸』に変えた。37年7月、日中全面戦争に突入する段階になると、リベラル派、左翼運動の生き残り部分など文字どおりいっさいの進歩的な言論と運動の圧殺をはかる。事件はこういう状況下でつくりあげられた。裁判では「…日本共産党ノ目的達成ニ寄与…支援スルコトヲ目的トスル唯物論研究会ナル結社ヲ組織シ」(控訴審判決)とこじつけ、44年4月、戸坂、岡に懲役3年、永田に同2年半、森、新島、伊豆、伊藤に同2年の刑が確定した。戸坂は45年8月9日、長野刑務所で、栄養失調で疥癬をやみ腎臓を悪化させ獄死。永田、伊藤も獄中の虐待がもとで戦後間もなく死にました。この事件とは別に三木清は45年、治安維持法違反の被疑者高倉テルをかくまったとして、豊多摩刑務所に収監され、終戦一カ月後9月26日、戸坂と同じく疥癬と腎臓悪化で獄死した。

1939(昭和14)年
新潮文庫の『蟹工船・不在地主』45版がでている。しかし伏せ字が多く意味がとりづらいところがたくさん。
「毎年の例、漁期が終りさうになると、蟹罐詰の『×××』を作ることになってゐた。何時でも、別に××××××××」わけでもなかつた。その度に、漁夫達は監督をひどい事をするものだ、と思つて来た。―××、××××××××××××。『×××××××××××××××××作るものだ。フン、×××××こつたろ。』


1940(昭和15)年紀元2600年行事盛ん。
内務省図書課・警視庁検閲課による出版統制強化。5月 文藝家協会主催の文藝銃後運動の講演会始まる。

1941(昭和16) 年
太平洋戦争始まる。1月8日 東条英機陸相が「戦陣訓」通達

6月 弟・三吾と浩子結婚。浩子の兄は小樽高商の多喜二の後輩。

12月8日 日本軍の真珠湾奇襲・マレー半島上陸、太平洋戦争始まる。


1943(昭和18)年
『金沙』小林多喜二没後10周年記念特集 鹿地亘「死の日の記録」掲載。
「欲しがりません勝つまでは」のスローガンが流行。4月18日 アメリカ軍が東京を初空襲 5月文学報国会結成。シンガポール陥落。

1944(昭和19)年
横浜事件(『中央公論』『改造』などの編集者逮捕)。戦時下の特別高等警察(特高)が引き起こした大規模な言論弾圧事件。評論家の細川嘉六氏(戦後、日本共産党参院議員)が雑誌『改造』1942年8月・9月号に執筆した論文が共産主義の宣伝にあたるなどとして、特高が同氏を検挙。同氏が富山県で開いた宴会を「共産党の再建準備」などとでっち上げ、出席した研究者や編集者約60人が治安維持法違反容疑で逮捕されました。このうち拷問などで4人が死亡、30数人が起訴され、終戦後の45年9月ごろにかけて有罪判決を受けた。

10月25日 神風特攻隊編成。南京で第3回大東亜文学者大会。

※『現地調査書』(昭和19年度)と印刷された報告書。発行は日魯漁業>内容は操業報告とは無関係のカムチャツカとその近海の現状報告。海岸や陸地の状況のほか、兵力配置・防備施設・軍の内情・ソビエト軍艦艇の行動などが、詳細をきわめた統計表や地形図とともに記されている。「帝国哨戒艦(駆潜艇)ソ領海内ニ入リ沈没セル邦船神明丸付近ニ至リ再ビ公海ニ出タルヲ隊長発見シ之ニ追跡セントセルガ当方ノ妨害ニ遇ヒ追跡ヲ断念」 という記述や、ソビエト側の 「日本護送船(七〇噸級)ソ連領海一・八浬ニ侵入約一〇分間領海内ニアリ、該船ハ機銃二門ヲ装ス。本日海上静穏視界三〇浬」といった記録。『蟹工船』(小林多喜二)の記述「この辺の海、北樺太、千島の付近まで詳細に測量したり気候を調べたりする」のが日本の「大目的」なのだを実証。



1945 (昭和20) 年
4月、同盟通信社記者・蒔田栄一が保管してきた多喜二書簡約100通を焼く。
5月東京の小林三吾宅が空襲で被災。多喜二の残した資料を焼失。大竹博吉保管原稿も焼失。


※8/15 大日本帝国政府、連合軍に無条件降伏。文学報国会解散 10/15 治安維持法撤廃

・『朝日新聞』(45/10/16)江口渙「多喜二は虐殺された」

12月 宮本百合子「歌声よおこれ」、

新日本文学会結成

多喜二年譜1934-1935

2008-12-14 00:07:59 | 多喜二のあゆみー歿後

1934(昭和9)年
2月19日 共産党中央委員野呂栄太郎が品川署の留置場で拷問され殺される。
日本プロレタリア作家同盟解散声明。
5月 村山知義「白夜」、本庄睦男「白い壁」、窪川稲子「恐怖」、川端康成「文学的自叙伝」

芥川賞・直木賞設定。

『新潮』編集者・楢崎勤宛1929年11月4日付書簡(『文芸通信』 10月号 初出)

1935(昭和10)年

転向文学流行。中村光夫「転向作家論」

志賀直哉は貴司山治のインタビューに答え多喜二の文学と人間を語る(「志賀直哉氏の文学縦横談」)「多喜二君の作品」を収録。

1935年1月15日、貴司山治は中野重治とナウカ社に出向き、大竹社主と面談。多喜二全集を小説のみ3巻で出すこと。一冊650ページ程度。4/6版 1円50銭、初版1000部、印税1割。刊行会への申し込み200名、一人につき第1冊と第2冊を1円20銭に割り引くことなどを決め、その編集に佐野順一郎を当たらせる。(以上 貴司山治日記より)



・3月『小林多喜二全集』(第1巻 ナウカ社) =第1巻 蟹工船 他25篇

4月宮本百合子「乳房」5月中野重治「村の家」7月25日 モスクワで第7回コミンテルン大会開催。人民戦線を戦術に採択

・5月『小林多喜二全集』(第2巻 ナウカ社)=不在地主、工場細胞、オルグ、安子
・6月『小林多喜二全集』(第3巻 ナウカ社) =×生活者、地区の人々、沼尻村、転形期の人々、一九二八年三月十五日」

「党生活者」は、『中央公論』の校正刷りを底本として、伏字を復元した完全な校正刷りを数部つくり、別々の場所に分けて保存した。その一部は中野重治にわたり、現在小樽文学館に保存されている。4部作成された『中央公論』の校正刷りの1部は徳永家蔵。

・8月『小林多喜二書簡集』(ナウカ社 35年)=付録・年譜
※貴司山治の回想「一九三五年に、私は幸い又自由をとりもどしたので、一存でやはりこの『党委託』の仕事をつづけることにきめ、ナウカ社を発行所として、小林多喜二全集を小説だけ三冊、論文はどうしても出せそうもないのでのこし、代わりに書簡集、日記各一冊を編さんして、合計五冊を刊行した。この発行部数合計約二万である。」(「『小林多喜二全集』の歴史)『小林多喜二全集月報3』(1949/6)

モスクワに滞在中の土方与志、佐野碩編集の日本語版『一九二八年三月十五日』『蟹工船』『戦い』『飴玉闘争』『壁に貼られた写真』『沼尻村』がモスクワ外国労働者出版所で出版された。

『社会評論』(ナウカ社3月)創刊号に、「ある役割」再録。

多喜二とともに捕らえられ拷問を受け左足に重い障害を負っていた今村恒夫はさらに肺・腎臓・膀胱結核を併発、病状悪化により1935年執行停止で出獄。一時、中野重治宅に身を寄せていたが、本田延三郎に付き添われて、郷里、熊本・千手村に帰郷。1936年12月9日死去。26歳。


宮本百合子『冬を越す蕾』